蝿の王
聖地・シェラザード。かつての宗教国家・ムーダイトが首府と定めた地であり、現在はバルキダッカ大陸最大の都、いや、聖域である。
ユディーシティラ、ピマ、アージュナ、ナックラー、サハンディヴァ。このバルキダッカ大陸に群立する五つの国は、ナンナ神を至上の神と崇める宗教、ナンナ教を基とした盟約を結んでいた。
各国の意思は概ね統一されている。ナンナ神を唯一と敬い、ナンナの教えを広めること。この至上主義は、五年前にある男が「同じ神を崇めるのに国境など無用」と宣言したことにより、一つの意志へと融合しようとしている。
つまり、先の五国は、ナンナ教を国教とした一つの国に生まれ変わろうとしている。政教一致型の国家樹立、それはまさしくムーダイトの再来――。
「おはようございます、“教父”様」
「きょうふさまー」
溢れんばかりの朝日が降り注ぐ石畳の道で、冠を被った老人が、声を掛けた母親とその子供に優しく手を振った。
「ほっほ。子供はいつ見てもよいものだ」
老人が歩きながら挨拶した子供を想い、皺くちゃな笑みを浮かべる。
側に仕える神父が恭しく首を縦に振る。老人の名はエヌーと言い、自らをナンナ神より託宣を受けた預言者、と自称している。
そして、かつてのムーダイト、即ちバルキダッカ大陸を治めたナルシャマーム家の傍流・ラマイヤ家の末裔にして、ナンナ神を奉る宗教団体「蝿の衆徒」の宗主であり、先の五国を統べる最高権力者である。
この老人が神に身を捧げたきっかけは、少年時代まで遡る。
彼は貧しい家庭に生を受け、その上に親を流行り病で亡くした。ラマイヤ家の血を引くと言ったが、その栄光など剣士によって疾うの昔に滅ぼされており、貧しい上に親まで亡くした彼は、神など祈っても腹は膨れない、神など祈っても親は帰って来ない、と神を信じていなかった。
彼を引き取る者もおらず、ただ生きる為だけに彼は糧を探した。食べれる物はないか。そう毎日ゴミを漁り、たまに裕福な家庭が目に留まれば、なぜ自分だけが惨めな思いをしなければ、と神を恨んでもいた。
神を蔑んでいた。しかしそんな天涯孤独の彼に、心洗われる転機が訪れる。いつも通り腹を空かせていたある日、なんと神が、天より降りて来たのだ。
万人を惹きつけるこの上なき容姿、安らぎを与える微笑み、何よりも、天使が如き羽を生やす神の姿に、彼は息を呑むしかなかった。
戸惑う彼を、神は優しく抱擁した。そして腹の虫を鳴らした彼に、神は「食べなさい」と、懐から食べ物を差し出した。
人心地着いたところで彼が神に訴える。「この世は不公平じゃないか」と。すると神は告げた。「貴方が公平にすればいいのです」と。
神のお告げに彼は涙し、心に誓った。行いを改め、ナンナ教の信者として彼は生まれ変わった。
親が熱心な信者だった縁もあり、彼の入信は受け入れられた。
しかし彼は現実を知る。当時のナンナ教はあまりにも腐敗しており、神の名の下に貧しい信者から搾取し、罪なき弱者を私怨で異端者と決めつけては処刑する。歳を経る毎に彼は、指導者の横暴な実態に気付き、激しい怒りを抱いた。
寄進が足りなければ信者を奴隷として売り、聖なる神殿に女性信者を呼び込んでは性交に及ぶ有り様であった。在りし日に見た神に背く行為、彼は指導者たちを糾弾した。
だが失敗、彼は破門される。そして処刑を宣告されるが、彼はどうにか逃げ延びる。
彼は潜伏した。幼きころ培った家無き暮らしの経験を生かし、追及の手から逃れながら、指導者たちの専横を彼は貧しい信者に説いて回った。
すべては薄汚いハエの如き自分を、慈しんだ神のために。
己だけが目の当たりにした神の姿、これが彼の糧となった。清廉にして潔癖な彼は、あの日抱かれた神の温もりを頼りに、五年、十年、二十年と、粘り強く真の布教を続けた。
やがて彼に感化され、彼の元には貧しい信者を始めとした様々な者が集まる。
彼がラマイヤ家の末裔であった事も幸いした。そうして彼を長としたナンナ教一派、蝿の衆徒が結成された。
そして年月が経過し、蝿の衆徒の弛まぬ広報により、当時の指導者たちに翳りが現れ始める。
不満があちこちで噴出し、腐敗に抗う信者への抑えが効かなくなっていた。これに対する処断も徐々に苛烈なものになり、この指導者たちの焦りを知った彼は、満を持して自身を慕う信徒たちに、神の名を騙る畜生に天罰を下せ、と命じた。
数年に及んだ闘争の末、彼の率いる蝿の衆徒がナンナ教の中枢を掌握する。そして新たな指導者の座に就いた彼は、神を汚したかつての指導者を、血族含めて悉く処分した。
「教父様」
側近を連れて歩くエヌーの前に、黒衣の男が現れ、恭しく傅いた。
「おお、モート君。いま帰って来たのかね?」
「はい。ただいま布教より戻りました」
黒衣の男、モートが面を上げた。
忠実にして勤勉、分け隔てなく愛と平等を説くこの若者を、エヌーは殊のほか可愛がっている。
エヌーは一時期、この若者を自分の後継者として育てるべきか、と考えていた頃がある。
「モート君。その首と左手、一体どうした?」
モートの首と左手には包帯が巻かれていた。
シスイが斬り、ジュリアが撃ったものだが、この老人が知る由もない。したがってどうしたのか、とエヌーが問う。
だがモートは、その虫も殺さぬような顔を綻ばせ、
「いえ、大した傷ではありません」
「そうか。ならいいが、万一ということもある。医者に診てもらうか?」
「大丈夫です。もうほぼ完治しておりますから。気にしてくださり、ありがとうございます」
エヌーの気遣いを断った。
「モート君、君の話をさっそく聴きたいのだが、これから会議がある。悪いが後ほど聞かせてくれ」
「ハッ」
跪くモートが再び頭を垂れ、それを確認したエヌーが、側近を連れてこの場を去る。
程なくしてモートが立ち上がり、エヌー達を見送る。しかし、
「……ぐっ」
ぶり返す首の痛みと、消えぬ左手の痛みが、モートに呻き声を上げさせる。
(くそっ。僕としたことが……)
彼は女など、己の欲を満たす為の道具と見做していた。
その女にしてやられた。もうこの傷が消える事はないだろう。今の彼は屈辱に塗れ、忸怩たる思いに駆られていた。
だからエヌーの前では痛みを我慢した。この恥を曝す訳にはいかない。そもそも彼は女に限らず、他人など押し並べて道具、いや、下僕と見做している。そこへ、
「どうしたモート。死相が見えているぞ」
腹の出た、中年の肌が濃い男が、脂汗を掻くモートをからかうようにして呼んだ。
「……これは、“ドミトリィ”様。お久しぶりです」
「おいおい、俺とお前の仲じゃあないか。いくら久々だからって“様”はねえだろ?」
「いやいや、“七芒星”の一人である貴方を敬うのは当然です」
「フッ、相変わらずネコを被りおって。腹の底じゃ俺が憎いんだろう? ああ?」
中年の男が、光る金歯を見せながら、モートの横っ面を軽く叩いた。
公衆の面前で男を叩いた。血気盛んな男なら殴り合いになるだろう。けれどモートは、少し目を尖らせただけで手打ちとした。
落ち着かんと息を吐くモートに、それをニヤニヤと見下す中年の男。モートと、このドミトリィと名乗る男は、腹の底では互いに蔑み合っているが、表では利害の一致から協力する、悪い意味でのビジネスライクな間柄である。
ドミトリィが金歯を見せながら訊く。
「で、どうだ? 首尾よく運んだか?」
「はい。ドミトリィ様の言いつけに従い、ニャンフンルルに住む難民を強制送還させました」
「ほう、相変わらず仕事は出来るじゃないか。難しいと思ったんだがな」
「何を言っているのですか、ドミトリィ様の方こそ裏から手を回していたのでしょう。マオウの草を基に、麻薬を広めた後に唆した程度で、あんなに軍人が乗って来るとは思いもしませんでしたよ」
「ハハハッ、何を言ってやがる。そもそもハルシエシスって国ではよ、難民の保護を決定したとき地元民からの相当な反発が起きたんだ。お前も難民の惨めな暮らしを目にしてるだろう? ありゃ地元民の排斥運動の結果よ」
「またまた。ニャンフンルルでドミトリィ様の手の者を見かけましたよ。地元民のふりをさせ、煽らせていたのではないのですか?」
「ハハハ、目聡いじゃないか。そもそも難民なんてものはな、どこ行っても嫌われるもんよ。あいつら初めこそ下手に出るが、そのうち金だ権利だと固まってわめき始めるからな。だから俺はきっかけを作ってやったに過ぎねえ、手を回さなくてもいずれ追い出されただろうよ」
「……フッ、哀れな」
モートとドミトリィが、声を抑えて憫笑した。
「ルガルパンダとは既に話をつけてある。数日もすれば大忙しになるぞ」
「陰ながらお手伝いします」
「なんだ、お前は呼んでないが」
「呼んでいるように聞こえましたが」
「ウハハっ、敢えて呼んだように言ったんだよマヌケが。……まあいい、手伝わせてやろう。あの爺の跡を継げなくなった以上、お前は金が欲しいだろうからなぁ」
「…………」
「報われんなぁ、あれだけゴマ擦ったのに。ま、お前が裏でこそこそと働いてきた悪事への天罰だな。ナンナ神はちゃんと見てるぜ、なあ?」
ドミトリィが、不承ながらも己に従うモートを見てほくそ笑んだ。
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