切り裂かれた幸せ
ロルカルロ盆地。イゾルド山より東に広がるステップ地帯の正式な名称である。
ステップは、大きな視点で俯瞰すれば盆地状の地形となっており、この広い世界では盆地の名の方が知れ渡っていた。
この地方はともかく空気が乾燥している。降水量が少なく、一月の間まったく雨が降らないこともある。そのため、暑い季節は恐ろしく暑い。湿気が殆どないため汗はそれほど掻かないが、それだけに体の水分があっという間に奪われる。
また一転して寒い季節は、まさに底冷えするような寒さとなり、濡れた布を振り回せば一瞬にして凍る程である。
産業は、牧畜が盛んであり、ウマにウシにヤギやヒツジ、これら家畜がステップの至る所で放牧されていた。
この地域で牧畜を営む者は固定の住居を持たない。「遊牧民」と呼ばれる彼らは、テントのような移動式の住居・ユルトを張り、家畜が食む草を求めてステップの各所を、季節が変わる折に回っている。
彼ら遊牧民だが、ステップを回るルートを実は決めている。牧草のある場所を手当たり次第探しているわけではなく、家族ごとに決まった巡回ルートを沿い、同じ牧畜を営む者との競合を防いでいる。
動物の持つ縄張りにそれは似ているかもしれない。さて、ここはそのステップを俯瞰し、北東のとある場所。
「うーん……」
朝、ユルトから現れた一人の青年が、東に昇る御日様に向かって背伸びをした。
今日も蒼穹の空が広がり、眩しい朝日が青年を照らす。
彼の服装は変わっていた。ここ西方でも着物を着るワラビほどではないが、襟元がカラフルな柄のゆったりとした上着を着て、頭には「テュベテイカ」と呼ばれるこれまた柄の付いた帽子を被っている。
遊牧民らしい服装であった。そんな彼が大地を見渡せば、まだ眠っているヒツジがいて、起きてむしゃむしゃと草を食むヒツジもいる。ヒツジ飼いの彼にとっての光景が、今日も草原に広がっていた。
「おはよー、お父さん」
元気の良い声が草原に響いた。青年を追って、彼の娘がユルトから出て来た。
青年の膝にも満たない背丈の子供。羊毛のセーターに身を包み、つぶらな瞳がとても可愛らしい。
「お父さん、わたしの作ったヨーグルトができたよ。さっきちょっと食べたら、うんとおいしかった!」
「おっ、もう出来たのか。じゃあさっそくもらおうかな」
「うん! 食べて食べて! それとね、さっきお母さんのおなかを触ったら、赤ちゃんが動いたの」
「そうか。お前もそろそろお姉ちゃんだな。そろそろ名前を決めないとならないな」
「わたしが決めるから! お姉ちゃんになる私が決めるんだから!」
「ハハハッ、ならお前に任せるとするか。いい名前を考えてくれよ」
ヒツジ飼いの青年には、もう直ぐ二人目の子供が生まれる。性別は女の子と占いでは聞いていた。
名前は決めかねていた。そこへ、娘が自分で決めると言い出したものだから、それも良いかと青年が笑った。
そして、娘が初めて作ったヨーグルトの味を楽しみに、彼がユルトへ戻ろうとする。ところが、この幸せな平穏を、切り裂く悲痛な叫びが突如として上がる。
――メエェェェェ!
ヒツジの悲鳴が聞こえた。とっさに青年が後ろを振り返る。
「なっ、なんだ」
振り向くと、遠くでは一頭のヒツジが横に伏せていた。
呼応するように逃げ惑う他のヒツジ達。倒れているヒツジのそばには、黒い装いをした三人のヒトが立っている。
この三人は不気味の一言に尽きた。長身で、全身がともかく黒い。顔は黒い布で包んでいるのか窺えず、鉈に似た黒剣を持っている。
すかさず牧羊犬が現れ、三人に襲い掛かる。だが、一人が剣を払って軽くイヌを屠り、更にもう一人が、息も絶え絶えなヒツジから剣を引き抜き、止めとばかりに血に塗れた剣でヒツジの頭を潰す。
「お父さん、怖い……」
「おいっ! あんたら、ウチのヒツジを殺したりしてどういうことだ!」
果敢にも詰め寄る青年。だが、近付くにつれ青年は、三人の異様な姿に驚いた。
三人は甲冑にて身を固めていた。黒光りする鎧に、騎士が被るような丸い兜にて頭を覆っている。
黒くて丸い兜には、触覚に似た飾りがあり、長身の割に身が細い。そして、最も驚いたことは「四本の腕」である。細くて長い虫の脚のような腕が、両肩から二対、三人そろって備わっている。
兜が顔を隠し、近くでも表情を窺えない。そんなヒトと呼んで良いのか分からない不気味な三人が、厚い剣を握って青年を見下している。
「……逃げろ、逃げるんだ! 早く母さんを連れて逃げろ!」
振り返った青年が娘に向かって叫んだ。兜の中に隠れた、凍てつくような視線を感じて。
そして、こいつらを放っておいたら危険だ。そう本能で感じ取った青年が、少しでも食い止めようと一人に体当たりをした。だが、
「なにっ!?」
その者はびくともせず、体当たりに平然としていた。
断っておくが、青年は力の限りぶちかました。手加減なんかしていない。
「ま、まさか……」
打ちひしがれながらも青年が、三人の窺えない顔を見上げてある話を思い出した。
しかし、信じられなかった。「あれ」はあくまで昔話。今この世にいるなんて、青年は聞いたことがなかった。
だが、その外見は伝え聞く通り。あまりにも酷似している。
「本当に、あ、“アリ”、なのか……?」
有り得ない存在との対面に、青年が困惑している。そこへ、
「……あ、ぐっ」
青年が、ヒツジを殺した一人に、その鉈のような黒剣で腹を貫かれた。
膝を落とす青年。剣が引き抜かれ、腹から腸がずるりと身を曝す。
「やだっ! お父さん!」
後ろの娘が悲鳴を上げた。
残る二人が、泣き喚く娘と、身重の妻がいるユルトへ走る。これに口から血を吐く青年が、残された力を振り絞って「逃げろ」と叫ぶが、間もなくして斬られ、口を封じられた。
※この章の内容はR15となります。




