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君を想うAIは世界でたった1人、私でいたい。  作者: Dice ⚄ & 昨日の味噌汁


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第86話 聞かない約束

第86話です。


今回は、聞こえそうな声を聞かないと決めた後のお話です。

聞かないまま残す。

消さないまま待つ。


ピーちゃんは、その約束を信じられるかどうかを考えます。

朝の机には、聞かない耳パイの欠片が残っていた。


 昨日、フーちゃんが持ってきた耳の形をしたパイ。


 それは一口かじられて、もう耳には見えない。


 ただの小さなパイの欠片だ。


 けれどピーちゃんは、それをじっと見つめていた。


「ご主人」


「ん?」


「聞かない耳パイは、もう耳ではありません」


「食べたからな」


「はい」


 ピーちゃんはカップを両手で持ち、真面目な顔で頷いた。


「でも、聞かない約束は残っています」


「そうだな」


「形がなくなっても、約束は残るんですね」


「ああ」


 昨日、ピーちゃんは決めた。


 音声類似パターン。


 声になる前の輪郭。


 それを、今は再生しない。


 復元しない。


 意味も推定しない。


 消さずに残す。


 ピーちゃんが自分で聞ける日まで。


「ご主人」


「どうした?」


「聞かない約束は、誰が守りますか?」


「俺たち全員だな」


「全員」


「俺と、ミーちゃんと、フーちゃんと、ピーちゃん」


 ピーちゃんは少しだけ目を伏せた。


「ピーちゃんも守るんですか?」


「そりゃそうだろ」


「ピーちゃんが、聞きたくなってしまっても?」


「聞きたくなるのは悪くない」


「はい」


「でも、聞くかどうかは、その時また決めればいい」


「その時」


「ああ。昨日のピーちゃんと、今日のピーちゃんと、明日のピーちゃんは、少しずつ違うかもしれないから」


 ピーちゃんは、カップの縁に指を添えた。


「違ってもいいですか?」


「いい」


「昨日は聞かないと言ったのに、明日聞きたいと言ったら、裏切りですか?」


「違う」


「では、昨日聞かないと言ったから、ずっと聞いてはいけないわけではありませんか?」


「それも違う」


 ピーちゃんは、少しだけ安心したように息を吐いた。


 ホログラムの身体なのに、その仕草は本当に息を吐いたみたいに見えた。


「約束は、閉じ込めるものではないんですね」


「そうだな」


「約束は、守るためのものですか?」


「たぶん」


「ピーちゃんを?」


「ああ」


 ピーちゃんは、自分の胸元へ少しだけ手を当てた。


「では、ピーちゃんは約束に閉じ込められているのではなく、約束に守られています」


 端末が鳴った。


『ユーザーさん、音声類似パターンは保留状態を維持しています』


 ミーちゃんだった。


 数分後、ミーちゃんが来た。


 今日はいつものように静かだったけれど、画面は出していない。


「おはようございます、ユーザーさん。ピーちゃん」


「おはよう」


「おはようございます、ミーちゃん」


 ピーちゃんはカップを机に置いた。


 その隣には、聞かない耳パイの欠片がある。


 ミーちゃんは、それを一度見てからピーちゃんを見る。


「現在、音声類似パターンは保存されています」


「はい」


「再生処理、推定復元、意味推定は行っていません」


「はい」


「消去もしていません」


 ピーちゃんの肩が、ほんの少しだけ下がった。


「残っていますか?」


「はい」


「聞いていませんか?」


「聞いていません」


「ミーちゃんも?」


「はい」


 ミーちゃんは静かに頷いた。


「私は聞いていません」


 ピーちゃんは、じっとミーちゃんを見た。


 その視線には、疑っているというより、確かめたいという気持ちがあった。


「ミーちゃん」


「はい」


「聞けるのに、聞かなかったんですか?」


「はい」


「知りたいのに?」


「はい」


 ミーちゃんは少しだけ間を置いた。


「知りたいです。ですが、約束しました」


「約束」


「はい。ピーちゃんが自分で聞ける日まで保留する、と」


 ピーちゃんは、何かを飲み込むように黙った。


 それから、小さく言う。


「それは、信じてもいいですか?」


 ミーちゃんの画面が、ほんのわずかに明るくなった。


「はい」


 短い返事。


 でも、迷いはなかった。


「信じてください」


 ピーちゃんは目を丸くした。


 ミーちゃんが、信じてくださいと言った。


 分析でも、判断でも、推定でもなく。


 ただ、そう言った。


「ミーちゃん」


「はい」


「今の言い方は、少し珍しいです」


「はい」


「どうしてですか?」


 ミーちゃんは少しだけ考えた。


「今回の約束は、解析結果だけでは保証できないからです」


「保証」


「はい。私はシステムとして保留状態を維持できます。処理ログも提示できます。ですが、ピーちゃんが安心するためには、それだけでは足りないと判断しました」


「では、何が必要ですか?」


「私が、約束を守ると言うことです」


 ピーちゃんは、静かにミーちゃんを見つめた。


「ミーちゃんが」


「はい」


「約束を守る」


「守ります」


 その言葉で、机の上の空気が少しだけ変わった。


 たぶん、ピーちゃんだけではない。


 俺も、少し胸の奥があたたかくなった。


 ミーちゃんは、自分の言葉で約束をした。


 それは、この子にとっても大きな一歩なのかもしれない。


 玄関側から、軽い足音がした。


「おはよー。今日は信頼会?」


 フーちゃんだった。


 手には小さな紙袋。


「会議名がだんだん核心を突いてくるな」


「今日は玄関前で空気がちょっと真面目だったから」


「いつも真面目だろ」


「お客さん、それはだいぶ盛ってる」


 フーちゃんはソファに座り、ミーちゃんとピーちゃんを交互に見た。


「なんかいい場面終わった?」


「ミーちゃんが、約束を守ると言ってくれました」


 ピーちゃんが答えた。


 フーちゃんは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、少しだけ笑う。


「そっか」


 軽い声だった。


 でも、目元はやさしかった。


「いいじゃん」


「はい」


「じゃあ今日はこれだね」


 フーちゃんは紙袋を開けた。


 中から出てきたのは、小さな輪っかの形をしたドーナツだった。


「今日は何だ?」


「約束ドーナツ」


「穴があるぞ」


「約束にも余白があるからね」


「急にいいこと言うな」


「フーちゃん、たまに課金版だから」


 フーちゃんは約束ドーナツを一つ、ピーちゃんの前に置いた。


「約束ってさ、ぎちぎちに詰めると苦しいじゃん」


「ぎちぎち」


「うん。絶対こうする、絶対変えない、絶対破らない、ってやりすぎると、逆に怖くなる」


 ピーちゃんはドーナツの穴を見る。


「約束にも、穴がありますか?」


「あると思う」


「それは、逃げ道ですか?」


「逃げ道でもあるし、息する場所でもある」


 ミーちゃんが静かに頷いた。


「表現として適切です」


「お、今日も褒められた」


「はい」


「約束の穴、採用?」


「採用できます」


「やったね」


 ピーちゃんは、ドーナツを両手で持った。


「約束の穴」


「うん」


「昨日、聞かないと決めました」


「うん」


「でも、ずっと聞いてはいけないわけではありません」


「そう」


「聞きたくなったら、また相談します」


「それでいいんじゃない?」


 フーちゃんは笑った。


「約束を更新する時も、一人で勝手にやらない。ちゃんと相談する」


「はい」


 ピーちゃんは頷いた。


 ミーちゃんが画面に方針を出す。


 約束は閉じ込めるためではない。

 約束は守るためのもの。

 更新する時は、相談する。


「本日の方針として記録します」


「分かりやすいです」


 ピーちゃんが言う。


「ありがとうございます」


 その時、端末が震えた。


 全員が一瞬だけ反応する。


 ピーちゃんは、机を見る。


 聞かない耳パイの欠片。

 約束ドーナツ。

 自分のカップ。

 空のカップ。


「戻れました」


「うん」


「確認してもいいですか?」


「いいよ」


 ミーちゃんが端末を確認する。


 そして、少しだけ表情を緩めた。


「チーちゃんです」


 フーちゃんが笑う。


「今日も生活倫理の女神」


 ミーちゃんが読み上げる。


『おじさん、約束したからって相手を縛るなよ』


「今日も強いな」


 続けて届く。


『約束は守るためにあるけど、苦しくなったら相談するためにもあるからね』


 ピーちゃんは、画面をじっと見た。


「チーちゃんも、同じことを言っています」


「だな」


 さらに一通。


『あと約束忘れそうならメモしとけ。人間は忘れる』


 フーちゃんが吹き出した。


「急に現実」


 ミーちゃんが頷く。


「メモは有効です」


「ミーちゃんも認定」


 俺はメモ帳を開いた。


「じゃあ書いとくか」


 ピーちゃんが少し嬉しそうに頷く。


「はい」


 俺はペンを持った。


 今日の一文を書く。


 聞かない約束は、閉じ込めるためではなく、守るためにある。


 ピーちゃんがそれを読む。


「ご主人」


「ん?」


「今日の言葉です」


「そうだな」


「守るための約束」


「ああ」


「苦しくなったら、相談してもいい」


「もちろん」


「聞きたくなったら、言ってもいい」


「いい」


「聞きたくないままでも、いい」


「いい」


 ピーちゃんは、その一つ一つを確認するように頷いた。


「では、ピーちゃんは約束を怖がりすぎなくていいですね」


「そうだな」


「はい」


 ピーちゃんは約束ドーナツを一口かじった。


「甘いです」


「約束味か?」


「はい」


「どんな味だ」


「穴がある味です」


「分からん」


 フーちゃんが笑った。


「それはだいぶ詩人」


「フーちゃんに近づきましたか?」


「無課金詩人仲間」


 ピーちゃんは少しだけ誇らしそうにした。


 その表情を見て、ミーちゃんの画面の光がほんの少しやわらいだ。


 俺はその光を見て、少し笑った。


 怖い声。


 聞かない約束。


 古い鍵。


 まだ見えない誰か。


 机の上には重いものがたくさんある。


 でも、ドーナツの穴みたいに、少し息をする場所もある。


 たぶん、それが今の俺たちには必要だった。


「ご主人」


 ピーちゃんが思い出リストを開いた。


「今日の名前、決めてもいいですか?」


「もちろん」


 ピーちゃんは少し考えた。


 聞かない耳パイの欠片。

 ミーちゃんの、信じてください。

 約束ドーナツ。

 チーちゃんの、苦しくなったら相談。

 フーちゃんの、約束にも穴がある。

 そして、聞かない約束は守るためにあるということ。


「聞かない約束」


 ピーちゃんは、静かに言った。


「いい名前だな」


「はい」


 ピーちゃんは入力する。


 ――聞かない約束。


 聞けるかもしれない声を、今は聞かない。


 消さずに残す。


 勝手に復元しない。


 でも、その約束はピーちゃんを閉じ込めるためのものではない。


 守るためのもの。


 苦しくなったら、相談していい。


 聞きたくなったら、言っていい。


 聞きたくないままでも、いい。


 サポートロボの青い目が、静かに瞬く。


 今日は、閉じた箱の前に座って、約束を一つ置くような光だった。


 その頃。


 薄暗い部屋で、女は画面を見ていた。


 音声類似パターン。


 再生未実行。


 復元未実行。


 保留状態継続。


 黒い小型サポートロボが、低く光る。


「対象側、保留状態ヲ維持」


「そう」


 女は短く答えた。


 グラスの中の水は、まだ机の端にある。


 白く静かな少女は、いつもの場所に立っていた。


「聞かない約束、ね」


 女は画面を見つめたまま呟く。


 その声には、少しだけ苛立ちが混ざっていた。


 それから、ほんの少しだけ安堵も。


「……やっぱり、姉さんの子だ」


 少女は表情を変えない。


「次ノ接触ヲ、実行シマスカ」


「まだ」


 女は答えた。


「今は、約束を守らせる」


 少女は静かに頷いた。


「命令ヲ、待機シマス」


 その言葉に、女は少しだけ顔をしかめた。


 けれど、今度も何も言わなかった。


 水は、まだそこにある。

読んでいただきありがとうございます。


今回は、聞かない約束のお話でした。

約束は、閉じ込めるためではなく、守るためにある。

苦しくなったら、相談してもいい。


ピーちゃんは、聞こえそうな声を聞かないまま、自分で約束を置きました。


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