砂浜の街道
はるか彼方の水平線に広がる、真っ白で雄大な雲。
それは、もこもことしてふわふわとして、例えるなら雪のようで綿のよう。あれがやがて灰色に変わり、雨を降らし雷を呼ぶなんて言われても、にわかには信じ難い。
陽気は暑くもなければ寒くもなかった。心地よい涼しさである。
不意に香る潮風が『あなた』の鼻をくすぐる。緩やかに広がる波が砂浜を侵食しては引く。
「ねえ見て! イルカだよ! イルカがジャンプしてる!」
その、とびきり元気な声に海を望めば、一匹のイルカが高く飛んでいた。
そしてイルカが弧を描くように翻り、水面に帰る様に少女が興奮している。
「すごいね! イルカってあんなに高く飛ぶんだ! まさか今日イルカを見れるなんて思ってもなかったよ!」
はしゃぐ少女の名前は『ワラビ』と言う。あなたと一緒に旅をする女の子だ。
彼女は変わっていた。何が、というと服装である。彼女は「着物」と呼ばれる衣装をいつも着ていた。
着物とは、遥か東の果てに住む人々が着る服で、言うなれば民族衣装だ。その袖が大きく裾が膝より長い変わった衣装を、彼女は上手に着こなしていた。
また、使う武器も変わっていた。彼女の得物は「刀」と呼ばれ、これも主に東のヒトが使う武器である。
刀は、剣のようでいて諸刃の剣とは違う、片刃の反った剣身が特徴的な武器だ。その変わった得物を彼女は、長いもの一振りと短いもの二振りを、それぞれ背と腰の左右に携えていた。
この事から、彼女の出自が東方であることが窺え、現に彼女も遥か東から来たと言っていた。そのほか外見的な特徴として、着物の大きな袖が運動の邪魔にならないように、「たすき」と呼ばれる長い紐を、袖を巻き込むような形で体に縛っている。また髪形は、長い黒髪を「かんざし」と呼ばれる髪留めで後ろにまとめ、「ぱっつん」な前髪と長く垂れたもみあげが、彼女のちょっとしたポイントとなっている。
「あっ、あれが灯台かな」
ワラビが指した岬の先には、円筒状の建物が建っていた。
灯台が見えればもう少し。そう北の町であなたたちは聞いていた。
いま砂浜の街道を南へ歩くあなたたちは、辺境の漁村・ユーダリールに向かっている。
ユーダリールは、この世界の西の果てに位置する小さな漁村なのだが、冒険者には聖地と崇められており、遠い昔に「魔王」が世を支配しようと企てていた頃、その野望を打破した勇敢なる者「勇者」が生まれた地でもある。
故に、伝説の勇者にあやかろうと、ユーダリールには数々の冒険者が訪れていた。そして旅をするあなたたちも、旅の無事を祈願しようとユーダリールに向かっている。
「網だ。ユーダリールって本当に漁村なんだね」
道の脇に広げられた漁網。使い込まれたそれをワラビが見てつぶやいた。
このワラビという女の子、もう一度述べるが出身は遥か東である。よって、あなたとは食べてきた物や見てきた物、価値観が異なっている。
しばらく歩くと、前方に集落がうっすらと望める。また、漁村特有の磯臭さが、いささか強くなった気もする。
ユーダリールまであと少し。あなたたちが更に進むと、
「うん? ……ネコだ」
集落の方から走って来るネコを、あなたたちは見つけた。
砂浜を走るネコは何かをくわえており、あなたが目を凝らすと、それは魚であった。
間もなくしてネコが、あなたたちの横を駆け抜ける。誰かが釣ったのを盗んだのか。いずれにしろよくある光景で、あなたは気にしなかった。
だが、ワラビにはハマっていた。砂浜を蹴るネコの後ろ姿を眺め、「これで誰かが追いかけてればカンペキなのに」と笑い続けていた。
一人で腹を抱えるワラビが、あなたには分からなかった。
***
ワラビの故郷では、「マンガ」と呼ばれる娯楽が古くから親しまれているらしい。
マンガとはワラビ曰く、台詞を添えた絵を連ね綴じた、軽妙な物語が描かれた本のようである。先ほどのネコは、そのマンガのワンシーンに酷似したために、ワラビは笑ったようだった。
そのマンガについてあなたは知らない。「えっ、“アサリさん”知らないの?」とワラビに驚かれながら、あなたたちはユーダリールに到着した。
「あっ、おままごとしてる。かわいー」
穏やかな波が寄せては引く砂浜で、ままごとをする女の子にワラビがほほえんだ。
沖を望めば、海は陽の光を受けてまぶしく輝いている。その海の上を、漁師が舟の上から網を手繰り寄せていた。
集落の方では、ベンチに腰を掛ける老人がひなたぼっこをしている。洗濯物は潮風に吹かれ、魚は開き干しにされている。
そしてネコが多い。今もしっぽを立てたネコが、道の真ん中を我が物顔で歩いている。そんな余生を過ごすにはちょうど良い風情の、のんびりとした村をあなたたちが眺めていると、
「なああんたたち、なかなか見慣れない格好をしているねぇ。旅人さんかい?」
エプロン姿の、恰幅の良いオバさんがあなたたちに訊いた。
「あっ、はい」
ワラビが答え、そんな彼女の素直な返事に、エプロン姿のオバさんがニコニコと喜んだ。
それから「よく来たねぇ、こんな辺境の村に」と、オバさんが歓迎を表す。あなたたちは外部の者、つまり余所者だ。警戒しないのか。しかしここは冒険者の聖地であり、この笑みを絶やさぬ人当たりの良いオバさんは、今まで数え切れぬほどの冒険者や旅人を相手にし、粗野な者とも渡り合ってきた為に慣れているのだろう。
また、ワラビの見た目はあどけなく、とても話しかけやすい。だからかオバさんが優しく、
「それにしてもまたかわいい旅人さんだねぇ。女の子だから気をつけるんだよ」
と言ってワラビを気遣った。
言われたワラビは照れていた。頬に手を当て、「やだ、もう、恥ずかしい」なんて言い、明らかに喜んでいる。
しかしあなたがワラビの顔を見る。二重まぶたの目はつぶらで、可愛いといえば可愛いのだが、背は低くて顔は丸くて大きめで、正直、十六歳にしては幼い。
子ども扱いされていることに気付いていないのか。だが、水を差すのも何なので放っておくことにし、あなたが早速この村に来た目的である、「勇者の像」がある場所をオバさんに尋ねる。
「はいはい。わたしゃ像の場所を訊いてくると思って話しかけたんだ。像の所まで連れてってやるよ。ついでにこの村で、いっぱい買い物していってね」
村の宣伝を忘れないオバさんの案内で歩くこと直ぐ。あなたたちは勇者の像と対面した。
勇者は伝説だ。その剣筋はいかなる物も切り裂き、その諦めない眼が魔王を恐れさせたと聞く。
勇者がいたからこそ今の平和がある。どんな勇ましい姿をしているのだろう。そうあなたは胸をときめかせ、大いに期待していた。だが、剣を天に向かって掲げる目の前の銅像は、そんなあなたの期待に反して優しそうな顔をしていた。
この目のどこが魔王を恐れさせたのか、などと感じる。柔和そうな目で、それ以外にも体付きは青年男子と同様、いや、背丈に関しては小さいようにも思える。兎にも角にも強そうには見えず、期待していただけにあなたはがっかりした。
ここは勇者の生まれた地である。それならば、この村はもっと栄えてもいいだろう。一向に発展せず辺鄙なままなのは、この威厳のなさに原因があるのかもしれない、などとあなたが像を眺めながら思ってしまう。
しかし手入れは怠っていない。毎日磨かれているようで、この像を村の人々が大事にしていることが見て取れる。
とりあえず目的は果たさねば。緑青を吹いた銅像に、あなたが手を組み、ワラビはしゃがんで手を合わせる。
「…………」
しばらく祈り、あなたが目を開けると、ワラビはまだ祈っていた。
この冒険の無事をひたすら願っているのか。それとも他に何か祈っているのか。あなたがそう思えるくらい彼女の祈りは熱心であった。
そもそもユーダリールに訪れたのも、彼女が強く希望したからだ。あなたはまだ、彼女が旅をする目的を彼女から聞いていなかった。