魔女と麒麟と世界蛇
人間の支配する土地からマザーへ踏み込むと、一気に空気が変わるのが実感できる。その空気の変わり目は人によって捉え方は異なるものの、金色の穂の鬣に黒く鋭い蹄を持った麒麟族の男はその感覚が好きだった。黄金色の毛をふんわりと恋人のように撫で、長い髭を優しく引っ張るその感覚は、マザーにやってきたと実感させてくれた。
人間社会の九階建てのアパートメントの最上階の借家で暮らすギラフェは、週五日半日講師として人間の学校に勤めているほか、週末はほとんどこのマザーにやって来ていた。
彼は一族を追放された身とあり、国を出た直後からほとんど本来の姿を見せていたなかったが、ある魔女に出会い、マザーへと足を踏み入れる機会を得た後からはマザーに来るたびに本来の美しい獣の姿をとるようになった。
マザーは地球上に存在しながら、人間には見えない空間にある。そのため、人間の文明である飛行機やレーダーなどにはまったく影響を受けず、そこに存在し続けている。それはマザー自身が不思議な力を秘めている一番大きな証拠だ。
マザーに踏み入れるには、中にいる者の招待か、あるいはマザーの許可が必要となる。ギラフェは一度招待を受けて中に入り、そこで紆余曲折あったものの、マザーに受け入れられた。そのために彼は完全に出入りフリーとなっていた。
“ウルカ!”
三十センチほどの枝を駆使して宙を舞っていた魔女を目ざとく見つけた麒麟は、物理的な距離を無視してその魔女に語りかけた。声を持たない麒麟が意思疎通するにはこれが通常の手段だ。
しかし、その頭に直接響くような声は慣れない者には歓迎されない。案の定、枝の動きを止めて顔を四方に巡らした魔女の顔には嫌そうな、面倒くさそうな表情が浮かんでいた。
「どこです? 姿を見せないのは感心しませんね」
“下だよ。オレは飛べないんだから仕方ないろ”
愚痴るような声が頭に響き、純血種の魔女は絶叫マシンよろしく、重力にしたがって真下へとまっすぐ、唐突に降下し始めた。
近くのマザーツリーが視界に入ってくるぐらい地面に近づくと、そのマザーツリーのふもとに金色の巨体があることに気づき、ウルカは枝を制御してぴたりと空中に止まった。空中でそんな細かな制御が出来るのは、魔女以外には存在しない。翼を持つものでさえ、こんな動きは出来ないはずだ。
ウルカが待っていると、黄金色のギラフェはザッと地面を蹴り、ひとっ跳びで魔女の傍へ跳躍した。音も振動も立てずに着地するのに、彼は一切不思議な力を使ってはいない。あるとしたら、この世のすべてを荒立てたくないと願う麒麟の本能ぐらいだ。
「また来たんですか? 毎週毎週ヒマですね。デートする相手もいないってわけですか」
“生憎とフリーなんだ”
麒麟という生き物を知らない者が今のギラフェの姿を見たら、龍と間違えるかもしれない。麒麟の顔はいわゆる東洋系の龍にも似ていて、違うのは彼らが立派な五色の毛を持ち、蹄を持つ生き物ということだ。麒麟は空を飛ぶことはできないが、駆けることは出来る。
「で? 何の用です?」
純血種であり純粋無垢な力を有する数少ない魔女の一人であるウルカに言い寄る男の一人として挙げられるギラフェは、つれない彼の台詞にさびしそうな動きで髭をくるりと回した。
“会いに来ちゃいけないのか?”
「ええ、迷惑です」
包み隠しもせずキッパリと言い捨てるウルカの顔はうっすらと笑みを浮かべている。
黒く艶めく髪に、ほのかに光る真珠の肌、濃緑に金の輪を頂く切れ長の瞳を併せ持つウルカは多くの魔女に漏れず美しい外見をしている。しかし、彼は見紛うことなく男だった。彼は同性愛者ではなく、訳あって絶対に何があろうとも同性を伴侶には選ばないと断言できる立場にいる。
それに対して、金の穂の鬣に金色のうろこ、細く長い尻尾に感情を表す髭、そして力強い動きを体現する黒く鋭い蹄を持つギラフェは、同性愛者だ。一族の保護を第一に考える彼の一族では子を成すことができない同性愛は否定される。そのため、彼は一族を追放されている。
“今日は……、あいつはいないようだな”
「あいつ? ……あぁ、スミハですか?」
ウルカはマザーから物理的に遠い所にいる幻想生命へ力を届けるデリバリーの仕事に従事している。彼の力は純粋であるがゆえに様々な者にとって彼は大変魅力的に映った。しかし、ウルカ自身はその事実を嫌い、彼に近づく者を片っ端から切って捨てている。
彼に言い寄ってきた者たちが女性だったら問題はなかったのに、彼を口説こうと近づく者たち全員が全員、男だったからだ。
彼には子孫を成すことができない同性などに興味はなく、遊びであろうとも彼らに手を出すことは決してない。彼はあくまで伴侶は女性であること、そしてたとえ遊びであっても同性に手を出すことはありえないと主張しつ続けている。
「あなた、最近目的がズレてきていませんか?」
心の底から相手を疑うような声に、ギラフェの黄色の目が驚愕に見開く。表情が現れやすいのは、人の姿でも本来の姿でも変わりはない。表情の現れにくい麒麟のクセに、とウルカが腹の中で思っていても彼は気づいていない。
“目的? ズレてるって、何から?”
頼りになりそうな外見をしている割に、ギラフェが抜けているのにウルカが気づいたのはかなり早いうちだった。ギラフェは自身でもしっかりしていて、頼りになる人物だと思っているようだが、傍から見ていれば彼は少し、心もとない。彼が不殺生主義で争いを厭う麒麟族だという以前に、彼の性格が少し頼りないのだ。
ウルカはじっとその黄色い瞳を見つめ、やがてはぁと大きくわざとらしいため息を吐いた。
「自覚がないのですか? あなた、私に会って開口一番に訊くのは決まってスミハの居場所なんですよ?」
その指摘はあまりにも想定外だったのか、ギラフェは驚愕に目を見開き、カチーンと氷のように固まってしまった。ゆっくりと眼球が動いて視線が彷徨ったかと思うと、髭がせわしなく小刻みに動いた。彼が動揺している何よりもの証拠だ。
その様子を黙って窺っていたウルカは、いちいち感情を表に出して青くなったり赤くなったりする様子に段々と面白くなってきた自覚があった。これはもう友人としてどうのうという域を超えて、面白いおもちゃを手に入れたような気分だった。
「私を口実にするのは止めていただけませんか? 会いたいなら名前を呼べばいいでしょう?」
世界蛇は目が見えなくても声は聞こえる。特にそれが自分に向けられた声ならばなおさら、その声を聞くことが出来る。それゆえ、彼に会いたければその名前を一言口にすればいい。向こうが会いたいと思ってくれるなら、その声に応えてくれるはずだ。
しかし、ギラフェは髭を小さく萎縮させて蹄を地面にこすりつけた。彼が人の姿をしていたら、指をこしょこしょといじりながらいじけているようなイメージだ。
“オレはウルカに会いに来てるんであって、あいつは別に……”
「じゃあなんで訊くんです? 関係ないなら訊かないでしょう?」
ギラフェは尻尾を振り上げたと思うと、力なくペタシと下げる。彼に犬のような耳があったなら、確実にへたりと下がっていることだろう。
五メートルを越える立派な姿を持つ麒麟がこんなにも情けない姿を晒しているなど、誰も想像できないだろう。麒麟は四族と呼ばれ、一般的に姿を見せない種族として有名だ。あまりにも多種族との交流がないがために、その存在自体が伝説化しているくらいだ。
しかしその実態は、図星を指摘されてもじもじとしているただの男に過ぎない。いくらその存在が貴重で珍しく、伝説化していたとしても、所詮中身は一人の男ということだ。
「正直になったらどうです? 私に望みがないのだから、もう他の人を好きになっても別に問題ないでしょう?」
その指摘にギラフェは否定するように首を振ったが、その直後にため息のように鼻から細い息が抜け、髭が元気なく垂れ下がった。どうやら何か悩んでいる様子だ。
表情から何を思い、何を考えているのかを読み取るということが出来ないため、その会話はいちいち面倒くさい。うじうじとしている麒麟の巨体を見ていたウルカは、段々と苛々してきていた。それが露骨に顔に表れていたが、件の麒麟は自分のことで一杯一杯でそんなことには気づいてもいなさそうだ。
“別に好きというわけでは……”
正直言って今の状況は、大の大人が大人びた子供に恋愛相談をしているような状況だ。年齢的に見れば実際そんな感じなのだ。しかし、その状況に耐えられるほどウルカも大人ではない。
「そういうことは私抜きで、本人と話し合って頂けますか」
自分から振ったくせに、いきなり相談役を放棄したウルカは、彼が止める前に素早く枝を返し、あっという間に距離を稼ぐ。ギラフェが本気を出せばその程度の距離はすぐに詰められただろうが、生憎とギラフェは青春真っ盛りな自分の悩みに手一杯だった。
“ウルカ!”
ギラフェの声は聞こえていたが、完全無視を決め込んでいたウルカはその動きを止めない。青い恋愛相談に乗っていられるほど、彼もヒマではないのだ。人間世界で休日だろうと、彼にとっては休日ではない。
「……勝手にしてくださいよ、もう……」
そう呟きながらも、彼の頭の中ではこれでギラフェがスミハに向かえば、自分を取り巻くうざったらしい男どもをまとめて二人片付けることが出来ると虎視眈々と計算していた。
* * *
「はぁ……」
金髪に黒目、がっしりとした体格の男がデスクに座り、両肘を突いてその手にあごを乗せ、ため息をつく。その姿は異様そのものだったが、それを本人に指摘できるほど度胸のある者はその部屋の中には存在せず、彼は一人たそがれていた。
ギラフェは麒麟族である自分の正体を完璧に隠し、ギル・ジェントリーという名のカナダ人として半日講師としてこの私立高等学校に勤めている。何も疑われることなく五年の月日が過ぎ、そこそこいい給料をもらっている。賃貸だが広い部屋に住んでいるし、環境も申し分ない。
しかし彼には解決すべき問題があった。
「どうなされたんです? ギル先生」
ギラフェはこの学校に雇ってもらう際に自分の性癖をボスに打ち明けていたが、同僚や生徒にはその情報は渡っていない。そのために何人かの女性にアプローチをかけられていたが、好きな人がいるのでとのらりくらりと逃げ続けていた。
実際、彼は今自分の恋愛問題で手一杯で、他の人を気にかける余裕など残っていなかった。今の彼に出来るのは、上手くその場を逃げることぐらいだ。
「あ……、いえ、ちょっと……」
英語講師をやっているものの、ギラフェは英語も日本語も母国語ではない。しかし、伊達に長く生きているわけではない。長い時間人間社会に溶け込んでいれば、語学などあっという間に習得出来る。そうして得た知識を元に講師という職業に従事しているが、人にものを教えるという行為が好きなのは本当だ。
彼の授業は脱線が多く、時には自分の過去の話を面白おかしく語って聞かせるため、歴史好きと英語が苦手な生徒には好評を博している。しかしそれは人間にしてみれば歴史だが、彼にしてみれば思い出だ。面白くて当然だろう。
「悩み事ですか? わたしでよければ相談に乗りますよ」
ぴったりとして身体のラインが見える濃い紫のブラウスに、薄ピンクの膝丈のタイトスカート。これが本当に高校教師かと疑うほど色気ムンムンの姿の数学教師がくねくねとしなを作って彼の真向かいの席に座る。その席は臨時講師や半日講師のためのフリースペースであって、彼女の席ではない。
ギラフェははあともう一度ため息をつく。
長命種族であるギラフェにとってしてみれば、三十歳そこそこの人間など赤ん坊も同然だ。しかも彼は同性愛者。どんなに彼女が彼を誘惑したところで、彼の食指はピクリとも反応しない。
しかし彼女はそのため息を違う意味で受け取り、胸を強調するように身を乗り出してギラフェに顔を寄せた。
「大丈夫ですか? 良かったら今夜食事でもどうです? 話してみるだけでも楽になりますよ」
彼女は数学教師であってカウンセラーじゃない。ギラフェはどうやったら彼女の機嫌を損ねずに断ることが出来るだろうかと思案し、あと数分で始業のチャイムがなることを思い出した。彼は次のコマは授業がないが、彼女にはあるはずだ。あと数分粘れば、彼女は行かざるを得なくなる。そうすれば彼は解放されるはずだ。
「もしかして、好きな人のことですか?」
毎週末好きな人に会いに行っていたが、その人に、好きなのは自分ではなくて他の人だろうと指摘されたなんて口が裂けても相談できない内容だ。しかもその相手が同性で、しかも人間じゃないとしたら尚更だ。
ギラフェはその場を取り繕うように無理矢理顔に笑顔を乗せ、彼女を露骨ではなく牽制しようと顔を上げた。
「心配してくださって、ありがとうございます」
金髪という外見は日本人からしてみれば外人然としていて、近寄りがたいものらしい。しかし、彼が流暢な日本語を喋ると知ると否や、周りは手のひらを返したようにフレンドリーになる。
ギラフェは彼女を追い払うのに英語を使ってやろうかと考えたが、それでは彼女が機嫌を損ねる可能性もある。そうなってしまっては彼のほうが分が悪い。女性に対してはやんわりと、だが毅然とした態度を示さなければならないのだが、それがまた難しい。
「でも……」
言いかけたタイミングでチャイムが次の授業を知らせ、期待した顔でギラフェの言葉を待っていた数学教師は一瞬舌打ちでもしそうな顔を見せたが、すぐにその顔を取り繕って魅力的な微笑を浮かべる。なんとも素早い早業だ。
「ああ、授業が始まってしまいますね」
わざとらしくならないように指摘すると、彼女もああと残念そうなのを隠しもせず頷く。ギラフェが行かないのかという視線を投げると、彼女は名残惜しそうな物欲しそうな顔をしながらも席を立ち、ギラフェに見られているのを意識しながらくねくねと腰を振り、出口へと向かう。
部屋を出るまで彼女に視線を向けていると、彼女は最後に何を示したかったのか一度だけ頷き、毅然とした態度で廊下をカツカツとヒールの音を響かせながら歩いていった。
なんとかその場をしのいだギラフェは、どっと押し寄せてきた疲労感に思わず机に突っ伏した。人間の形をした身体に重力がずっしりと響く。
「はぁ……」
彼は長期間にわたって人間社会に溶け込んで生きてきたが、どうしてもその生活には慣れなかった。鋼鉄の乗り物や、所狭しと建つビル。人はぎゅうぎゅうと狭い空間で行ったり来たりとして、落ち着くところがない。自然はまったくない上に、人工的に植えられたものは死んだように生気がなかった。
それでもこの社会でやってこれたのは、彼にはもう帰る故郷がなかったからだ。一族に追放された身では、もうこの人間の社会以外に彼のいる場所はない。ここ最近になってマザーへと訪問することが出来るようになったが、そこに住めるわけではない。やはり彼の生活はこの世界が中心だった。
「ギル・ジェントリー?」
ノックの音もなく、唐突に声がかけられ、机に突っ伏してだらけていたギラフェはビックリして席を立った。勢いがつきすぎたあまりに座っていた椅子が後ろにひっくり返ってガシャンと音を立てた。自分でやったことなのにも関わらず、ギラフェはその音に驚き、びくりと肩を震わせた。
その動揺っぷりは、どう考えても何かスポーツでもやっていそうなほどがっしりとした体型の外人の動きではなかった。それを見ていた訪問者もそう思ったのか、クスクスと隠しもしない笑い声が響いた。
「落ち着きたまえ。怯えたウサギのようだよ」
部屋の出入り口をふさぐような場所に、変に光沢のある黒髪に真っ黒な瞳の男がクスクスと笑みを浮かべながら佇んでいた。その姿には別段妙なところなどなかったが、その男が異質であることは人間にも分かっただろう。ただ、その根拠を説明しろといわれても出来ないだろうぐらいの奇妙さだ。
ギラフェはその人物がそこにいることに動揺し、言葉を失った。
「それにしても、ジェントリー(優しい)とはまさに不殺生主義の麒麟らしい名前だね」
偉大な歴史家にして世界そのものと名高い世界蛇。漆黒の瞳は光を通さず、開いていたとしてもその瞳にはなにも映らない。ニヤニヤと浮かんでいる微笑は彼の標準装備だ。
ギラフェはなんとかして最初のショックから抜け出したものの、動揺を抑えておくことが出来ず、机の端をぎゅっと握った。
「ど、どうしてアンタがここに……?」
見開かれたギラフェの黒目のふちがじわりと黄色に染まる。それは彼があまりにも動揺し、擬態が緩んでいることを示していた。それに気づいたスミハはすっと目を細めた。
「落ち着きなさい。なにも君を食らうために来たわけじゃないのだから」
目が見えなくともなんら支障のないスミハは、そのことを知っていなければ彼の目が光を通さないことには気づかれない。足取りもしっかりしているし、黒い目は顔の動きに合わせて動く。
机の端を握ったまま、ギラフェは近づいてくる黒い瞳を見開いた黄色と黒の瞳で凝視していた。あまりにも怖いものに対面し、恐怖のあまりそれから目をそらすことが出来なくなってしまったかのようだ。
しかし、本人は自分がどんな感情で迫り来る人物を見ているのか分かっていなかった。恐れているのか、驚いているのか、はたまた嬉しいのか。
「ウルカに言われてきたんだよ。君に会いに行けとね」
「う、ウルカが……?」
ここ数日悩ましい思いをしているのはウルカのせいであり、そのウルカがスミハを彼の元に送り込んだ。それはつまり、うだうだしてないでさっさと問題は解決しろということだろう。
だがしかし、そう簡単に問題が解決できるぐらいなら、彼はこうしてうだうだ悩んではいなかったはずだ。すっぱりと解決できることなら、彼だってそうしていたはずだ。そうできないのにはわけがある。それもひとえに彼がチキンだからというだけではなしに。
「悩み相談はわたしの専門外なんだがね。何かわたしに言いたいことでもあるのかね?」
瞬間的にギラフェの頭にいっそこのチャンスに自分が何をどう思っていて、どうしたいのかをはっきりすべきなのではないかという考えがよぎった。
しかし、それを口にしてしまった後で現状に変化が訪れないわけがない。今までどおりの関係を続けたければ、今は黙って、その場を上手くやり過ごすしかない。もし仮に、スミハが強硬手段に訴えてこなければ、それも不可能ではない。
ギラフェはちらりと眼球だけを動かし、目の前に立つ黒髪の男の様子を窺った。もし彼が苛々とした態度を露骨に出していたら、と不安が先立った。しかし実際のところ、スミハは穏やかだが少し人を馬鹿にしたようないつもの微笑を湛えたままその場でこちらの様子を窺っているだけだった。
ウルカに言われて来ただけなのだろうが、今日はまともに会話をしに来ているのだということをその態度から示しているようだ。ビクビクと怯えていたギラフェは、ほんの少し肩の力が抜けたのを感じた。
そのタイミングを見計らって、スミハは視線をギラフェから外した。床に倒れている椅子に手をかけて立ち上がらせると、その隣にあった椅子を引いて腰掛ける。誰にも勧められてはいなかったが、本人はまったくそんなこと意に介していない。
「ええと……」
「世界蛇がなんたるかでも訊きたいのかね? それとも、ウルカについて?」
もじもじとして中々言い出そうとしないギラフェを急かすように選択肢を並べるスミハ。その選択肢を受けて、ギラフェは心の中でこっそりとウルカに感謝した。
どうやら彼はギラフェがスミハに対してどう思い、どんな態度をとっているかまでは説明しなかったらしい。それだけでも随分と彼の助けになった。もし自分の中でも決着がついていない問題を、他人から告げられていたとしたら、それに勝る気まずさはない。
しかしまだ問題は山積みとなって彼の目の前に積み重なっている。
まず彼がしなければならないのは、目の前にいる男に対し、自分が彼をどう思っているのかをハッキリすることからだ。彼に自分の気持ちを伝える伝えないの以前に、自分がどう思っているかを決着つけなくては、なんとも言いようがない。
「あっと……、世界蛇について教えてくれないか」
「我々の何を聞きたいんだね?」
あからさまな時間稼ぎだったが、スミハは付き合ってくれる気らしい。ギラフェは掴んでいたテーブルを離し、、汗の滲んだ手をぎゅっと握った。手を彷徨わせてスミハが直してくれた椅子を探し、震える足を誤魔化すためにそれに座った。
スミハは絵にかいた紳士のように背筋をピンと張り、美しい姿で椅子に足を組んで座っていた。あごを少し引いて、その見えない目で射抜くような視線をまっすぐにギラフェへと向けている。
その目が何も見ていないのを知っていながら、彼はその視線が細かな針のように突き刺さっているような錯覚を覚える。
「あんた、伴侶は……?」
はあとわざとらしいため息。呆れたと言外に言うその行為に、ギラフェは自分が間違った質問をしたのだということに気がついたが、それを撤回するには遅すぎた。
「いたらこんなところにのこのこやってくると思うのかね? 確かに世界蛇は何もしなくても死にはしない。だが伴侶がいれば伴侶に尽くす。それは当然の行為だと思うがね」
ギラフェはウルカに指摘された後、独自で世界蛇について調べていた。世界蛇がどんな生き物で、どんな習慣があるのか。調べれば調べるほどその謎は大きくなるばかりだったが、同時に、スミハに対する興味は増える一方で飽きる兆しは見えなかった。
世界蛇が世界にたった三匹しかいないことは、ギラフェの中で一番印象が強い。
「じゃあアンタは……」
「あれから少しは我々について調べたようだな。察しの通りだ。わたしは中性なのだよ。だから伴侶はいない」
ギラフェは自分がズボンの生地を掴んでくしゃくしゃに握り締めていることに気づいていなかった。それは緊張と、無意識に受けたショックから、半ば条件反射で握り締めていた。
「じゃ、アンタは独りなのか……」
世界蛇は世界に三匹しか存在しない。男性、女性、中性の三匹のうち、中性は男女のどちらかが不慮の事故に遭ったときのための保険。つまり、なにも問題が起きなければ中性は生涯孤独が定められているといっても過言ではない。
そのことについての文献を読んだギラフェは、自分が思った以上にショックを受けていた。一族を追放され、孤独がどんなものかを知った彼は、生まれたときから孤独であることを定められた世界蛇の中性に酷く共感を覚えた。同時に、自分には理解できないほどの孤独がこの世に存在していることに衝撃を覚えた。
しかしそんなこと意にも介さず、スミハはフンと鼻で笑った。
「世界蛇は伴侶がいようといまいと孤独な生き物なのだよ、麒麟の坊や。君が思う以上にな」
文献によると、世界蛇はこの地球が生まれたときに同時に生まれ出でる。それはつまり、何十億とこの世に生きていることになる。その数字はあまりにも果てしなく、想像もつかないほど長い年月だ。そして同時にこれからそれと同等、あるいはそれ以上の年月を孤独に過ごしていく可能性がある。世界蛇の寿命はその星の寿命と同じだからだ。
ギラフェにはスミハが同情を嫌っているのが分かっていた。スミハは自分のおかれている状況が他の誰から見て孤独だとしても、彼にとってはそれが日常で、普通のことだ。彼らの尺度から見れば、その状況は孤独でさえないのかも知れない。
だけど、ギラフェにはこう言ったら本人に嫌がられるのが分かっていたとしても、スミハが哀れだった。伴侶を持てず、気が遠くなるほど長い年月を独りで生きていかなければならない人生。それを可哀想と思わなかったら、何を哀れめばいいのか分からなかった。
「君ねぇ……、わたしが同情されて喜ぶとでも思ったのかね?」
呆れた声にハッと彷徨っていた目の焦点を合わせると、視界がぼやけていた。何でだろうと考え、自分が音も立てずに泣いていることに気がついたギラフェは、慌てて服の袖で涙を拭う。
スミハの黒い瞳はじっと彼に向けられていたが、スミハは呆れたため息をついただけで涙について言及はない。もしかしたらギラフェが泣いていることに気がついていないのかもしれないし、本気で興味がないだけなのかも分からなかった。
「ほかには? そんなくだらないことを聞くために呼んだのかね?」
別にギラフェが呼んだわけではなかったが、今そんなくだらないことを否定するために口を開けば、みっともなく嗚咽がこぼれる可能性があった。ギラフェはごしごしと音を立てずに涙を必死になって拭い、しゃくりあげそうになるのを精一杯堪えた。
もし泣いているのがスミハにバレていないのなら、それに越したことはない。
しかし、その涙を必死に拭い取りながら、ギラフェは自分が散々悩んでいたことにケリがついたのを自覚していた。もしかしたらそれは同情なのかも知れない。他の感情と勘違いしている可能性だって十二分に有り得ることだ。
だけど、ギラフェは、勘違いでも同情でもいいから、今の自分の気持ちに素直になろうと心に決めた。気にかけなくちゃならないような体面など彼にはもう残されてはいない。彼に残されているのは、わずかばかりの勇気と、なけなしの根性だけだ。
「あ、アンタは……、本当にウルカのことを愛してるのか?」
なるべく動揺を悟らせないよう深呼吸をして心を落ち着かせてからその言葉を舌に乗せる。だがそうすることでふと彼は気がついた。その単純かつ重要な単語を、今まで誰かに対して使ったことがないという事実に。
「愛、ねぇ……。まぁ、君には言っても構わないだろうから正直なところを言えば、ウルカに対する気持ちは子供に向ける親の庇護欲のようなものだね」
大きく息を吸い込み、それをゆっくりと吐きだすと同時に、両目を閉じる。予想したとおりに、両目から溢れた涙がつーっと頬を伝った。その涙は悲しいのでもなければ感動して流れたものでもなかった。
「わたしはあの子に対してどうこうしたいという思いは君のようにないからね。わたしはあの子を守りたいと思っているだけだから」
ゆっくりとした独特のリズムで喋るスミハの声を、深く新鮮な空気を吸い込むときのように両目を閉じ、しっかりとその耳に受け止める。涙は流れ続けているわけではなかったが、頬に濡れた線を描いていた。
このときばかり、ギラフェはスミハの目が見えないことを感謝した。
「アンタは、誰かを愛したことがあるのか?」
「ウルカを愛している」
ギラフェが目を開くと、不思議なことに黒い瞳に黄色の輪が入っていた。普段なら黄色か黒のどちらか、あるいはふちから色が変色しているような色合いしか湛えたことはなかった。今の瞳の色は彼の二百年あまりの人生の中でも初めてのことだった。
しかし本人はそのことには気づかない。気づけるはずがなかった。だが、視覚に頼ることなく周囲の状況を察するスミハは、目の前に座る男の変化を目ざとく悟る。
「アンタは、本当の意味で、一生涯かけて相手を慈しみ、守りたいと願ったことはないのか?」
黒に黄色の輪。その瞳は力強さに優しさを秘め、麒麟のような温厚で争いごとを好まない種族にしては珍しいほどの強さを持っていた。
スミハは警戒した様子を隠そうともせず、不愉快そうに眉を顰めた。
「アンタが言ってるのは親子の情愛だ。オレはそういうことを訊いてるんじゃない」
先ほどまでとは打って変わって強い調子で責めるギラフェに、スミハは何事かとその変貌の理由を探ろうと沈黙を保った。
ギラフェはスミハが答えようとしないことは想定内だったのか、落ち着いた様子で、だが鋭い視線を向けたまま、座っていた椅子を立った。その手はもう握られてはいなかったが、だからといって彼が緊張していないわけではなかった。むしろその逆で、彼は緊張のあまりガチガチになっているといっても過言ではなかった。
椅子を立ち、ゆっくりと慎重に、足がもつれないようにスミハに近づく。スミハは逃げなかったが、歓迎もしていなかった。その顔には警戒する様子と、事態を面白がっている二つの表情が窺えた。
「スミハ」
「駄目だ」
ギラフェの真剣な声に名前を呼ばれ、瞬時に何かを悟ったらしいスミハは、間髪おかずに首を横に振り、ギラフェに二の句をつがせなかった。
一瞬の沈黙が下り、ギラフェがふうと小さなため息をこぼす音がその沈黙を破る。
「逃げるのか?」
「違う。それは間違っていると指摘しているだけだ。君は今間違った結論に飛びついてしまっている」
ギラフェはあごを引き、ぐいっとスミハに顔を近づけた。
「どうして間違ってると断言できる? 人を愛したこともないヤツが」
スミハの顔から笑顔が消えた。その黒い目がまるでギラフェを射殺さんとしているかのごとく鋭さを帯び、その黒に黄色の輪を睨みつける。
人間と違い、幻想生物に対して言葉での侮辱は大した効果は発揮しない。しかし、人を怒らせる効果は、相手がどんな種族であれ充分にある。
「わたしがどのような形で誰を愛そうが、君は関係あるまい」
キッパリと切り捨てるようなその声は、聞いている者がぞっとするほどの冷徹さを帯びていた。これ以上口出しをすれば、容赦はしないと言外に叩きつけているも同然。
しかし、ギラフェは引かなかった。
その黒に黄色の輪を冠した瞳でじっと黒の闇の瞳を睨みつけるようにして見つめ、真摯なまで真剣な態度でその冷たい言葉を受け止める。その彼の全身から、命を賭すまでの覚悟がにじみ出ていた。
「ああ、アンタには関係ない。でも、オレには関係ある」
シーンと静まり返った室内で、二人は完璧なまでに音を消していた。機械や外部からの音以外に聞こえる音はなく、たとえこの部屋の外を歩いていたとしても、そこに誰かがいるとは決して思わないだろう。それが人間ならなおさらだ。
だけど、その静寂を、スミハは躊躇うことなく食い破った。
「君が何をしようと、わたしは関係ない。ならそこを退いてくれるか」
「嫌だ」
「わたしは君に関与する気はないし、君ごときに関与されたくもない」
彼が必要と思えば、齢二百年ちょっとの麒麟など瞬きをするのと同じ程度の労力で消してしまえるだろう。しかし、彼はそうしなかった。あともう少し食い下がればどうなるかは分からなかったが、今はまだギラフェはそこで呼吸し、小生意気な口をきいていられた。
息を殺すように音を消し、深く息を吸い込んでからゆっくりと吐き出す。緊張しているのをおくびにも出さず、動揺していたとしてもそれを見せないよう最善を尽くす。そうして自分を制御していなくては、そこに立っているのも難しい。
「嘘だ。アンタはもうオレに関与した。アンタはここに来た時点で分かっていたはずだ。違うか? オレがアンタのことを愛してしまったことにアンタは気づいていた。だけどここへ来た。それは何故か」
冷静に事実を述べているつもりなのに、口調が相手を責めるようになってしまう。ダメだと己を制御しているのに、口からこぼれる言葉は勢いをつけた奔流のようにとめどなく溢れ出る。かろうじて言ってはならないこと、言いたくないことだけがダムの出口に引っかかって留まってくれていたが、それもいつまで持つのか本人にも分からなかった。
その言葉の羅列を聞き流しているかのようにじっと鋭い闇の瞳を向けている彼の顔には、怒りも笑みもなにもなく、それがまたギラフェを不安にさせた。
「何故なんだ? オレにとどめを刺すつもりか?」
視界が涙で滲む。
スミハが己を受け入れてくれる可能性など微塵もないのが分かっているのに、こうして愚かに縋り、挙句には相手を責める。そんなことがしたいわけではなかった。だけど、感情に突き動かされた今の状況ではそれを止めるのは至難の業だった。
「何故なんだ? オレはただ、アンタをほんの少しだけでもその孤独から救えればいいと願っただけなのに……」
相変わらず、その闇の瞳にはなんの感情も浮かばなかった。そこにはいつもあるはずのニヤニヤとした笑みもなく、ただ怖いまでの無表情がそこにあるだけ。それが何を示すのか、ギラフェにはわからなかった。
しばらくそのままの状態でいたが、スミハはなんの反応も返さず、瞬きさえしなかった。
ギラフェはどっと疲れが押し寄せ、小さなため息をついた。すると、それに反応したかのようにスミハが口を開く。あまりにも近くに顔を寄せていたからその口内にちらりと見えた舌の赤さ、歯の白さが垣間見える。
「己より憐れな者を見つけて嬉しかったか」
ギラフェの黒と黄色の輪の瞳が驚愕に見開かれる。
「己が優位に立てる相手を見つけてさぞかし嬉しかったのだろうな?」
まるで自嘲するかのように、スミハの片側の口角が上がる。たったそれだけの動きなのに、顔全体が皮肉な笑みを浮かべたように写る。相手を、というよりは己を卑下し、馬鹿にしたような自嘲の笑み。
「確かにわたしは君らに比べれば持っていないものが多いだろう。だが、多くを持っている者に同情されるほど落ちぶれてもいない。同情と愛情を履き違えるのもいい加減にしたまえ。押し付けがましい善良なふりをした愛などわたしには不必要だ」
「違うっ!」
それ以外の言葉が出てこなかった。ギラフェは小さな声で何度も違うと繰り返しながら、ふらふらとスミハから離れた。その足元は覚束なかったし、目はうつろでどこにも注意を払っていなかった。放っておけばどこかに身体をぶつけただろうが、運よく彼がたどり着いたのは先ほどまで座っていた椅子だった。
彼はへなへなと全身から力が抜けたかのようにその椅子に座り込んだ。
「善人の仮面を被って、己よりも劣った者を見て満足なのだろう? それが君の言う愛だろう? わたしはそんなもの欲しくない。わたしを馬鹿にするのもいい加減にしたまえ」
言葉が出てこなくて、ふるふると頭を振るギラフェを一瞥したスミハは、すっと音もなく立ち上がった。その背はそれほど高くなかったが、座っているギラフェは、ハッと驚いたかのように彼を見上げた。
「こうなってしまっては残念だが、もう君とは会わないほうがいいだろう」
ガタンッ。ギラフェが無理な体勢で手を伸ばし、身体を前に進ませたせいで椅子が倒れた。椅子と共にギラフェの身体も床に崩れた。
彼は反射的にその目を袖で拭い、顔を上げて彼を見下しているスミハを見上げた。その顔は涙でぐしゃぐしゃに汚れ、見るも無残だった。
「嫌だっ……! オレはアンタに会えなくなるぐらいなら死んだほうがマシだっ」
ひっくとしゃくりあげるギラフェはもう声を押し殺すだとか、泣いているのを隠すだとかそういった細かいことに気を使う余裕はなくなっていた。ただ自分が欲しいものが差し出した両手の隙間を零れ落ちていってしまうその事実に絶望し、情けなくも縋りつくしか出来なかった。
「アンタはオレが愛した最初の人なんだ」
その言葉にピンと来たのか、スミハはハッと何かに気がついた様子で床に座り込み、端も外聞もなく縋りついて泣く男を見遣った。
ギラフェの瞳の色が変化した際、彼の持つ空気までもが変化した。この世界の光を通さないスミハの目ではその瞳の色の変化は見て取ることが出来なかったが、その雰囲気が変わったのは肌で感じることが出来た。
「君は……、童貞なのかね?」
麒麟は愛した者としか性交しないというのは半ば都市伝説や皮肉のようにして囁かれていた噂だ。しかしそれは事実無根のものはなく、ある意味においては間違っていない真実だ。
麒麟の中での「愛」というものは人間や他種族が使用する「愛」とは一風異なった捉え方をされる。彼らは愛した相手に対して己のすべてを差し出す契約を結ぶ。それが彼らにとっての結婚に値する。
その契約は一対一の相互のものではなく、一人が一人に対して一方的に行われる。一方的といっても契約を受ける側にも拒否権があり、契約を持ちかけてきた者が気に喰わなければそれを拒否して契約破談にすることも可能だ。
契約は複数の者に対して持つことが出来るが、その破棄もまた容易だ。しかし、麒麟が一度誰かを愛したなら、彼らはそう簡単にその愛を覆すことはしない。彼らは誰かを愛することにかけてはしつこい。それも、深く長く続く愛は、他種族には少々重すぎる感もある。
「……そうだ。契約だってしたことがない」
「だけど、結約をわたしにしようというのかね?」
麒麟は複数の契約を持つが、その中でも一番深く、一番の愛情を持った相手に捧げるのが、結約と呼ばれる契約だ。結約は決して破棄することは出来ず、一方的な契約とは異なり、相手からの契約も必要とする相互の契約だ。一般的に見れば、結約が結婚という形態に一番良く似ているだろう。
結約は己の行動を制限するため、麒麟でもそう滅多にする者はいない。結約を結べば他の契約があろうとなかろうと、結約を結んだ相手が何よりも優先順位が高くなる。相手からの契約もあるため、行動が制限されてくる。
「ああ、そうだ。オレはアンタから見ればすぐに死ぬただの小僧だ。そんなオレがアンタに出来ることといったら、……この短い人生をアンタに全部捧げることぐらいなんだ」
麒麟の愛はしつこい。それはつまり、一度でも結約を結ぶほど愛しいと思える相手を見つけたとしたら、相手にその契約を拒まれようと相手を一生涯愛し続けるということに他ならない。
結約を拒否された麒麟は、もう二度と結約を結ぶことはしない。その愛した相手以上に愛おしい相手を見つけることができれば別だが、それが叶うものは少ない。
はっきり言えばまさかギラフェがそこまでするとはスミハも想定していなかった。ギラフェは同性愛者で、契約云々よりも一時の快楽を重視する最近の若者だと思い込んでいたからだ。それなのに、こんな重たい話を泣いて縋って切り出され、さすがのスミハでも困惑を隠しきれなかった。
「行かないでくれ。頼む」
世界蛇の中性であるスミハは今まで人並みに人を愛し、一時的にしろ結婚していた時期もあった。しかし、それらはすべて彼の一生の問題ではなく、いわば一時の楽しみだった。そう割り切って付き合っていた以上、彼の中で一定以上深い愛情が生まれることもなく、そうした気軽な付き合いのほうを彼は好んでいた。
自分にはいずれ世界蛇のどちらかと子を成す可能性がある、ということが彼の中の無意識下に枷のようにして存在し、彼は誰か一人を深く心の底から愛すことをしてこなかった。いずれ人のものになるのが分かっていて、誰かを愛するなど愚かな行為だと割り切っていた。
今回もそう割り切り、一時的な享楽のためにこの麒麟に付き合ってあげればいいものを、なにかが彼を引きとめた。
「どうしてわたしが君なんぞに付き合ってあげなければならないのだね?」
ギラフェは涙に濡れた黒に黄色の輪を冠した瞳でスミハを見上げ、じっとその闇の瞳を見つめた。瞬間、躊躇うように瞳が揺れ、彼はそれを隠すように顔を背けた。
「……分かってる。アンタがオレに付き合わなきゃいけない理由はない」
その声はまるで無理矢理に聞き分けよくしている子供のようだった。実際、本心からそう思っていないのは目を合わせないという行動から容易に察することが出来た。
痛みに堪えるようにぐっと口を噤み、こぶしを握り締めると、彼の頬を涙が伝った。ギラフェはそれを拭うことをせず、流れるに任せた。
「じゃあなんで縋ったのかね? わたしが君を受け入れる可能性が少しでもあると思ったのかね?」
相手の目が見えないのを知っていながら、ギラフェは首を横に振ってそれを否定した。涙はその動きに合わせて揺れ動いたが、零れ落ちはしなかった。
スミハは身体の向きを変え、ギラフェの正面に立つとそのままひょいとしゃがみ、彼と視線を合わせる。ギラフェは顔を背けていたが、スミハは構わずその黒と黄色の輪を覗き込む。
「生きている意味がないというのなら、消えてしまえばいいだろう?」
弱った者を断崖絶壁から突き落とすような一言。冷徹なようで少し楽しそうな声色は、本心なのか演技なのか図りかねるほどリアルな声だった。
ギラフェは目を見開き、縋るような目でスミハを見つめた。
「わたしは麒麟の小僧ごとき気にはしないがね、ギラフェ。しつこいのは嫌いなのだよ」
ニコッリと満足そうな笑みを浮かべたスミハは、驚愕に呆然としてしまっているギラフェを残し、少しゆっくりとしたいつものペースで立ち上がった。光を通さぬ闇の瞳で床に崩れている男に一瞥くれると、彼は容赦なく踵を返した。
開け放たれたままだった出入り口にたどり着いたスミハは、そうだと何かを思い出したかのように背後を振り返り、その顔にニコリと笑みを作って呆然と彼を目で追っているギラフェを見遣った。
「二度とわたしの前に姿を表さないでくれたまえ」
キッパリと言い放ち、スミハは軽快な足音を立てながらその場を遠ざかっていった。
その場に崩れ落ちたまま呆然と動かずにいたギラフェは、チャイムがなり響くまで、その状態でそこに座っていた。
平然を装うには今起きた現実が恐ろしすぎて、彼はその日授業を休んで早退するしかなかった。
* * *
「スミハ!」
世界蛇は異次元に本体を置き、常に世界を見守っている。見守っているといっても、そのほとんどを雑音として切捨て、冬眠にも近い形で眠っている。彼らに会いたければ、その名前を呼べばいい。その声はどこにいたとしても彼らに届き、彼らがその声の主に会いたいと思えば、彼らの方からやって来る。
「あなたから呼ばれるとは珍しい。どうしたのだね、ウルカ?」
マザーと人間世界との境近くで世界蛇の名前を怒鳴った魔女は、傍目にも怒っているのが分かる様子で声のした方向を振り返った。
不思議な光沢のある黒髪に、光を通さない漆黒の闇の瞳、穏やかなようで人を馬鹿にしているようにもみえる笑みを湛えた顔は彼の標準装備だ。世界蛇である彼は世界のどこであっても唐突に、それこそいきなり姿を表すことが出来る。それはこの世界におけるその姿は彼にとって仮の姿でしかなく、実態ではありえないからだ。
「あなたが他人に気を使わない人だとは分かっていましたが、これほどまでだとは思いませんでしたよ」
とげとげしい口調に含まれる怒気に、スミハは眉を顰める。
つややかな黒髪に真珠の肌、野暮ったいめがねの奥に隠された濃緑の瞳にかかった金の輪は美しく、見るものを魅了する。魔女でありながら男に生まれついたウルカは感情豊かで、あまり他人にそれを見られるのを気にしない。
それでも彼がここまでの怒りを露わにしていることは非常に珍しい。
「何の話だね?」
「本当に分からないんですか? 呆れますね」
ぶりぶり文句を言うものの、ウルカの態度はどこかソワソワとして落ち着かず、まるで待ち合わせの時間が迫っている人のようだ。スミハはその態度を指摘しようかしまいか逡巡する。
「本当に何を言っているのか分からんよ。ソワソワと騒がしい。少しは落ち着きたまえ」
スミハの台詞の何がいけなかったのか、ウルカは手に握っていた三十センチほどの長さのマザーツリーの枝を素早く振り上げ、その動きを想定できなかったスミハの横っ面をなぎ払った。枝はスパンと音を立ててスミハの顔に当たった。
あまりにも想定外だった動きに、スミハは数歩よろめく。当たったのが枝とはいえ、その力は強く、枝が当たった頬に触れると生暖かい血が流れ出ていた。枝が当たった衝撃で切れたのだろう。
「ウルカ……」
「他人のことに口出しするのはマナー違反だと思っていましたが、そんなことにこだわってられるほど事態は簡単じゃないんですよ、スミハ。黙って聞きなさい」
魔女は他の幻想生命に比べれば短命で、力も弱い。しかし彼らの有する自然の力は他種族にとってなくてはならないものだ。世界蛇はその力なくして生きていくことは出来るが、魔女に敬意を払っているという点においては世界蛇も他の幻想生命と変わりはない。
ウルカは感情が高ぶっている様子で、それでも自分をなんとか落ち着かせようと必死に呼吸を繰り返す。しかし一向に落ち着く様子はない。
彼がここまで取り乱すのをほかで見たことのないスミハは、怪我した頬を軽く拭い、黙って続けるのを待った。
「ギラフェを唆したのは確かに私です。でもあなたがまさかそんな酷い扱いをするとは思いませんでした」
「ギラフェ? キリンの小僧が何をしたんだね?」
口を挟むつもりはなかったが、反射的に問いかけ、言ってしまった後でしまったと思ったが既に口にしてしまった後では何もかもが遅い。しかしウルカはそれを聞いていない様子で首を横に振る。
「ギラフェはあなたに拒絶されたから、消えると言っているのですよ」
幻想生命にとって「消える」という言葉は文字通り、存在がこの世から消えうせるということをさす。
彼らは自然から発生する力を得ることによって、この世にその姿をとどめておくことが可能となる。つまり、その存在を消したければ彼らの持っている力を自然に返してやればいい。
自ら消えたいと願うなら、その力を得ることを拒否し、そのままでいればいずれ力は消化されて消え、その存在をも自然に消えうせる。
「たかが、あなたに拒否されただけで!」
ウルカの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。彼は友人であるギラフェが一度消えると言い出し、それを実行に移し始めてしまったら己にそれを止める手段を持たない自分の無力さに歯がゆさを感じているのだろう。
スミハはどう反応をしていいのか分からず、途方に暮れた顔で魔女を見遣った。
彼は自分に言い寄る麒麟を拒否した。それは事実だ。しかしそれが原因で彼が消えるというのはあまりにも大げさすぎる。確かに彼は二度と会いたくないと言ったが、顔を合わせないでおくのに存在を消す必要はない。
「それで? わたしに何をさせたいんだね?」
驚いている割には、スミハの声はマイペースで、いつも通りに冷静だった。それは様々な場面で有用だが、感情的になって逆上している者を相手取るときに似合った声ではないことは確かだ。
案の定、ウルカはキッと視線だけで射殺せそうな目をスミハに向けた。
「ギラフェの元へ行って下さい。今すぐに!」
いくら名づけ子のウルカの言葉でも、スミハには拒否する権利があった。しかし、ギラフェが消えると言い出した原因になっているという事実はほんの少しでも彼に罪悪感を抱かせた。どうせ消えるなら自分を理由にしないで欲しいというのが正直なところではあったが、ここは大人しくウルカの命令に従っておくことに決めた。
* * *
人間の世界で半日講師をして暮らしている麒麟の男の住まいは、九階建てマンションの最上階。部屋を訪れる方法としては、オートロックになっている正面玄関を入って、エレベータを使ってそのフロアまで行くのと、直接ダイレクトに部屋の中に入る方法、そしてダイレクトでも遠慮を見せて玄関前に出る方法と選択肢はいくつか存在していた。
しかし人間の、特に現代人のマナーに疎く、マイペースなその男は、一番手っ取り早い方法をチョイスした。
その部屋はワンルームにキッチンがついただけの部屋だったが、一人で暮らすには充分すぎるほどの広さがある。とはいえ本来の姿に戻ればその扉をくぐることも出来ないほど狭いが、人間の姿であればなんら問題はない広さだ。
部屋の中でも一番目立つ家具はベッドとソファ。それ以外に家具らしい家具はなかったが、それでも一人暮らしのワンルームマンションにしてはその二つの家具は些か目立った。
黒髪の男はその部屋の照明が消え、カーテンが閉じられて暗くされていることに気がつかない様子で部屋の中をぐるりと見回した。彼がそこにいることは、幻想生命であったとしても注意を払わなければ分からなかっただろう。彼にとって、気配を消すのは瞬きをするよりも容易なことだ。
静かな部屋だったが、逆に言えばその部屋は静か過ぎた。そこに人が一人いるというのに、音がない。音を消しているというのならそれ相応の気配があるものだったが、そこには音を消している様子もなかった。あるのは消え入りそうな幻想生命の気配。
元来その闇の瞳には何も写らないスミハは、その狭い空間のどこに誰がいるかをレーダーやソナーよりも正確に分かっていた。
ここの住民は広すぎるベッドではなく、ソファのすぐ足元に倒れている。その姿は人間と同じだったが、気配は幻想生命そのものだった。病気で倒れているのなら汗や呼吸の乱れがあるだろうが、そこに倒れている男は落ち着き、まるで眠っているかのように床に仰向けに倒れていた。
どうしてベッドを選ばなかったのだろうかとスミハが考えていると、不意に男が薄く目を開いた。
健常な状態であれば、彼の髪は光り輝く金の穂。その瞳は黒に黄色の輪を冠した人を魅入らせる魅力的な瞳をしていたはずだ。
しかし、薄くやっとのことで開かれたその瞳は同じ色を灯していても、同じ光は宿っていなかった。開いてそこにあるものを見るも、それが本当に見えているのかどうか定かではなかった。
「スミハ?」
掠れて小さな声だった。ここまで静寂を保った部屋でなければ聞こえなかったかも分からない。それほどまでに小さく、消えかけた声。
気配を消し、黙って佇んでいた男は名前を呼ばれたことで誘われたかのように、倒れている男の傍らにひざまづいた。触れるほどの近距離なのに、触らない。意識してそうしているというよりは、見えない力によってそうなってしまっているかのような距離感を保つ。
「あぁ、ウルカが呼んだのか……。どうして来たんだ。会いたくないと言っていたじゃないか……」
まるで熱に浮かされたような口調だったが、倒れている男には熱どころかその生気さえ消えかかっていた。もうしばらくそのまま放置しておけば、彼の身体は次第に透け、しまいには消えてなくなるだろう。後には死体も残らない。
「どうして来たんだ? 嗤うためか……」
その長い人生で、スミハは何度となく幻想生命が消えていく現場に居合わせたことがあった。それは決して愉快な光景ではなかったが、彼が今まで見たことがあるのは、自らの意思で消えようとした者たちではなかったからだ。彼らは消えたくないと生きていたいと泣き叫びながら消えていなくなった。
だけど今目の前で消えかかっている男は、自らの意思で進んで消えようとしている。幻想生命の数が減り、少しでも多くの子孫を残そうと必死になっている世の中に逆らうように、自らその生を閉じる。理に反した行為だ。
「あぁ、くそっ……。これは幻覚なのか? 何か言ってくれ……」
口では辛そうなことを言いながらも、ギラフェは微笑んでいた。生気に溢れ、黄金色に輝いていた状態ならばそれこそ光り輝いた笑顔だっただろう。しかし、自らその生を放棄した後ではその笑顔も痛々しいだけだ。
「君は、どれだけ愚かになれば気が済むのかね」
カラカラに乾いた喉から搾り出すようにして発した声だったにもかかわらず、その声は冷徹で味気なく、おおよそ相手を思いやることなど知らないかのような声色だった。
「はは、幻覚じゃなかったのか。本当に来たのか。馬鹿だな。顔を見たくないと言ったのはそっちだろう……」
死に行くものの目を何度も覗き込んだ経験があるのに、今この目の前で死に行く男の目をまっすぐに見つめても、彼らと同じようには見えなかった。微笑み、まるで愛おしいものを見つめるような暖かな瞳は、どう考えても死者の目ではない。
スミハには何故この男が死に掛けているのかも、死の間際にありながらも微笑んでいられるのかも理解していた。しかし、共感は出来なかった。己の存在がこの世から消えてしまうというその間際に、悠長に笑ってなどいられないというのが普通の感覚だ。この男にはそんな感覚さえないのか、と頭を疑ってしまう。
「迷惑なのだよ。わたしを理由にされては」
ほんの少し身体をずらせば、消え入っている男に触れることが出来る距離だ。だけどその距離は、互いに埋めようと思わなければ決して埋まらない深い深い溝。その最後の一線を越えるか否かは、当人のみしか決めようがない。その気がなければ、その溝は永遠とそこに残る。
「あー……、そこまで考えてなかった……。ごめん、そうだよな……」
この世界に存在している生命をその保有する力で見ているスミハの目には、もうギラフェの姿は薄れて消えかけていた。通常ならこんな速さで力が発散されることはないが、その力を自らの身体に留め置くことをしなければ、こうして一個の存在があっけなくも消えてなくなる。
自殺は世界蛇には許されない。そもそも、世界蛇はそう滅多なことでは死なない。死にたいと願っても、人間のように外傷で死ぬことも出来ず、かといって幻想生命のように消えてなくなることも出来ない。出来るのはただただ長い眠りにつくことだけ。眠りはあくまで眠りであって、死ではない。
「でも……、アンタがすべてってわけでもないんだ。もう、潮時だったかな、って、思うし……」
なにもなく平然としていた瞳から、ツッと涙が伝った。涙は重力にしたがって顔の左右に流れ、乾いて線だけを残した。
「最期にアンタに会えてよかった。オレは、誰も愛せないのかと思ってたから……」
今ここでこうして聞いている男の言葉は、遺言になるのだろう。あまりにも静かすぎる室内に響く、消え入りそうな声は、あと数時間もたたずにこの薄暗闇の中に溶けて消える。それまでに紡がれた言葉は、文字通り最期の言葉だ。
もう身体を動かすことが出来ないのか、それとも動かす気がないのか、横たわる男は口を動かすものの、そのほかの部位は一切動かそうとしなかった。ほんの少しでも動くことが出来れば、そのすぐ傍でひざまづいている男に触れることが出来る。だけど、そうしない。
「……それは本当に君の意思なのか?」
なにも言うつもりはなかったのに、反射的にポロリと言葉が零れ落ちていた。スミハは自分の声があまりにも躊躇いがちだったのにビックリしたが、それを表に出すほど間抜けではなかった。たとえ相手が見ていなかったとしても、それを隠し通すだけの余裕はあった。
「……うん」
迷いのない返答。誰に責任を押し付けるでもなく、自身のことは己でケツを拭くという意思が込められた単語。誰がなんと言おうとも、こうなった結果は自分自身にあって、あなたには決してないのだという頑なな主張。
スミハには分かっていた。この男が消えかかっている責任の一端を自分が握っていることを。だけど同時に、それを本人は絶対に認めないこともわかっていた。絶対に、その責任をスミハに押し付けることはしない。
大人の対応としては、このままこの男が消え入るのを大人しく黙って見守っていればいい。彼が消える責任を少しでも感じているのなら、最期まで見守るのが責任の取り方としては最善だろう。
魔女の名づけ子は友人が消えるのを彼に教えた。だけどもそれを止めろと言ったわけではなかった。止められると彼が知らなかっただけかも知れないが、もしかしたら友人の意思を尊重したのかも分からない。ただ彼は彼の元へ行けと言っただけだった。それは最期を看取ってやれという意味だったのかも知れない。
スミハは、この気が遠くなるほど長い人生の中で、これほどまでに躊躇したことはなかった。いつも起きたことは起きたことでありのままを受け入れてきたし、自分が望むとおりに生きてきた。望んでも出来ないことは出来ないことなのだと割り切ることも知っている。だけど、どうしていいのか途方に暮れたことは一度もなかった。自分がどうしたいのかも分からない、こんな曖昧な状況は初めてだった。
「ギラフェ」
この男の顔を見たくないと言ったのは自分だった。しつこく言い寄られるのは嫌だったし、彼のためにもならないと分かっていた。だから深入りされる前に関係を断ち切ろうとした。いつもならそれで事足りた。充分すぎるぐらいだった。
それなのに、どうしてこうなったのか。スミハには自分にそうまでする価値が自分にあるとは到底思えなかった。自分は幻想生命の一員であって、同時にそうではない。人間サイドにも属さない、孤独な種族だ。同族の中でも孤独を定められた立ち位置で、自分を理解出来るものは何もないと分かっていた。
「どうした……?」
後悔とは、ことが済んだ後で悔いることだ。後悔したくなければ、ことが始まる前に行動しなければならない。
そう考えた瞬間、スミハは自分とギラフェの間にある数センチの境界線を越えていた。
「逃げることなんて許されないことだと知らなかったのかね?」
境界を越えた手は、床に倒れる男の額にさっと触れ、そのまま心の臓の上に当てられた。触れた箇所がぼんやりと熱を持ち、段々とその温度を上げていく。倒れた男の目が見開かれ、信じられないとばかりにその手の先にある黒の瞳を見つめた。
熱くなっている手のひらから心臓へと、世界蛇が持つ自然の力が注ぎ込まれてくる。惑星そのものだといわれている世界蛇の持つ力は自然発生する力と似ているが異なり、その力の持つ熱はまるで身体を内側から溶かし、焦がしていくようだった。
「うぁ……」
自らの意思で消えようとしていた生命を強制的にこの世に押しとどめようとしているのだ。発散しようとする力を無理矢理力で押し込め、その形をそこへ留め置く。そんな荒業を用いて苦しくないわけがなかった。
「やめ……っ!」
「許さんよ。君がわたしを縛りたいというのならすればいい。だけど、消えることは許さん」
注ぎ込まれる力の熱に耐えるように、ギラフェは奥歯をかみ締めて目を閉じた。目を閉じると薄暗闇の部屋にいるはずなのに、視界が白い光に包まれまぶしさに目がくらむ。それがスミハの力なのだと反射的に悟るも、その激しさに思考能力が掻き乱される。
「スミハ……!」
「……ギラフェ」
一際まぶしい光が炸裂したかとおもうと、次の瞬間にはパッと花火が散って消えるように、光が消え失せた。弾むように胸いっぱいに息を吸い込み、弾かれたように目を見開く。
薄暗闇の室内に、黄色の輪を冠した黒い瞳が輝き、黄金色の穂の髪が爛々と光を放つ。肌はパールに艶めき、全身から自然の力が溢れんばかりに輝いていた。これだけの力を持っていれば、もうしばらくは力の補給をしなくても生きていけるだろう。
「あぁ、くそっ……」
開口一番に悪態をついたギラフェは、だるそうに片腕を自らの顔の上に投げ出し、その顔を覆い隠した。続けざまに身体を転がすとスミハに背を向けるように横を向く。
「ギラフェ」
スミハの手はもうギラフェの身体に触れてはいなかった。彼はさきほどと同じように床に転がるギラフェの傍らに跪き、その背中に声をかける。しかしその声に反応はない。
「ギラフェ」
同じ大きさ、同じトーンの声で、まるで録音された音声を再生しているかのようにもう一度名前を呼ぶ。その声にはなんの感情も込められていなかったが、彼に背を向けて転がるギラフェの耳にはその声の微細な変化を聞いて取ることができた。
「ギラフェ」
三度目になってようやく、ギラフェはしぶしぶといった動きで上体を起こした。涙で濡れ、汚れている顔をぐしゃぐしゃと拭い、ダルそうに自分の名を呼ぶ男を振り返る。
そして次の瞬間、その動きが硬直する。
「それ……」
「まさかこれが結約になるとは想定外だな」
スミハの瞳は光を通さない闇の黒をしている。彼の瞳は本体の存在する次元にあるため、この世界のものを視覚で捉えることが出来ない。この世界のものを視覚で捉えようとするなら、彼は純血種の魔女が持つ力を受け入れるか、あるいは何らかの方法で純粋な自然な力を入手するしかない。
そのはずなのに、今のスミハの瞳には闇の黒の中に黄色の輪がくっきりと写りこんでいた。それはギラフェの黄色。ギラフェの存在する世界の色だ。
「見えるのか……?」
「君だけははっきりとね」
麒麟の結約は相互の契約があって初めて成り立つ。ギラフェはすべてを差し出したが、スミハはそれを拒否した。契約は破棄されたハズだったが、スミハがその結論を覆したのだ。
ギラフェはほぼ無意識に手を伸ばし、スミハの目の下に触れた。その指先は小刻みに震え、それを見る瞳は信じられないものを見ているかのように見開かれている。それが夢ではないかと確かめるように、指が頬を滑る。
「本当にいいのか?」
「もう遅い。結約は結ばれた。これは破棄できない契約だと君が一番良く知っているだろう?」
震える指先が触れるとくすぐったく、スミハはすっと目を細める。闇と黄色い輪が細くなり、それに魅入っていたギラフェはハッと我に返った様子でその手を引っ込める。
「たかが数世紀だ。それぐらい、付き合ってやってもいい」
恩着せがましい慈悲の言葉に、ギラフェは堰を切ったように嗚咽を漏らした。遅れて涙が頬を伝い、彼はまるで子供が泣き叫ぶようにして泣きじゃくった。獣のように声を上げ、涙を拭うことも声を殺すこともせず、ただ感情に突き動かされたように泣きじゃくる。
スミハは驚きもせず、子供のように身体を揺らしながら泣き叫ぶギラフェに腕を伸ばし、その身体を包み込んだ。ギラフェは腕を彼の背中に回し、その服を掴んで胸に顔を押し付ける。その力は人間をはるかに越える馬鹿力だったが、スミハは眉一つ動かさずそれを受け止める。
わんわんと泣き続けたギラフェが落ち着いてくると、スミハはその身体を慈しむように優しく撫で、その柔らかな金の穂に口付ける。親が子供にするように、そっと優しく。
「……ごめん」
「ん? 何がだね?」
再び静かになった部屋にボソッとギラフェの声が響き、目を閉じてギラフェをあやしていたスミハは目を開き、抱きしめているギラフェを見遣った。
ギラフェはそっとスミハの身体を押し、その意図を察したスミハがその腕を離すと、二人はその間に距離をつくり、落ち着いた様子で向かい合った。ギラフェの顔は涙で赤く腫れ、スミハの顔には穏やかな微笑が浮かんでいた。
「その、オレが我侭言って、無理矢理結約させたみたいだし……」
「結約は相互の契約を持って完結する。つまりわたしにその意思がなければ結約は成立しないのだよ、ギラフェ」
当たり前のことを繰り返すスミハをじっと見つめたギラフェは、ふうとため息をついて頷く。認めたくないことを渋々認めたといった態度だったが、スミハはそれを咎め立てしなかった。彼がそこまで気負いする理由が分かっていたから。
「スミハ、愛してる。後悔させないって、言いたいけど、正直分からない。もう後悔してるかもしれないし……」
スミハは相手を愛おしむような温かな目でギラフェを見遣り、そっとその額に手を伸ばした。何かとギラフェが注目していると、スミハはにっこりと微笑み、素早くその額に鋭いデコピンをぶち込んだ。
「いった……っ!」
予想だにしていない攻撃に、ギラフェは目じりに涙をためて額を押さえた。覚悟してても痛いデコピンを、何の心構えもなくされると非常に痛い。何するんだと顔を上げると、スミハはいつものニヤニヤとした笑顔を浮かべていた。
「わたしが何もせず君が消えていたら後悔しただろうがね、ギラフェ。わたしは自分のした行いに対して、後悔しないように決めてるんだよ」
瞬間的にギラフェの顔にポカンとした間抜けな表情が浮かんだものの、すぐに破顔し、笑顔になった。デコピンされた額はまだ少し赤かったが、痛みなどもう感じていない様子だ。
「悪いようにはしない。誓うよ」
「あぁ、そう願うね」
どちらともなくクスクスと笑い出し、気がつけば二人とも声を上げて笑い出していた。先ほどまでの深刻な様子が嘘だったかのように、二人は陽気に笑い合い、来るべき未来をいかに幸せなものにすべきか語り合った。
* * *
風になびく金色の穂に、太陽の光を受けて輝く黄金色のうろこ。地面を蹴る黒の蹄は鋭く、その姿は神獣と呼ばれてもおかしくはないほど神々しい。
その背にまたがるのは光を受けると虹色に反射する黒髪に、光を通さぬ闇の黒に、黄色の輪の瞳。どこにも掴まっていないのに、彼の身体はそのバランスを崩すことなくその獣の動きについていっている。
麒麟がしなやかな動きで音一つ立てずに地面に着地すると、男はするりとその背を降り、感謝を示すように金の鬣に優しく口付けた。麒麟はその長い髭をくるりと回し、その謝礼に応える。
「あらあらあら。見せ付けてくれるわねぇ」
栗色のウェーブした美しい髪に、かわいらしい顔立ちの魔女が建物の入り口から少し離れたところで二人を出迎えた。彼女はその建物の総合管理者で、彼女に従わないものは口に出すのもはばかられるようなことをされる。それを知っている者は決して彼女の機嫌を損なわせないように気を使うのが常識だ。
黒髪の男はちらりと彼女に一瞥くれてから、乗ってきた麒麟を振り返った。するとそこに麒麟の姿はなく、あるのは体格のいい金の穂の髪の男だった。男は苦笑して肩を竦め、するりとパートナーの身体に腕を回す。
「用件はなんだね? 呼びつけたのはそちらだろう」
黒と金の二人は人間世界に住んでいるため、魔女の住むマザーへはこうして呼ばれない限りやって来ない。特に二人が結約を結び、パートナーとなってからはいっそう足が遠のいていた。それを知っていてもなお、栗毛の魔女はゆっくりとしたペースでニコニコと微笑む。
「ことを急ぐなんてあなたらしくないわ、世界蛇スミハ」
「敬称は不要だ、魔女グラナ」
「こちらも敬称は不要よ、スミハ」
ニコニコと食えない笑みを浮かべるグラナのペースを崩すことに失敗したスミハは、ふぅと小さく息を吐き、彼女に対向するのをあきらめた。それが彼女にも伝わったのか、彼女は満足げに微笑みくるりと踵を返して建物を目指して歩き始める。
「二人ともついてきて。心配しなくていいわ。今日はあなたたちの特別な日になるわ」
正直言ってグラナの管理する管轄内に踏み込むのは気が進まない。しかし彼女自身が安全を保証している手前、そこに行くのを拒否することは出来ない。二人は顔を見合わせてから彼女の後に続いた。
薄ピンク色の壁紙にクリーム色の床。窓やドアは木枠で、温かみのある内装をしているその建物が男子禁制の厳しい管理下におかれていることを知らない者はいない。そこは魔女の出産管理を行っている建物であり、そこに足を踏み入れる男は等しく物として扱われる。
待合室のようになっている部屋に通された二人は、グラナに椅子を勧められ、断る理由もなくソファに腰掛けた。
コンコンと奥へと続く扉がノックされ、その訪問を予期していたグラナ自らその扉を迎えに開くと、おなかの大きな魔女がニコニコと笑みながら部屋に入ってきた。一目で彼女が妊娠していることが分かる。
「紹介するわ。彼女はカグマ。覚えているかしら」
大きくカールさせた髪を両肩にたらしたカグマは、自らの大きなおなかに手を当て、愛情を込めてそのおなかをさすっている。その顔には幸せが滲んでおり、そのおなかに新しい命が宿ったことが幸せでならないといった様子だ。
ギラフェは記憶を探るように顔を顰め、スミハは一見冷徹にも見える目で彼女を見遣っていた。グラナはカグマの肩を優しく叩き、彼女の髪に優しく口付ける。
「ごきげんよう、殿方。この子はあなたの、ギラフェ殿の子よ」
カグマの声はまるで小鳥のさえずりのように澄んだ声をしていた。ギラフェは己が聞いた言葉を信じられないとばかりに彼女をぶしつけに見つめ、その視線を受けてカグマは照れたように微笑む。
ギラフェが初めてこの地に足を踏み入れた際、彼は癒しの代償にこってりと子種を搾り取られた。彼は同性愛者だと必死に弁解したものの、そんなもの彼女たちの手にかかれば関係はなく、彼は顔も回数も覚えていないほど精気を搾り取られた。
「あなたの種で無事に妊娠したのは彼女が初めてなの。あなたには名付け親になる権利があるわ」
魔女に限らず、幻想生命は親子という概念に乏しい。一族の誰かが子供を生めば、その子は一族の子供だ。同時に、グラナの下に属する魔女は伴侶を持たないため、子供を身ごもったとしてもその相手に何かを求めることはしない。ただし、その子供が魔女の能力を有していれば、強制的に魔女一族に属することになる。
「そんな……、信じられねぇ……」
子供を成すことが出来ないがゆえに一族を追放されたギラフェは今までただの一度も、自分に子供ができることなど想像もしたことがなかった。愛する者もいない状態で子供を願うなどそれこそ度が過ぎた欲求だ。
愛するパートナーを得た後であっても、彼に子供が出来る可能性に変化はなく、子孫云々の前にパートナーを愛し慈しむことが最も優先される。それになにより、結約まで結んだ相手と一生涯一緒にいられるというのなら、それに越した望みはない。
「オレに子孫が出来るなんて……」
「疑うのは無理もないだろうが、正真正銘、あの腹の中にいるのは君の子だね。同じ光を宿しているようだから」
普通の者には見えないところから世界を見るスミハの言葉は何よりもの証拠だ。
ギラフェはふらふらと危なっかしい足取りでカグマへと近寄ると、視線で彼女に触れてもいいか問いかける。彼女が微笑みながら頷くと、彼はそっと壊れものに触れるかのような慎重な手つきで彼女の大きなおなかに触れた。
「スミハ。スミハ」
そのおなかに触れたままで興奮した様子でパートナーの名を呼んだギラフェは、今にも泣き出しそうな顔で隣へやってきたスミハを見遣った。
「幸せすぎて泣きそうだよ……」
「はいはい。良かったな」
ギラフェはスミハの身体をへし折らんばかりの勢いで彼の身体を抱きしめ、ぐりぐりとその胸に顔を押し付ける。スミハは口では冷静な言葉をかけているが、限りなく優しい手つきで彼の金髪を撫でつけていた。
「その子は魔女になるだろうな、グラナ」
「ええ、そうね。たとえ何かの間違いで麒麟が生まれたとしても、わたしたちが引き受けるわ」
麒麟族は混血を許していない。四族と呼ばれる四種族はどれも混血を忌み嫌い、純血を保つために他種族との交流を禁じている。そのため、カグマの妊娠している子供がもし仮に麒麟として生まれたならば、その存在を麒麟族は認めず、殺してしまう可能性があった。
グラナはその点を含め、スミハに約束をした。魔女の血を引く者は、たとえ魔女の能力を有していなかったとしても、マザーに住まう権利がある。マザーにいれば、麒麟族はその子に手を出すことは出来ないだろう。
「ギラフェ。子に名前をつけてやるんだ」
優しく髪を撫で、そこに優しく口付ける。それに反応するように顔を上げたギラフェは、スミハの身体を抱きしめたままでカグマを振り返った。そしてスミハの身体に回していた腕を離すと、スミハから礼儀正しい距離を置いた。
「スミハ。良かったらアンタに名前をつけてもらいたい」
その言葉には予測がついていたのか、スミハは首を横に振った。
「出来ない。名前をつけることがどういうことか分かっているのだろう?」
「分かってる。だからこそスミハにつけてもらいたいんだ。オレに何かあっても、アンタになら子供を託せるから」
無表情に近かったスミハの顔が不愉快な様子を見せ、ギラフェは困ったように笑んだ。
「そうすることでオレの死後もアンタを縛ることになるのは分かってる。だけど、もしアンタがそれを許してくれるなら、オレはアンタ以上に信頼できる人を知らない」
スミハが何者かを知らなければ、ギラフェが何を言っているのかサッパリと理解できなかっただろう。
名前をつけるというのはその子に守護を与えることと同意だ。名前はその存在を縛る。名付け親は血のつながった親とはまた違ったつながりを子供に持つことになるため、気軽に請け負えるようなものではない。
スミハは世界蛇で、不死に近い生き物だ。彼が名付け親となってその子供の守護を請け負えば、その子供が生まれて死ぬまで、その子は孤独になることはありえない。姿は見えなくとも、必ず見守っていてくれる人がいることになる。
「スミハ。お願いだ」
不服そうな顔をしていたスミハだったが、請うギラフェに意地を張るのをあきらめたのか、ふうとわざとらしくため息をついた。
「今後一切君がいなくなるということを話題に取り上げないと誓うなら、その役目を引き受けてもいい」
その条件に驚いたのは、ギラフェではなく傍で聞いていたグラナだった。
グラナは彼女が統括する部署に彼女が所属する前からスミハの存在を知っていた。その世界蛇の男は気まぐれで冷徹。自分に興味がなければ死体だって踏みつけていく男だ。
しかし今彼女の目の前にいる男はどうだろうか。パートナーがいなくなることを認めたがらないで、まるで子供のような我侭を言っている。親子どころか先祖と子孫ぐらいに年の離れたパートナーだというのに、そこまでの執着をしているとは彼女には到底信じられなかった。
「分かった。もう絶対に話題に出さない。約束する」
グラナは麒麟を見遣り、続けざまに世界蛇を見た。二人は出会った直後は決して相容れることはないと思わせるほど相性が悪いように見えた。しかし今では彼らを裂くのはそれこそ死以外にありえないとさえ思わせるほど仲睦まじい。ここまで来ると彼らがくっついたのは、そうなる運命であったとしか表現できないほどだ。
スミハが手を伸ばし、カグマのおなかにそっと触れた。カグマはその瞬間に顔を一瞬強張らせて緊張を見せたものの、スミハの指先から伝わる温かな気の流れに安心した顔を見せた。
「イフェカ。この子の名はイフェカだ」
さあっと風が通り抜けていくような感覚に、その場にいる全員の髪の毛が温かな気の流れになびいた。以前にもスミハが名づけるのを見たことがあったグラナだけがその風を予期し、目を閉じたが、他の者はその目から涙を一滴こぼした。
「ギラフェの子、イフェカに平穏を」
「イフェカに祝福を」
「麒麟と魔女の子、イフェカに幸運を」
<了>