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20120106:戦争を知らない私(3)

えーと、3回で終わりませんでした(^^;

長くなったので、2つに分けました。

(4)で終わります。


皆さんは、パプアニューギニアについてどのくらいご存じですか?

私は祖父が戦争で亡くなった場所だと父から聞かされていましたが、東南アジアににある島国であるというくらいの認識です。

島の東西ですぱっと線が引かれ、国が違うのは何故だろう? アフリカのように植民地支配の影響かな? 地図帳見ながらそう思っていましたが、理由は調べていませんでした。


パプアニューギニアで年末に大きな地震がありましたね。私が知ったのはTwitterです。そこから詳細な記事を探してみましたが、英語のサイトにしか辿り付けなくて、さっぱり分かりませんでした。(翻訳はしてないのさ)

GoogleもYahoo!の地図も共に白いですね。海岸に幾つか地名がありますが、それ以外はさっぱり。大半がジャングルで何も無いという事かもしれませんが、調査されていないって事なんでしょうね。

…いや、それはそれでいいのかな? 文明化は所詮押し付けか(←葛藤)


戦時中もニューギニアの事は知られてはいなかったんですよね。認識はたぶん今と同じ、「南方の島」おまけに敗色の濃いこの地での戦況は報告されなかったそうです。絶望感を増すだけで、戦意高揚の効果なんてありませんからね。

戦後、生き残った兵士が帰還して、ようやくニューギニアで戦っていた事が知られたそうです。

…正直な所、私は複雑な気分です。何故祖父はそんな場所で死ななければならなかったのでしょうね? もちろん有名な戦地であればいいという訳ではありませんよ。それでもどこか悔しいものはあります。


「ニューギニアの住民は日本人をよく知り、いまも強い関心をもっている。しかし、日本人は同地住民を知らず、関心をもっていない」

参考にさせてもらった「戦場パプアニューギニア 太平洋戦争の側面」(奥村正二著、中公文庫)1993年初版の本に書かれている事なのですが、今でもきっとそうなんでしょうね。少なくとも私は彼の地を詳しくは知らないというのが事実です。


さて、まずは年表を最後まで記しておきます。


昭和18年12月24日

 臨時召集に依り下関重砲兵聯隊補充隊に応召

同年12月28日

 第二野戦兵器廠要員として屯営出発

同年12月29日

 門司港出帆

昭和19年2月5日

 西部ニューギニア・マノクワリ上陸

自同年3月7日 至3月21日

 マラリア三日熱羅病に因り第一二五兵站(へいたん)病院に入院

同年3月23日

 第二軍野戦兵器厰に編入

同日より

 第二野戦兵器厰補給部にて兵器業務従事

同年5月29日

 (いきおい)独立第二大隊第四中隊に編入

同日より

 勢第二号作戦マノクワリ周辺の防衛勤務に従事

同年12月1日

 陸軍兵長

昭和45年 自3月2日 至6月7日

 勢第三号作戦マノクワリ周辺の防衛勤務に従事

同年6月8日

 西部ニューギニア・マノクワリ一六◯高地第四中隊兵舎に於いて脚気兼マラリア熱帯熱に因り、戦病死

同日

 任陸軍伍長

 勲七等青色桐葉章授与


帰郷から再び召集がかかるまでの間に、軍組織の改変が色々あったようですが、追いかけるの面倒なのでスルーでいいですか?(←)

「兵站病院」とは、野戦病院のような仮設ではない、きちんとした建物の病院のようです。

「勢」は部隊の名称を秘匿するために用いられた暗号名の一種。「第二軍」を指す暗号名らしいです。通称号、秘匿名、秘匿号、通称符とも呼ばれたそうです。


とりあえず、支那事変以降の中国での戦闘から、更に勢い付いて南に侵攻を始めたという史実があります。

しかし南方での戦闘はアメリカを柱とする近代兵器を用いた連合軍との戦闘、太平洋戦争と名を変えた辺りから戦局は悪化の一途を辿るのも史実です。


東南アジア各地での負けが込み、軍は中国に派兵されていた部隊の一部を引き上げ、増援部隊として向かわせました。

祖父はそのうちの部隊の一つに配属されたという事です。任地はニューギニア西部のマノクワリ。


当時のニューギニアは、西をオランダ、東をオーストラリアが支配していました。いわゆる植民地支配ですね。(元は東は北をドイツ、南をイギリスでしたが、イギリスがオーストラリアに管轄を移し、ドイツは敗戦で領地を失った。)

今も同じ境界で、マレーシア領とパプアニューギニアに別れています。この境界は険しい自然により別たれたもので、それぞれにまったく性質の異なる人々が暮らし、交流すら無かったようです。もしかしたら、存在も知らなかったのかもしれません。


現地の人々は「パプア」と呼ばれていました。マレー語で縮れっ毛の意味だそうです。(1526年ポルトガル人命名)

現地の人々がギニアの黒人に似ていたので、「ニューギニア」(ギニアは奴隷貿易の中心地)と呼んだそうです。(1545年スペイン人命名)


しかし東部北側(旧ドイツ領)では「パプア」ではなく「カナカ」と呼ぶのが正しいと現地民がら訂正を受けたそうです。

意味は太平洋の島々に住む人々の総称という広義の名称。残念ながら自分達で呼んでいた名ではなく、ドイツ、イギリスの支配の名残でそう呼ばれていたという事のようですが。


東部だけでも700ほどもある部族は、それぞれにに相互関連の無い言語を持ち、基本的に意思の疎通が難しい状況にありました。そうなると部族間の揉め事は抗争です。ジャングルに道は無く、文字も鉄も無い石器時代の生活、皆ほぼ裸で暮らしていました。

そんな現地民に対し白人達は、他の地同様に差別した支配を行っていたので、現地の人々は白人達を嫌っていたそうです。


心無い人間に、この地の人間は「凶暴な人食い人種だ」という面白おかしく世界に伝えられていたそうですが、主に主食は芋とサクサクです。サクサクとはサゴ椰子のデンプン質です。芋の栽培は行われていたようですが、熱帯の地では保存が利かないので、その時食べる物を食べる分だけというその日暮しを送っていました。

ただし、葬儀の際にその死者の肉を食べる習慣を持つ部族は存在したという文字は見ました。常食の部族もいたそいう文字もみました。しかし事実確認が出来ないので、私には本当の所は分かりません。


船を作る技術は発達しなかったので、漁をする習慣はありません。せいぜい銛で突いて獲れたものを食べる程度です。塩も無かったそうです。


人々は素朴で、東部では日本人を受け入れて、共に生活をしていたそうです。これはこれまでの白人への不信感と、オーストラリア軍が現地の人々を強制徴用し、兵士や雑役として使用したという下地があったからでしょう。日本兵はまず酋長と話をつけ、きちんと礼を尽くし溶け込んだという事もあり。敗戦後も居候に親切に接してくれたそうです。ただし、親日の部族の酋長は後にオーストラリア軍に処刑されてしまったそうです。


一方西部では当初から反日ゲリラが多く、日本兵も現地の人々とは最後まで一線を画する生活を送っていたようです。日本軍が現地の人々を動員し使役していた結果なのでしょう。

結局4万もの現地の人々が、巻き込まれて命を落としたそうです。


ニューギニアでは大陸と違い慰安婦はいませんでした。大陸からの移動前に「向こうでは女っ気が無いから、いまのうちに遊んでおけ」といった話が載っています。となれば、現地の人々に…という不逞の輩も出るのでしょうが、前出の通りの見た目の違い、また蚊避けに特異な臭いのする植物油を体中に塗っている事、飢餓のせいで性欲まで回らない。といった複数の理由で、本には「無かった」と、書かれているのですが……やはり実際にはあったようですけどね。


ちなみに上記は、祖父の事が知りたくて買った、上で紹介した本を参考にしています。内容は主に東部の親日な人々の中にいた第十八軍猛での事が中心となっています。

著者は家族の一人がこの地で戦死した事を知り、興味を持って調べ始め、その成果を纏めたものであるようで……すごく親近感を感じました。私も出発点はそこですからね。ただ私は彼のように自分の足は動かしてはいませんけどね。……情けないなぁ、私。


ネットでも記事を探してみた所、本には載っていないショッキングな内容を引っ掛けてしまいました。

日本兵は夫子供のいる女性を引きずり出して、子供の目の前で犯した上殺害、肉を刻み鍋で煮て食べた。

昔の雑誌の記事でしたが、大きくなった子供に取材したもののようです。

状況的に見て西部で起きた事なんでしょうね。東部での友好的な関係を考えると、わざわざその関係を壊すようなマネはしないでしょう。差別的な距離を保つ西部の方がしっくりきます。


そもそも日本軍は補給を軽視しています。そこへ向けて悪化した戦況では物資を運ぶ船すら出せません。上空から狙い撃ちされ皆沈められてしまいます。

大陸では現地の人々を襲い、食料は現地調達が出来ました。しかし、自然の一部として暮らしている人々の中ではそれも叶いません。


ここでの戦闘は主に空爆です。オーストラリア軍はジャングルに分け入る事無く、戦闘機で爆弾の雨を降らせるだけです。それに引き換え日本兵の歩兵の装備は、10人に1艇の小銃があるかどうか。

……もう戦争でも何でもない状態ですよね。


日本兵は木の倒れた見晴らしのよい場所を避け、常に移動を余儀なくされます。食料であるサゴ椰子はジャングルの中に点在していますが、必ず見つかるとは限りません。

上記の現地の人々に溶け込んで暮らしていたのは、ごく一部の人達です。

海に囲まれた島ですが、前述したように現地には船も漁をする習慣もありません、だからといって日本兵が海に出ると、海上を哨戒している敵に見つかり狙い撃ちにあいます。魚を取る事は不可能に近い状況でした。



…ニューギニアの説明が結構長くなってしまったせいでしょうか?

随分文字数あるので、一旦ここで切ります。

次、もう1つの敵についての話に行きたいと思います。

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