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20111230:戦争を知らない私(2)

私は広島の北部で生まれて育ち、今は市内に住んでいます。他の都道府県の事は分かりませんが、広島の義務教育では8月6日は必ず登校日です。

私の通った小学校では、4年生までは体育館で集会、平和学習が行われました。内容は、戦争や原爆に関する映像を見せられるといった感じです。

おかげでね、私は夏の飛行機の音が怖いんだ。暗くした暑い体育館で、モノクロの爆弾投下シーンを大音量…トラウマです。

あの頃はよく昼間に、低空飛行の飛行機がものすごい音出してたんです。当たり前だったからうるさいなってくらいにしか思ってなかったんですが、うん、夏のはこわいんだけど。大きくなってから、あの飛行機は米軍岩国基地所属の戦闘機だったと知って、あながち間違ってなかったんだなと思いました。飛行演習のルートだったんですよ。


5、6年生は同じ町内にある別の小学校まで歩いて行きます。山2つちょい越えて。そこで、合同の集会と、三次市から平和公園までの81kmを3泊4日くらいかけて歩いて行く人達を見送ります。

中学になると、その行進に参加する人、それ以外は隣町まで歩きます。今は合併して同じ市になっちゃいましたけどね。

それ以外のとこでも、平和、人権に関する時間が多かったような気がします。

本当、他の学校や地域ではどうなんですか? 今長女は、8月6日に学校に行きますが、驚くほど早い時間に帰ってきます。教室に置かれたTV(でかいAQUOSなんです)で校長の話を聞いて、平和集会の映像を見るらしいです。

あ、そうだ。広島では8月6日に「とくだね」の小倉さんのオープニングトーク聞けないんですよ。8時になった瞬間に、教育テレビを除いた全てのチャンネルが、平和公園からの中継に切り替わるんです。ご存じでしたか?

って、完全に余談です。

うーん、ここまででもう随分書いちゃったな。ではようやくですが、年表の話行きましょうか。


昭和3年4月1日

 徴兵として輜重兵(しちょうへい)第五大隊一中隊に入隊。同日輜重兵卒(しちょうへいそつ)


まず字が読めなかったのはこれです(^^;

『輜重兵』要は物資輸送の裏方です。水食料、武器弾薬、その他物資を前線に投入して行く事は、戦う上で重要なポジションにあると思うんですけど……精神論重視の日本軍では軽視されていたらしいです。恐ろしい世界ですね。

そして『輜重兵卒』そんな軽視されている部隊には、戦力になりそうにないと判断された、ギリギリで兵役検査をクリアしたような人間を当てていたみたいですね。

花形は騎兵隊、歩兵隊はしんどいけれど良。

ちなみに、母方の祖父は軍服で馬に乗ってた写真があったそうなので、たぶん騎兵隊か歩兵隊で馬に乗れる役職があったらしい(すみません忘れました)ので、その辺り? 私が育った家の祖父は歩兵みたいです。


輜重兵卒の扱いなんですが、これまたひどい。

「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち 焼いた魚が泳ぎだし 絵に描くダルマにゃ手足出て 電信柱に花が咲く」と、軽視軽蔑。兵科ごとに「兵科の歌」があったらしいのですが、輜重兵科だけその歌は無し。

単純機械的労働に従事するに過ぎない雑卒なので、昭和12年10月の制度改正以前は昇進も無く、万年下っ端二等兵。

でも、悪い事ばかりじゃなかったらしいです。当時は珍しかった車の免許が取れて、他の兵科のような訓練も無く、あっさり家に帰れたそうなので、喜ぶ人も多かったようです。

で、病気持ちや虚弱なら入隊すら出来ません。病弱だったという話はそもそも聞いてませんが。

ただ、前回書いたように祖父は絶対背が低かったと思われるので、そこがネックだったのかな? と、想像してみた訳です。あるいは兵役検査で態度が悪かったとか、そういう問題があったとかが考えられますね。


昭和12年7月27日

 第五師団動因下令

同年8月4日

 充員召集に依り輜重兵第五聯隊に応召。同日第三中隊に編入

同年8月9日

 宇品港出帆。同13日大連港上陸


第五師団は、広島鎮台を母体に編成された。島根・広島・山口出身の兵隊で編成され衛戍(えいじゅ)地を広島とする師団だそうです。衛戍地とは配備駐屯地の事らしいです。

聯は連。

本当に、言葉すら分からない…。

で、支那事変で中国に渡り、以降にも戦闘参加の記録がいくつか書かれているんですが、第五師団の記録をそのまま書かれているみたいですね。


昭和12年10月30日

 輜重兵特務二等兵

昭和13年1月11日

 輜重兵特務一等兵

昭和14年3月24日

 輜重兵一等兵

同年5月15日

 輜重兵上等兵


この昇進がよく分からないんですよね。長い事所属してたら、どこまでが勝手に上がっていくものなのか。

戦争が始まる以前には、二等兵から一等兵へは普通に上がります。特務二等兵、特務一等は上記の昭和12年に新設されたものです。

上等兵は希望者、あるいは上官の推薦があってとあったのですが、戦時中は自動的に上がったみたいなものも読みました。


昭和14年 自6月21日 至7月13日

 青州に於いて羅病に因り青州第三野戦病院に入院

同年7月15日

 交代帰還のため山東省青島港出帆

同年7月20日

 宇品港上陸

同日

 輜重兵第五聯隊補充隊に転属

同年7月26日

 召集解除


交代帰還とありますが、平和な時代の兵役は2年。以後は予備役で召集に備えるという具合だったのですが、戦時では何年だったんでしょうね?

体を壊したおかげで帰ってこれたのかなという気もします。

この時なのか、後にもう一度入院してるので、その時なのかわかりませんが、野戦病院でご近所さんに会ったという事が、戦地からの葉書にありました。

お互い患って元気とは言えないけれど、懐かしい顔に会って、懐かしい話をしたという事が書かれていました。

同じ出身なので師団は同じはずですが所属部隊は違います。師団の人数は相当なものでしょう。だから顔を会わせる事なんてそうそうありません。その偶然が嬉しかったのだと思われます。


送られた葉書は全て軍の検閲が入ります。迂闊な事は書けません。しかし、どの葉書にも家族を思う内容が、あの小さな葉書にめいいっぱい書けるだけの文字が書き込まれていました。

長男である伯父に学校はどうだ? 伯母にはお母さんを助けて、兄弟の世話もきちんとしろよ。と…父親の言葉です。

達筆過ぎて、読むのがしんどいっていうのもありましたが(^^;

私が育った家の祖父の上官からの一筆も読めなかったんですが、当時は今よりも字を書くって事を、大事にしてたんでしょうね……まぁ読めないんですけど。


昭和15年4月29日

 勲八等白色桐葉賞授与

同日

 支那事変従軍記章授与


勲八等白色桐葉賞授与は従軍に対する褒章、支那事変従軍記章授与は従軍記念の褒章のようです。



とりあえず今回はここまで。

次が私にとって一番重い所、戦局悪化の東南アジアに入ります。

たぶんそれで終わりです。


…えーと、それと今気付いた事を訂正です。

「平成十六年 月 長男・○○ 製作」って文字がある。

年表の額作ったの、全然2年前じゃないじゃないか(^^;


でも、コピー見たのが2年前なのは本当です。

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