躍る巨獣
轟く雄叫びを上げた藍色の暴君が、一転して静かに獲物を見据えた。
王者の余裕からか、はたまたこの獣が持つ性質なのか。いずれにしろ見つめる先はワラビだ。叩き付けられたワラビは、大樹の根にぐったりと体を預けていた。
暴君が、猛獣とは思えない静けさで、ゆっくりと大きな前脚を地に着け、湾曲した爪を土に喰い込ませる。
そして、暴君が自らの静けさを破った。大きく唸りを上げ、まずは一匹、確実に喰らおうと、大口を上げながら巨体を前へと弾ませた。
しかしあなたがそれを許さなかった。すかさず剣を抜き、暴君の前に立ち塞がる。
眉間に鼻、胸に首元。クマの弱点についてこの程度は知っているあなたが、最も狙いやすい鼻を払いにかかった。
だが、暴君があなたの斬撃を捌いた。その湾曲した爪を巧みに使い、あなたが振り払った剣の軌道を逸らした。
諦めずにあなたが盾で、暴君の鼻を撃とうとするが、これも暴君が腕で防ぐ。
対峙したあなたと暴君。一撃こそ与えられなかったが、暴君の意識をワラビから逸らすことには成功した。
しかし、眼前の敵の手強さをあなたが思い知る。再び暴君が立ち上がった。一見すると棒立ちの格好だが、これにあなたが攻めあぐねた。
理由は弱点を攻めづらくなったからである。鼻や眉間は狙えず、首も届かない。唯一胸だけは突けるが、これを成すには暴君の豪腕を掻い潜らなければならない。
弱点以外を狙うのは愚行だ。クマという生物は獣の中でも最上級の重厚さを誇り、迂闊に近付けば、その最上級の反撃を喰らう。
更に、目の前の敵はクマの中でも規格外の存在。あなたを覆い尽くす影が、あなたに焦りを覚えさせる。
「アンタ! 撃つぞ!」
ジュリアが暴君の胸に向かって矢を放つ。確かに弩なら反撃を喰らわない。だが、
「なっ、効かねえ……」
暴君は平然としていた。矢は刺さることは刺さったが、暴君の分厚い胸板を貫くには至らなかった。
声を呑むあなたとジュリア。そして、暴君が腕を振り下ろす。あなたが咄嗟に盾を構えて防ぐが、上から打ち下ろされる暴君の打撃はとても受け切れられるものではなかった。
転んだあなたを一瞥し、ワラビの方へ向き直る藍色の暴君。
暴君からしてみれば、鎧を纏うあなたは不味そうだ。小さくて食べやすそうな、ワラビに迫るのは当然だった。
しかし、ワラビはそこにいなくて――。
――“僕をなめんなよ! 僕はこの世で一番怖いんだぞ!”
“泣かせてやる。うんと怖いオバケになって、僕の恐ろしさを教えてやる”
“空を飛べないニンゲンめ、僕のオシリを眺めてるがいいさ”――
「――“悪戯”!」
変わった呪文の魔法をジュリアが唱えた次の瞬間、藍色の暴君が急にもがき始めた。
あなたがすかさず立ち上がる。すると、タマネギを切ったときに感じる辛さと例えるべきか。そのようなむず痒い刺激が漂っていてあなたが目を覆う。
「ダメだアンタ! 一旦逃げよう!」
ワラビを背負ったジュリアが、あなたの手を引っ張った。
ジュリアが唱えた悪戯とは、催涙効果のある気体を噴射する護身用の魔法である。主に逃走用に使われ、敵が視覚に頼る獣なら大抵は効くが、あまり長持ちするものではない。
依然として暴君はもがいており、あなたたちはこの隙に、目の痒みに耐えながら戦う選択肢もある。だが、戦うならあなたとジュリアは、いずれ立ち直る暴君相手に、ワラビという弱点を背負いながら戦わなければならない。
歯痒いが逃げるしかなかった。あなたがワラビの背嚢を抱え、あなたたちは来た道を引き返した。
***
「はあ、はあ……。こ、ここまで走れば、あいつも追ってこないだろう」
一頻り走ったところで、あなたたちは足を止めた。
まずはワラビだ。息を急き切るジュリアが、背負うワラビに容態を尋ねる。
「おいワラビ。生きてるか?」
「うぅ……、い、いたい、体が痛いよ……」
震えるワラビは、苦悶の表情を浮かべていた。
かなり強く樹に体を打ち付けた。よくて打撲、悪ければ脱臼、骨を折ったかもしれない。
「ごめん……」
「気にすんな。さあ、もっと逃げるぞ」
しかし、その時だ。控えめな地震のような振動が、逃げた道から伝わり、
「……そんなっ! アンタッ、後ろだ! 後ろを見ろ!」
それを感じ取ったジュリアが、信じられないといった顔で絶叫した。
窮地は続いた。暴君は諦めていなかった。遠くから、その巨体を激しく揺らし、あなたたちに追い付かんと道を驀進していた。
「ジュリア、降ろして。わたしも、戦う……」
「ばかっ! その体で何ができんだよ! あたしが何とかするからおまえは大人しくしてろ!」
今の叱りに、あなたは違和感を覚えた。
ジュリアは「あたし」と言った。「あたしたち」ではなかった。そんなあなたの疑問をよそに、ジュリアが決死の覚悟であなたに提案する。
「アンタ、ワラビを頼んでいいか? あたしがあのクマ引きつけるから」
信じられないことをけろりと吐いた。この赤い髪の女の子は、自らが囮になると言う。
ワラビが「だめ!」と叫ぶがジュリアは聞かない。確かに固まって逃げるよりは、二手に分かれた方が逃れやすいだろう。
しかし、これを受けてはあなたのメンツが丸潰れだ。二人を守るのはあなたの役目。だからあなたが、自分が引きつけるからジュリアがワラビを連れて逃げろ、といった旨をジュリアに告げる。
だがジュリアは、少し笑って、
「心配すんなって。あたしには“悪戯”があるからさ、なんとか逃げおおせてみせるよ」
決して捨て鉢になっている訳ではないことをあなたに伝えた。
それでもあなたは、ジュリアの提案を受け入れ難かった。
その理由は血液の消費による。ジュリアが唱えられる悪戯及び雷巣は、血液の消耗が激しく、飲まず食わずでは二回が限界らしい。
一般的には、ヒトの体に流れる全血液の三分の一が失われると、皮膚が蒼白し、意識が眩み始める。さらに二分の一が失われると、意識が混濁し、生命の危機に陥る。
悪戯及び雷巣は、二度唱えると三分の一手前まで血を失う。ジュリアは以前この二つを二回唱えたことがあるらしいが、すると体が冷たくなり、立つのも辛くなる、とあなたに言っていた。
つまり、悪戯はあと一回。そして引き付けているうちに残る一回も使うだろう。
やはり、ジュリアが無事に逃げ果せられるか怪しい。あなたが剣を抜き、死を覚悟して暴君に臨む。
ジュリアもあなたの覚悟を察し、何も言わずにクロスボウを持つ。だが、
「アウッ!」
構えるあなたのそばを、見たことのある白黒の大きなイヌが駆け抜けた。
そして、走る暴君の前に躍り出たイヌが、ハエのような鬱陶しさで暴君の周りを跳ね回る。時おり飛び掛かる振りもし、イヌが暴君の意識をあなたたちから逸らす。
「おいっ! 無事か!?」
続いて遠くから、聞き覚えのある男の声があなたたちに呼びかけた。
後ろを振り返ると、クマの毛皮を被った大きな男二人が、こちらに向かって走って来ている。ワラビとジュリアが鼻を明かそうと考えていた、あの猟師の兄弟だった。
「クッ、雄叫びが聞こえたから来てみれば!」
「余計な手間を掛けさせやがって! だから帰って寝てろって言ったじゃねえか! 俺はな、若え女が死ぬところなんざ見たかねえんだよ!」
弟の方があなたたちを庇うようにして立つなり、あなたたちを叱った。
兄が弓に矢を番え、弟が槍を構える。猟師の兄弟はもう、臨戦態勢に入っている。
「さあ来やがれクマ公! クマ鍋にしてやんぜ!」
「何をまごまごしている! まさか加勢しようと思ってるんじゃないだろうな!? いいから俺達に任せて早く逃げろ、足手まといだ!」
足手まとい。痛烈な言葉を兄の方から浴びせられた。
だが、事実は事実として受け止めなければならない。あなたたちは暴君に負けた。本来なら殺されて然るべきところを、間一髪助けられたのだ。
余計なことは考えず、拾った命を大事にするべきだろう。後ろ髪を引かれながらも、あなたたちは礼をして走り逃げた。
こうして、猟師の兄弟のおかげであなたたちは、九死に一生を得た。




