第十六話 内なる者
「はぁ……はぁ……」
宿屋の部屋に戻った俺は、床にへたり込んで、呼吸を整えていた。息が上がっているのか意識が朦朧として、心臓がバクバクとなったままだ。
「なんだよ、これ……」
俺は胸を抑えながら、苦痛に顔を歪める。心臓が痛い。胸の奥が苦しい。これは一体……なんなんだ?
(……苦しい……!吐き気がする……!身体が言う事を聞かない……!)
まるで、あの時みたいだ。事故のせいで死に迫ったあの時。あの何かを失うような感覚と絶望が、俺を埋め尽くす。
「また、なのか……?もしかして……俺は、死ぬのか……?」
思い浮かんだのは、自らの死だ。しかし、身体が徐々に動かなくなるような、あの感覚は一切感じない。ただ、胸の奥が苦しいだけ。それだけだ。それだけなのに――
「なん、で……動かないんだ……!俺の、身体……!」
身体に力が入らない。だというのに、拳には力がこもり、今にも床を叩いてしまいそうだった。こんなのは初めてだ。コウが起きていたときでさえ……こんなことはなかった。
「さっきのが……原因なのか……?」
先程、オリーリヤを退けた時に見た、皆の視線。怯えと恐れが入り混じった……冷たい視線。あれが、俺をここまで陥れたのか?
「わからない……誰か……」
俺は床に四つん這いになりながら、額を擦り付け……小さな声で、呟いた。
「助けて、くれ……」
とても、小さな呟きだった。風に吹かれて消えてしまいそうな、頼りないものだった。自分がこれを言ったと信じたくなかった。俺は押し寄せる無力感から瞳を閉じ、床を叩こうと――した所で、その声を聞いた。
「――どうかしたのかね、少年」
頭上から声が聞こえて、俺は目を見開く。恐る恐る顔を上げてみると、そこには見覚えのある男性が立っていた。俺はその姿を見て……ボソリと呟く。
「ホロウ……?」
くすんだ銀髪で、神秘的なローブに身を纏った男性。俺をこの世界に転生させた男。――ホロウが、そこに立っていた。
「おや、覚えていてくれたとはね。嬉しいよ。私を覚えてくれる人間は、今までにいなかったからね」
「なんで……あんたがここに……」
「そりゃ、君に会いに来たんだよ。####コウ――いや、ベリル。君にね」
「……!?」
――それは一瞬の出来事だった。俺の胸に白い剣が突き刺さって、俺は床に縫い留められた。尋常ではない痛みが俺を襲う。
「がっ……!?あんた、何を……!」
「……ようやくだ。ようやく、この時がやってきた」
ホロウは剣から手を離し、俺の顔の近くに屈み込む。そこには、先程浮かべていた柔和な笑みではなく、残虐な笑みが浮かんでいた。
「君はいい働きをしてくれたよ、ベリル。他の眷属から力を吸収し、その潜在能力から神の使徒に匹敵する力を得た。あとは私が君を取り込めば……計画は完成する」
「何を……言って……!」
「おや、理解できなかったのかい?何も難しいことは言ってないんだけどなぁ。君は自分と同じ転生者に打ち勝ち、オリーリヤを退けた。君はそんな人間離れしたことができる、稀有な存在ってことさ」
ホロウはそんな訳のわからない事を言いながら、俺の顔に手を当てる。彼は、ゾッとするような冷たい瞳をしていた。思わず顔が強張り、視線を逸らしてしまう。そんな俺を見て、ホロウは首を傾げた。
「……まさか、怖がっているのかい?悪魔である君が、私を?」
「悪魔……?」
「そうさ。人間の負の感情から生まれた存在……悪魔。世界の理を捻じ曲げるその力があれば、私は神になれる。世界を……破壊できる」
悪魔……?神……?何を、言ってるんだ……?
「少し、喋り過ぎたね。じゃあ、そろそろ……別れの時間だ。もう二度と会うことはないだろう」
ホロウがそう言った次の瞬間、俺の意識はプツリと途切れた。
「……やっとだ」
ホロウは自らの力の昂りを感じながら、愉悦の笑みを浮かべる。血に染まった白い剣を片手に佇むその姿は、まるで狂戦士のようだった。
「ようやく、悪魔の力を手に入れた……!これで、私に敵はない。あの忌々しい欲望と虚無の神でさえも、今の私を止めることはできないっ!」
ホロウは残虐な笑みを浮かべながら、地に伏せる少年――ベリルの依り代の姿を見る。先程まで剣で地面に縫い留められていたはずのその身体は傷一つなく、ただ眠っているだけのように見えた。
「まさかこのような軟弱な子供に悪魔が憑いているとは……私は幸運だな」
ホロウはこの少年が目の前に現れた時の事を思い出す。死者の魂が集う場所で、魂を二つ持った少年を見た時は、内心驚愕したものだ。少し探ってみれば、それは悪魔憑きだと言うではないか。利用しない手はないと思った。
「……もうちまちまと眷属を作り、支配を広げる必要はない。なぜならこの私自身が支配を広げ、神となるからだ!ハーッハッハッハ!」
ホロウは高らかにそう言うと、一瞬の内に姿を消した。後には、一人の少年――コウの身体だけが残るのだった。
――コウを追いかけていたわたしとワダツミは、自分達の泊まっている宿屋に辿り着いた。
「コウは、ここに逃げたのよね?」
「イグザクトリー。ワダツミの探知機能によると、ここにコウがいることは確定」
「コウ……」
先程、異形の少女を退け、襲われていた女性を救ったわたしのパーティーメンバー……コウは、何故かその場から逃げ出した。だから、こうして追ってきた訳なのだが……
「……っ」
身体が震えている。言い表しようのない恐怖が、わたしの足取りを重くする。追いかけている間も、わたしの心の奥底には恐怖があった。
「……シェリィ?大丈夫?」
「だ、大丈夫よ。走ってきて、疲れただけだから……」
ワダツミが首を傾げてこちらを見てきたので、慌てて誤魔化す。……この恐怖を感じ取られるわけにはいかない。わたしは、コウの仲間で、味方なんだから。仲間が仲間を怖がっているなんて、絶対に悟られてはいけない。それはコウを傷つける。
(……化け物)
「……っ!」
脳裏に、あの事件を目にしていた人達が呟いた言葉を思い出す。――あの時、異形の少女を相手していたコウは……とても正気であるとは思えなかった。狂ったように剣を振るい、相手を斬って笑っていた。普通の人間なら、その光景を見て恐怖を抱かないはずがない。……わたしも、その普通の人間の一人。……やっぱり未熟ね、わたしは。
「……ワダツミ、行きましょう」
「了解」
わたしは息を呑んで決意を固め、ワダツミにそう言った。彼女ははっきりとした声で返事をして、わたしについてくる。足はまだ震えているが、こんなのに躓いているわけにはいかない。だってわたしは、コウとワダツミの期待に答えるって決めたんだ。弱い自分から変わって、彼らと肩を並べるって……決めたんだから。そんな事を考えている内に、わたしはコウの泊まっている部屋に到着した。
「……ここが、コウの部屋ね」
「……物音が聞こえない。もしかして、部屋にはいない?」
「……待って、ドアが開いているわ」
わたしは部屋のドアが、少しだけ開いているのを見つける。コウが閉め忘れたのだろうか。――その先から、人の気配がした。わたしは少し呼吸を整え、ドアをノックする。……しかし、返事はなかった。
「コウ?」
扉の向こうに呼びかけてみる。……それでも返事はない。もう一度、ノックをしてみる。
「コウ、いるの?」
「……返事は聞こえない。けど、ワダツミのセンサーに生体反応がある。中におそらく人がいる」
ワダツミのその言葉を聞いた瞬間――わたしは、嫌な予感がした。コウは逃げる直前、どこか思い詰めたような表情をしていた。まるで何か罪を犯したかのような、怯えるような顔をしていた。そんな人間が、部屋に一人逃げ込んだとしたら……?わたしはその先を考えるよりも前に、ドアを無理やり開けた。
「コウっ!」
部屋に入って、辺りを見渡す。必死に視線を動かし、コウの姿を探すと――わたしの視界に、倒れている少年の姿が写った。
「コウっ!!」
わたしは少年に駆け寄った。間違いない、コウだ。彼は眠っているかのように瞳を閉じ、身動き一つとらない。わたしが身体を揺らしてみても、反応はない。
「え、嘘……?嘘よね、コウ……?」
呼びかけてみても、コウの反応はない。呆然とするわたしの隣に、ワダツミが屈み込む。彼女はコウの顔を見つめて……こう言った。
「生体反応がある。死んではいない」
「え……!?」
わたしはコウの身体を見て、手首を掴む。僅かだが、身体は呼吸で上下しているし、脈もある。しかし、それはとても弱々しいものだった。
「コウは、生きてるの……?」
「生きている。けど、おそらく危険な状態にある。すぐに治療術師を呼ぶべき」
「わ、分かったわ。ワダツミは彼を運んで――」
わたしがそう言った直後――すぐ近くから、聞き覚えのある声が聞こえた。
「……う、うう……」
「……!?コウ?コウなの?」
わたしはコウの顔を覗き込む。口が動いている。少し動きが鈍いが、顔も動いている。……やがて、彼の瞳が、ゆっくりと開いた。彼は視線を動かして、わたしの方を見る。
「コウ!?……良かった、目を覚ましたのね!」
「……あ、え……?」
彼は、どこかぼんやりとした様子で辺りを見渡す。そして、自分の手首を掴んでいるわたしの手を見て、ゆっくりと、上半身を起こした。
「……?」
「心臓に悪いわよ……!わ、わたし、あなたが死んじゃったかと……!」
「…………あの、申し訳ありません」
「え?」
わたしが必死に喋っていると、彼は首を傾げながら口を挟んだ。どこか、他人行儀な口調で。彼は困惑したような表情を浮かべ、わたしを見ている。
「……俺は、何故このような所に?」
「え?それは、こっちの台詞なんだけど……あなたがここに逃げ込んだから、必死に追いかけたのよ……」
「……?俺が、ここに?」
コウはわけがわからない、といった様子でまた首を傾げる。……どうかしたのかしら。まさか、頭でも打ったとか……?
「コウ、怪我はない?もしくは、どこか変わったところとか……」
「……あ、ありませんが……ところで、何故あなたは俺の名前を知っているのですか?」
「え?」
コウは何故か意味のわからない言葉を述べる。もしかしたら、わたしをからかっているの?こっちは真剣に、あなたを心配しているのに……!
「ふ、ふざけないでよ。わたしは、あなたのパーティーメンバーなのよ?知っているに決まってるじゃない」
「……コウ。そういう冗談は好ましくないと思う。ワダツミは何とも思わないけど、シェリィは本気で心配している」
ワダツミが横から口を突っ込む。しかしコウは、それでもなお、状況が理解できないといった様子で――
「……申し訳ないのですが、俺はあなた達を知りません。あなた達の名前も、顔も……知りません。なぜこの場所にいるのかも……わかりません」
「……え?」
――嘘を言っているようには見えない。わたしはそう感じた。彼は本気で困惑しているように思える。わたしは呆然としながら、ワダツミに視線を向けた。
「脈は正常、体温も正常……嘘である可能性は、極めて低い……」
――その言葉で、わたしの顔から表情が抜け落ちた。コウの手首を掴んでいた手の力が抜け、わたしは地面に視線を向けた。
「……記憶、喪失……?」
それだけが、わたしが発せられた言葉だった。




