婚約破棄の最中ですが、王太子殿下の背後で宰相閣下がパンツになっています
「クラリッサ・ベルフォード! 貴様との婚約を、今この場で破棄する!」
王太子アレクシス殿下が、わたくしだけを見て叫んだ。
その背後で、宰相閣下のひげが横に伸びた。
伸びた、というより、猫に引っ張られた。
王宮猫ルルが、宰相閣下の立派な白ひげに両前足でしがみついている。後ろ足は礼服の胸元を蹴っていた。小さな体なのに、目だけが戦場の騎士みたいだった。
宰相閣下は、王国の理性そのものみたいな顔で立っている。少なくとも、首から上の左半分までは。右半分は猫に持っていかれていた。
「殿下、恐れながら」
「黙れ! 今さら見苦しい言い訳など聞かぬ!」
違う。見苦しいのは、わたくしの言い訳ではない。殿下の背後である。
「貴様はこの清らかなミュゼットを妬み、茶会で孤立させ、階段で突き落とそうとし、贈り物まで壊した!」
「殿下、後ろを」
「話を逸らすな。貴様はそうやって、いつも人の目を別の場所へ向けさせる。私は貴様から目を離さない」
「いえ、本当に」
「見ない。貴様が何を企んでいようと、私はこの目で貴様の罪を見届ける」
猫が、さらに引いた。
宰相閣下の口元が右へ寄る。金縁眼鏡がずれた。片目が細くなった。それでも背筋だけはまっすぐで、両手も体の前で組んだままだ。
王国の理性は、ひげを引っ張られても理性だった。
わたくしは、思わず息を止めた。
「ほう。ようやく動揺したか」
「違います、殿下」
「その顔が何よりの証拠だ。貴様にも、罪の重さは分かっているのだろう」
「分かっているのは、殿下の後ろが大変なことになっているという事実です」
「まだ逸らすか!」
殿下の隣で、ミュゼット様が涙を浮かべたまま、視線だけを殿下の背後へ滑らせた。王妃陛下も扇で口元を隠している。扇の上の目は、完全に宰相閣下へ向いていた。
殿下はそれを、わたくしの悪行に皆が震えていると受け取ったらしい。
「この場にいる全員が、貴様の罪を見ている!」
全員、殿下の後ろを見ていた。
「ミュゼット。怖かっただろう」
「はい……少し」
「クラリッサが、それほど恐ろしいか」
「申し上げにくいですわ」
「被害者にここまで言わせるとは!」
「殿下。たぶん、ミュゼット様は別の意味で申し上げにくいのだと思います」
猫が、ぱっと手を離した。
宰相閣下のひげと口元が戻る。
ぱちん。
妙に軽い音が、夜会場に響いた。
宰相閣下は一瞬だけ目を閉じた。涙が一筋、眼鏡の奥で光る。国家のためでも、王家のためでも、民のためでもない。ただ、ひげを限界まで引っ張られた男の涙だった。
わたくしは、淑女として見てはいけないものを見た気がして、そっと目を伏せた。
「目を伏せたな、クラリッサ」
殿下は勝ち誇った。
「宰相まで涙し、貴様も目を伏せる。これが真実の重みだ」
「殿下。涙の理由も、わたくしが目を伏せた理由も、おそらく違います」
「まだ言い逃れるか!」
背後で、宰相閣下が眼鏡を直し、かすれた声で言った。
「続けてください、殿下」
強すぎる。いや、強い方向がおかしい。
「よかろう! 続ける!」
よくない。
猫はひげに飽きたらしい。今度は宰相閣下の肩へ駆け上がった。宰相閣下はかすかに身を固くしたが、動かない。ここで動くと王太子の演説が乱れると思っているのだろう。そういう忠誠はいま要らない。
ルルは宰相閣下の頭上へ前足を伸ばした。どうやら、そこにあるものの手触りが気に入ったらしい。猫は柔らかい場所を見つけると、どこまでも真剣になる。
「殿下」
わたくしはもう一度言った。
「お願いです。一度だけ後ろを」
「くどい。貴様から目を離すものか」
猫の爪が、何かに引っかかった。
ふわり。
宰相閣下の髪が浮いた。
「貴様の本性は、すでに白日の下にさらされている!」
殿下の声と同時に、宰相閣下のカツラが白日の下にさらされた。
会場から、音が消えた。
楽師が弓を止めた。侍女が銀盆を抱えたまま固まった。騎士の喉が小さく鳴る。王妃陛下の扇は口元を隠したまま、ぴたりと動かない。
誰も、息を大きく吸えなかった。
殿下は、わたくしだけを見たまま満足げに顎を上げた。
「ようやく理解したか。これほどの悪意を前にすれば、言葉も失うだろう」
違う。
言葉を失わせたのは、悪意ではない。
宰相閣下の頭上に、燭台の光がすべった。
ミュゼット様が涙顔のまま、ほんの少し目を細める。
「ミュゼット。怖かっただろう」
「はい……少し、まぶしくて」
「クラリッサの悪意が、それほどか」
「殿下、言葉を選ばせてくださいませ」
ミュゼット様は両手で口元を押さえた。悲鳴をこらえているのか、笑いをこらえているのかは分からない。たぶん両方である。
王妃陛下の扇が、ぱきりと鳴った。
宰相閣下は、片手で頭を押さえた。けれど、押さえてどうにかなる段階はもう過ぎている。
指の隙間に、細い銀の一本が残っていた。
ルルが見た。
「それだけは」
宰相閣下の声が、初めて職務から外れた。
ぷちっ。
会場から、また音が消えた。
宰相閣下は何も言わなかった。
何も言わないまま、ゆっくり目を閉じた。
殿下は、わたくしの顔だけを見ていた。
たぶん、わたくしも相当ひどい顔をしていたのだと思う。淑女として、同情と衝撃と笑ってはいけない気持ちが同時に来ると、人はどういう表情になるのだろうか。
「そこまで追い詰められたか、クラリッサ」
「殿下。追い詰められたのは、わたくしではございません」
「まだ言うか」
「本当に、後ろです」
「見ないと言った!」
ルルは最後の一本を捨て、カツラをくわえて走り出した。
「あっ」
声を上げたのはミュゼット様だった。
「ミュゼット?」
「い、いえ、殿下。怖くて……でも、猫ちゃんが」
「クラリッサの罪が、それほど滑稽だと?」
「違います。猫ちゃんが、とても堂々としていて」
味方が完全に背後へ吸われている。
猫は赤絨毯を横切り、壁際の三段ケーキへ飛び乗った。王妃陛下の祝宴用らしい。白いクリームの上に、砂糖細工の王冠が飾られている。
猫はカツラをケーキの上に置いた。どうやら柔らかい寝床として持ち去りたかったらしい。カツラの上で一度前足を踏み、満足げに丸まろうとして、なぜか途中で向きを変えた。
それから、そのカツラをかぶった。
なぜか、似合った。
会場から、また音が消えた。
猫はカツラをかぶり、砂糖の王冠をちょこんと乗せ、ケーキの上で座った。白い胸を張り、尻尾をゆっくり揺らしている。
どう見ても、王宮猫ではなく、小さな宰相だった。
しかも、少しだけ本物より威厳があった。
わたくしは、その感想だけは胸の奥に押し込めた。ここで顔に出してはいけない。絶対にいけない。
けれど、遅かった。
「笑う余裕があるとはな」
殿下は、わたくしの口元を見逃さなかった。
「ここまで追い詰められて、まだ私を侮るか」
「侮っているのではなく、耐えております」
「何にだ」
「申し上げられません」
「また都合の悪いことを隠すのか!」
王妃陛下の扇が、もう一度震えた。
「母上まで驚かれるとは。クラリッサの罪は、王妃の心まで揺るがしたか」
「……見ておりません」
王妃陛下の声は、扇の奥で震えていた。
見ている。かなり見ている。
本物の宰相閣下は、頭には何もないのに、姿勢だけはまだ威厳を保っていた。その姿が、逆に胸に来る。
宰相閣下は、ケーキの上のルルへ低く言った。
「返していただきたい」
猫は返さなかった。
代わりに、あくびをした。
王妃陛下の扇が、また震えた。
「殿下、もう本当に後ろを」
「見ないと言った!」
ルルはカツラをかぶったまま、ケーキから宰相閣下の胸元へ跳んだ。宰相閣下は反射的に受け止める。だが猫の爪が礼服の金飾りに引っかかった。
宰相閣下は片手で猫を支え、もう片方の手で礼服を押さえる。猫は逃げる。金飾りは伸びる。礼服の前合わせが、いやな音を立てた。
びりっ。
「恥を知れ、クラリッサ!」
殿下の声が響いた。
背後で、宰相閣下は裂けた礼服を押さえた。
わたくしは、今度こそ両手で口元を押さえた。
「黙ったな」
殿下は勝ち誇った。
「恥を知ったか、クラリッサ」
「恥を知るべき方角が、少し違います」
「方角など関係ない!」
「今だけは、かなり関係ございます」
猫がさらに逃げた。
びりびりっ、と礼服が裂ける。
王妃陛下の扇が顔の上半分まで上がった。
「母上まで目を伏せるほどか」
「……見ておりません」
王妃陛下の声は、かなり苦しそうだった。
殿下はますます声を張った。
「クラリッサ! 貴様の罪を、今ここで根こそぎ断つ!」
猫が、礼服の飾り紐をくわえた。
宰相閣下が息を呑んだ。わたくしも息を呑んだ。会場全体が息を呑んだ。
殿下は、わたくしの顔だけを見ている。だから当然、わたくしの血の気が引いたことにも気づいた。
「ようやく逃げ場がないと分かったか」
「殿下、逃げ場がないのは」
言いかけて、やめた。
淑女として、ここから先を説明するのは難しすぎる。
「何だ。言え」
「言えません」
「認めたな!」
「認めておりません。ただ、言えません」
猫が走った。
びりりっ。
宰相閣下の礼服が、腰のあたりまで開いた。
会場の空気が、また一段冷えた。
わたくしは、目を閉じたい衝動に耐えた。ここで目を閉じたら、殿下はまた何かを誤解する。けれど開けていてもつらい。
「殿下、背後が危うくございます」
騎士の一人が、耐えきれず声を出した。
「私にはお前たちの忠誠がある!」
「いえ、そうではなく」
「王家を守れ!」
「まず宰相閣下を」
「なぜ皆、宰相ばかり気にする!」
気にするしかないからである。
猫は床へ飛び降りた。カツラをかぶったまま、宰相閣下の足元を抜ける。宰相閣下は裂けた礼服を押さえながら一歩踏み出し、落ちた布を自分で踏んだ。
体が傾く。
その先には、壁に掲げられた王家の巨大な紋章があった。金色の獅子と白百合をあしらった、重そうな飾り板である。
ぎし、と紋章が鳴る。
「王家の威信は揺るがぬ!」
殿下の声が響いた。
背後で、王家の威信が揺れていた。
「支えよ!」
宰相閣下が叫んだ。
騎士たちが動くより早く、宰相閣下は両腕で紋章を押さえた。さすがは王国宰相である。ひげを伸ばされ、カツラを奪われ、礼服を破られても、王家の紋章だけは落とさない。
ただし、その姿勢が悪かった。
礼服の残った布が、紋章の角に引っかかる。
猫が足元を走る。
宰相閣下が踏ん張る。
布が耐えた。
宰相閣下も耐えた。
ズボンだけが、耐えなかった。
すとん。
会場に、信じがたいほど静かな音が落ちた。
宰相閣下は、王家の紋章を支えていた。
頭には何もない。片方のひげだけ少し伸びている。上着は裂け、シャツは開き、ズボンは足首に落ちている。
猫はケーキの上に戻り、カツラと王冠をかぶって座っていた。
わたくしは、完全に固まった。
「ようやく言葉を失ったか」
殿下は、わたくしを見たまま言った。
「それが罪を暴かれた者の顔だ」
違う。
罪を認めたからではない。
淑女として、言葉にしてよい光景ではなかったからである。
「殿下」
「何だ。まだ言い逃れるか」
「もう本当に、後ろをご覧ください」
「見ない。貴様は今、追い詰められている。その顔が何よりの証拠だ」
「追い詰められているのは、わたくしではございません」
「ならば誰だ」
「申し上げてもよろしいのでしょうか」
「言え」
わたくしは、深く息を吸った。
王妃陛下の扇が、少しだけ下がる。ミュゼット様は猫を見ていた手を胸元で止めた。騎士たちは全員、宰相閣下を見ないようにしていた。
もう、言うしかない。
「殿下。現在、王家の威信は宰相閣下のパンツ一枚で支えられております」
殿下は、わたくしを見たまま固まった。
振り返らない。
ここまで来ても、振り返らない。
「……それは」
「はい」
「本当に比喩ではないのか」
「比喩で申し上げられる状況なら、どれほどよかったかと存じます」
背後で、宰相閣下が紋章を支えたまま、かすれた声を出した。
「……続けてください、殿下」
続けられるわけがない。
殿下は、それでも前だけを見ていた。顔色は少し悪くなっている。けれど、ここで振り返れば負けだと思っているのだろう。婚約破棄より、もはや背後を見ない勝負になっている。
「ならば、婚約破棄を続ける」
「殿下」
今度は王妃陛下が、扇の奥から言った。
「おやめなさい」
「母上まで、クラリッサを庇うのですか」
「いいえ」
王妃陛下の声は、震えていた。
「宰相を庇っています」
殿下は黙った。
猫が、ケーキの上でにゃあと鳴いた。
その声に、ミュゼット様が小さく拍手してしまった。すぐに手を止めたが、もう遅い。
「……婚約破棄は」
殿下が、かすれた声で言った。
宰相閣下が、王家の紋章を支えたまま答える。
「成立しておりません」
「なぜだ」
「誰も聞いておりません」
会場の貴族たちは、誰も否定しなかった。
わたくしは礼をした。
「殿下。まず、宰相閣下へ毛布を」
その夜、王家の威信は落ちなかった。
落ちたのは、宰相閣下のズボンと、頭上の最後の希望だけだった。




