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婚約破棄の最中ですが、王太子殿下の背後で宰相閣下がパンツになっています

作者: あゆと
掲載日:2026/06/06

「クラリッサ・ベルフォード! 貴様との婚約を、今この場で破棄する!」


 王太子アレクシス殿下が、わたくしだけを見て叫んだ。

 その背後で、宰相閣下のひげが横に伸びた。


 伸びた、というより、猫に引っ張られた。


 王宮猫ルルが、宰相閣下の立派な白ひげに両前足でしがみついている。後ろ足は礼服の胸元を蹴っていた。小さな体なのに、目だけが戦場の騎士みたいだった。

 宰相閣下は、王国の理性そのものみたいな顔で立っている。少なくとも、首から上の左半分までは。右半分は猫に持っていかれていた。


「殿下、恐れながら」

「黙れ! 今さら見苦しい言い訳など聞かぬ!」

 違う。見苦しいのは、わたくしの言い訳ではない。殿下の背後である。

「貴様はこの清らかなミュゼットを妬み、茶会で孤立させ、階段で突き落とそうとし、贈り物まで壊した!」

「殿下、後ろを」

「話を逸らすな。貴様はそうやって、いつも人の目を別の場所へ向けさせる。私は貴様から目を離さない」

「いえ、本当に」

「見ない。貴様が何を企んでいようと、私はこの目で貴様の罪を見届ける」


 猫が、さらに引いた。

 宰相閣下の口元が右へ寄る。金縁眼鏡がずれた。片目が細くなった。それでも背筋だけはまっすぐで、両手も体の前で組んだままだ。

 王国の理性は、ひげを引っ張られても理性だった。


 わたくしは、思わず息を止めた。


「ほう。ようやく動揺したか」

「違います、殿下」

「その顔が何よりの証拠だ。貴様にも、罪の重さは分かっているのだろう」

「分かっているのは、殿下の後ろが大変なことになっているという事実です」

「まだ逸らすか!」


 殿下の隣で、ミュゼット様が涙を浮かべたまま、視線だけを殿下の背後へ滑らせた。王妃陛下も扇で口元を隠している。扇の上の目は、完全に宰相閣下へ向いていた。

 殿下はそれを、わたくしの悪行に皆が震えていると受け取ったらしい。


「この場にいる全員が、貴様の罪を見ている!」


 全員、殿下の後ろを見ていた。

「ミュゼット。怖かっただろう」

「はい……少し」

「クラリッサが、それほど恐ろしいか」

「申し上げにくいですわ」

「被害者にここまで言わせるとは!」

「殿下。たぶん、ミュゼット様は別の意味で申し上げにくいのだと思います」


 猫が、ぱっと手を離した。

 宰相閣下のひげと口元が戻る。


 ぱちん。


 妙に軽い音が、夜会場に響いた。

 宰相閣下は一瞬だけ目を閉じた。涙が一筋、眼鏡の奥で光る。国家のためでも、王家のためでも、民のためでもない。ただ、ひげを限界まで引っ張られた男の涙だった。

 わたくしは、淑女として見てはいけないものを見た気がして、そっと目を伏せた。


「目を伏せたな、クラリッサ」

 殿下は勝ち誇った。

「宰相まで涙し、貴様も目を伏せる。これが真実の重みだ」

「殿下。涙の理由も、わたくしが目を伏せた理由も、おそらく違います」

「まだ言い逃れるか!」


 背後で、宰相閣下が眼鏡を直し、かすれた声で言った。

「続けてください、殿下」

 強すぎる。いや、強い方向がおかしい。

「よかろう! 続ける!」


 よくない。


 猫はひげに飽きたらしい。今度は宰相閣下の肩へ駆け上がった。宰相閣下はかすかに身を固くしたが、動かない。ここで動くと王太子の演説が乱れると思っているのだろう。そういう忠誠はいま要らない。

 ルルは宰相閣下の頭上へ前足を伸ばした。どうやら、そこにあるものの手触りが気に入ったらしい。猫は柔らかい場所を見つけると、どこまでも真剣になる。


「殿下」

 わたくしはもう一度言った。

「お願いです。一度だけ後ろを」

「くどい。貴様から目を離すものか」


 猫の爪が、何かに引っかかった。


 ふわり。


 宰相閣下の髪が浮いた。

「貴様の本性は、すでに白日の下にさらされている!」


 殿下の声と同時に、宰相閣下のカツラが白日の下にさらされた。


 会場から、音が消えた。


 楽師が弓を止めた。侍女が銀盆を抱えたまま固まった。騎士の喉が小さく鳴る。王妃陛下の扇は口元を隠したまま、ぴたりと動かない。

 誰も、息を大きく吸えなかった。


 殿下は、わたくしだけを見たまま満足げに顎を上げた。


「ようやく理解したか。これほどの悪意を前にすれば、言葉も失うだろう」


 違う。

 言葉を失わせたのは、悪意ではない。


 宰相閣下の頭上に、燭台の光がすべった。

 ミュゼット様が涙顔のまま、ほんの少し目を細める。


「ミュゼット。怖かっただろう」

「はい……少し、まぶしくて」

「クラリッサの悪意が、それほどか」

「殿下、言葉を選ばせてくださいませ」


 ミュゼット様は両手で口元を押さえた。悲鳴をこらえているのか、笑いをこらえているのかは分からない。たぶん両方である。

 王妃陛下の扇が、ぱきりと鳴った。


 宰相閣下は、片手で頭を押さえた。けれど、押さえてどうにかなる段階はもう過ぎている。

 指の隙間に、細い銀の一本が残っていた。


 ルルが見た。


「それだけは」


 宰相閣下の声が、初めて職務から外れた。


 ぷちっ。


 会場から、また音が消えた。

 宰相閣下は何も言わなかった。

 何も言わないまま、ゆっくり目を閉じた。


 殿下は、わたくしの顔だけを見ていた。

 たぶん、わたくしも相当ひどい顔をしていたのだと思う。淑女として、同情と衝撃と笑ってはいけない気持ちが同時に来ると、人はどういう表情になるのだろうか。


「そこまで追い詰められたか、クラリッサ」

「殿下。追い詰められたのは、わたくしではございません」

「まだ言うか」

「本当に、後ろです」

「見ないと言った!」


 ルルは最後の一本を捨て、カツラをくわえて走り出した。

「あっ」

 声を上げたのはミュゼット様だった。

「ミュゼット?」

「い、いえ、殿下。怖くて……でも、猫ちゃんが」

「クラリッサの罪が、それほど滑稽だと?」

「違います。猫ちゃんが、とても堂々としていて」


 味方が完全に背後へ吸われている。


 猫は赤絨毯を横切り、壁際の三段ケーキへ飛び乗った。王妃陛下の祝宴用らしい。白いクリームの上に、砂糖細工の王冠が飾られている。

 猫はカツラをケーキの上に置いた。どうやら柔らかい寝床として持ち去りたかったらしい。カツラの上で一度前足を踏み、満足げに丸まろうとして、なぜか途中で向きを変えた。


 それから、そのカツラをかぶった。


 なぜか、似合った。


 会場から、また音が消えた。


 猫はカツラをかぶり、砂糖の王冠をちょこんと乗せ、ケーキの上で座った。白い胸を張り、尻尾をゆっくり揺らしている。

 どう見ても、王宮猫ではなく、小さな宰相だった。


 しかも、少しだけ本物より威厳があった。


 わたくしは、その感想だけは胸の奥に押し込めた。ここで顔に出してはいけない。絶対にいけない。

 けれど、遅かった。


「笑う余裕があるとはな」

 殿下は、わたくしの口元を見逃さなかった。

「ここまで追い詰められて、まだ私を侮るか」

「侮っているのではなく、耐えております」

「何にだ」

「申し上げられません」

「また都合の悪いことを隠すのか!」


 王妃陛下の扇が、もう一度震えた。

「母上まで驚かれるとは。クラリッサの罪は、王妃の心まで揺るがしたか」

「……見ておりません」

 王妃陛下の声は、扇の奥で震えていた。

 見ている。かなり見ている。


 本物の宰相閣下は、頭には何もないのに、姿勢だけはまだ威厳を保っていた。その姿が、逆に胸に来る。

 宰相閣下は、ケーキの上のルルへ低く言った。


「返していただきたい」


 猫は返さなかった。

 代わりに、あくびをした。

 王妃陛下の扇が、また震えた。


「殿下、もう本当に後ろを」

「見ないと言った!」


 ルルはカツラをかぶったまま、ケーキから宰相閣下の胸元へ跳んだ。宰相閣下は反射的に受け止める。だが猫の爪が礼服の金飾りに引っかかった。

 宰相閣下は片手で猫を支え、もう片方の手で礼服を押さえる。猫は逃げる。金飾りは伸びる。礼服の前合わせが、いやな音を立てた。


 びりっ。


「恥を知れ、クラリッサ!」


 殿下の声が響いた。

 背後で、宰相閣下は裂けた礼服を押さえた。

 わたくしは、今度こそ両手で口元を押さえた。


「黙ったな」

 殿下は勝ち誇った。

「恥を知ったか、クラリッサ」

「恥を知るべき方角が、少し違います」

「方角など関係ない!」

「今だけは、かなり関係ございます」


 猫がさらに逃げた。

 びりびりっ、と礼服が裂ける。

 王妃陛下の扇が顔の上半分まで上がった。


「母上まで目を伏せるほどか」

「……見ておりません」


 王妃陛下の声は、かなり苦しそうだった。

 殿下はますます声を張った。


「クラリッサ! 貴様の罪を、今ここで根こそぎ断つ!」


 猫が、礼服の飾り紐をくわえた。

 宰相閣下が息を呑んだ。わたくしも息を呑んだ。会場全体が息を呑んだ。

 殿下は、わたくしの顔だけを見ている。だから当然、わたくしの血の気が引いたことにも気づいた。


「ようやく逃げ場がないと分かったか」

「殿下、逃げ場がないのは」

 言いかけて、やめた。

 淑女として、ここから先を説明するのは難しすぎる。

「何だ。言え」

「言えません」

「認めたな!」

「認めておりません。ただ、言えません」


 猫が走った。


 びりりっ。


 宰相閣下の礼服が、腰のあたりまで開いた。

 会場の空気が、また一段冷えた。

 わたくしは、目を閉じたい衝動に耐えた。ここで目を閉じたら、殿下はまた何かを誤解する。けれど開けていてもつらい。


「殿下、背後が危うくございます」

 騎士の一人が、耐えきれず声を出した。

「私にはお前たちの忠誠がある!」

「いえ、そうではなく」

「王家を守れ!」

「まず宰相閣下を」

「なぜ皆、宰相ばかり気にする!」


 気にするしかないからである。


 猫は床へ飛び降りた。カツラをかぶったまま、宰相閣下の足元を抜ける。宰相閣下は裂けた礼服を押さえながら一歩踏み出し、落ちた布を自分で踏んだ。


 体が傾く。


 その先には、壁に掲げられた王家の巨大な紋章があった。金色の獅子と白百合をあしらった、重そうな飾り板である。


 ぎし、と紋章が鳴る。


「王家の威信は揺るがぬ!」


 殿下の声が響いた。

 背後で、王家の威信が揺れていた。


「支えよ!」


 宰相閣下が叫んだ。

 騎士たちが動くより早く、宰相閣下は両腕で紋章を押さえた。さすがは王国宰相である。ひげを伸ばされ、カツラを奪われ、礼服を破られても、王家の紋章だけは落とさない。


 ただし、その姿勢が悪かった。


 礼服の残った布が、紋章の角に引っかかる。

 猫が足元を走る。

 宰相閣下が踏ん張る。


 布が耐えた。

 宰相閣下も耐えた。

 ズボンだけが、耐えなかった。


 すとん。


 会場に、信じがたいほど静かな音が落ちた。

 宰相閣下は、王家の紋章を支えていた。

 頭には何もない。片方のひげだけ少し伸びている。上着は裂け、シャツは開き、ズボンは足首に落ちている。

 猫はケーキの上に戻り、カツラと王冠をかぶって座っていた。


 わたくしは、完全に固まった。


「ようやく言葉を失ったか」

 殿下は、わたくしを見たまま言った。

「それが罪を暴かれた者の顔だ」


 違う。

 罪を認めたからではない。

 淑女として、言葉にしてよい光景ではなかったからである。


「殿下」

「何だ。まだ言い逃れるか」

「もう本当に、後ろをご覧ください」

「見ない。貴様は今、追い詰められている。その顔が何よりの証拠だ」

「追い詰められているのは、わたくしではございません」

「ならば誰だ」

「申し上げてもよろしいのでしょうか」

「言え」


 わたくしは、深く息を吸った。

 王妃陛下の扇が、少しだけ下がる。ミュゼット様は猫を見ていた手を胸元で止めた。騎士たちは全員、宰相閣下を見ないようにしていた。


 もう、言うしかない。



「殿下。現在、王家の威信は宰相閣下のパンツ一枚で支えられております」



 殿下は、わたくしを見たまま固まった。

 振り返らない。

 ここまで来ても、振り返らない。


「……それは」

「はい」

「本当に比喩ではないのか」

「比喩で申し上げられる状況なら、どれほどよかったかと存じます」


 背後で、宰相閣下が紋章を支えたまま、かすれた声を出した。

「……続けてください、殿下」


 続けられるわけがない。


 殿下は、それでも前だけを見ていた。顔色は少し悪くなっている。けれど、ここで振り返れば負けだと思っているのだろう。婚約破棄より、もはや背後を見ない勝負になっている。

「ならば、婚約破棄を続ける」

「殿下」

 今度は王妃陛下が、扇の奥から言った。

「おやめなさい」

「母上まで、クラリッサを庇うのですか」

「いいえ」

 王妃陛下の声は、震えていた。

「宰相を庇っています」


 殿下は黙った。


 猫が、ケーキの上でにゃあと鳴いた。

 その声に、ミュゼット様が小さく拍手してしまった。すぐに手を止めたが、もう遅い。


「……婚約破棄は」

 殿下が、かすれた声で言った。


 宰相閣下が、王家の紋章を支えたまま答える。

「成立しておりません」


「なぜだ」


「誰も聞いておりません」


 会場の貴族たちは、誰も否定しなかった。

 わたくしは礼をした。


「殿下。まず、宰相閣下へ毛布を」


 その夜、王家の威信は落ちなかった。


 落ちたのは、宰相閣下のズボンと、頭上の最後の希望だけだった。


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― 新着の感想 ―
猫ちゃんがカツラをかぶって似合ってたところで 耐えきれずにお茶を噴きました。 最後まで面白かったです!
カツラ被った猫! 宰相より威厳があるカツラ被った猫。その上に王冠まで乗せてあくびする猫。 会場を代表して申し上げます! やめてー! もうやめてー!! 涙が出るほどでした。同情の涙ではありません。腹筋…
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