間幕 悪魔
――これは、俺が十一歳の時の話です。その日は、雨が降っていました。アカリ姉さんが泣きながら俺の家に帰ってきて、俺に抱きついてきました。
「コウ君……っ!ううっ……ひっ……ぐす……」
「姉さん……?どうかしたんですか?」
「僕の……大切な……」
姉さんは泣きながら、俺にぼろぼろの通学鞄を見せてきました。――ちらりと隙間から見えた中身は、水に濡れた教科書や破れたノート……そして、ぼろぼろの筆箱が見えました。俺は目を見開いたまま、言葉を失いました。
「……コウ君から貰った、筆箱……壊されちゃった。……ごめん、っ……ごめんね……」
姉さんは涙を流し、俺に向かって謝罪をします。――なんで?なんで姉さんが謝るんですか?……姉さんが自分でこんな事をするとは思えませんでした。まさか川に鞄を落としたわけでもあるまいし、たとえ川に流されたとしても、ここまで悲惨な事になるだろうか?思考を巡らせる俺に、姉さんはこう言いました。
「……僕、クラスの人達と、上手くいってなくて……こんなにされちゃった……僕のせいで……」
「……姉さんの、せい……?」
これが?この敵意にまみれた惨状が、姉さんのせい?そんなわけがありません。だってアカリ姉さんは……真面目で、優しい人ですから。こんな事をしたのは一体誰なのか。それは――
(……姉さんの、クラスメイト)
姉さんはいつも言っていました。人と上手く話せなくて、いつもからかわれたり、やっかみを持たれたりすると。姉さんは小学生の頃から優秀で、中学生である時も、それは変わりませんでした。――だから、姉さんは色んな人から妬みを向けられていたのです。今回のこれも、きっとそういう人の仕業でしょう。……そう思うと、俺は腹の底から怒りが湧き上がるのを感じました。――俺は姉さんを抱き締めて、そっと呟きます。
「姉さん――俺に、任せてください」
「……え……?」
「姉さんを、絶対に助けてみせます。だからここで……待っていてください」
「……コウ君……?」
「お腹がすいたら、戸棚に俺の買ったお菓子があります。それを食べてください。……では、すぐに戻ってくるので」
こうして俺は、感情のままに家を出ました。そしてある人を探しに行ったのです。
――結果として、姉さんの抱えていたトラブルは驚くほど早く解決しました。学校からすぐに新しい鞄と教科書が支給され、ノートも新しいものに変わりました。もちろん、筆箱も。
「……はい、アカリさん。新しい鞄ですよ」
「あ、ありがとう……母さん」
目の前で温和な雰囲気の女性――母から鞄を受け取る姉さん。俺はそれを、アカリ姉さんの隣で見ていました。今俺達がいるのは姉さん達の家……俺の母さんの家です。父と離婚して姉二人と暮らしている母は、心配そうな表情で姉さんを見ていました。
「……本当にごめんなさい。まさかアカリさんが、学校でそんな目に会っていたとは……私が仕事にかまけていたせいで、気づけませんでした」
「あ、謝らないでよ、母さん」
「それと、コウさんも……アカリさんの事を教えてくれて、ありがとうございます」
母は俺に向かって頭を下げました。俺も合わせてお辞儀を返します。……そう、俺はあの時、隣町にある母の家に向かったのです。お小遣いを削って電車に乗り、家に帰っていたビャクヤ姉さんに母への連絡をしてもらいました。――アカリ姉さんがいじめられているかもしれないということを。それを聞いた母は凄まじいスピードで家に戻ってきて、俺とビャクヤ姉さんを連れ、車で父の家にいるアカリ姉さんを迎えに来てもらったのです。それから話はスピーディーに進み、アカリ姉さんの抱えていた問題は解決しました。改めて、ビャクヤ姉さんと母の対応の早さには驚かされるばかりです。
「アカリ、何処か殴られたりはしていないか?傷をつけられたりしていたら病院に行くんだぞ?」
「ありがとう、ビャク姉。傷は大丈夫だよ」
「ああ、良かった……お前に何かあったら、私は……」
「……ビャク姉、泣いてるの?」
「当たり前だろう!大切な妹が傷つけられたのだぞ!」
ビャクヤ姉さんはアカリ姉さんに怒鳴りながらも、アカリ姉さんを優しく抱きしめます。
「……お前は、一人で抱え込む癖があるからな。もし今度何かあったら、私を頼るといい。絶対に助けるから」
「ビャク姉……ありがとう。……コウ君も、ありがとうね」
「いえ、俺は当然の事をしただけです」
「本当にありがとう。……僕、お姉ちゃんなのに、コウ君に助けられてばっかりだね」
アカリ姉さんはビャクヤ姉さんに抱きしめられながら、自虐的な笑みを浮かべていました。それを見た俺は、思わずこう言っていました。
「姉とか弟とか、関係ありません。俺達は、大切な家族ですから。助け合うのは、当たり前です」
「……コウ君…………ぐすっ」
「あ、アカリ姉さん!?」
突然泣き出したアカリ姉さんに、俺はしどろもどろになって慌てました。……もしかしたら、気を損ねることを言ってしまったのでしょうか……という考えが頭を過ぎりますが、すぐさま、それは杞憂だったことに気が付きました。――アカリ姉さんはもう涙を拭い、いつも通りの素敵な笑みを浮かべていたからです。
「ごめん、ちょっと嬉しすぎて……ビャク姉、コウ君を抱きしめに行ってもいい?」
「……お前というやつは……ほら」
ビャクヤ姉さんは呆れながらも、アカリ姉さんから手を離しました。すると、アカリ姉さんはすぐに俺に抱きついてきました。
「……ありがとう、コウ君。大好きだよ」
――その時に聞いた言葉を、俺は一生忘れないでしょう。だって俺は、ずっと姉さん達の役に立ちたいと願ってきたのですから。
≪へー、お前ってほんと献身的な奴だな≫
姉さん達が家に帰り、俺は自室で今日あった事を彼に話していました。――いえ、話すというのは違うかもしれません。どちらかと言うと、独り言に近いものです。
「献身的……どういう意味でしょう?」
≪そのまんまだ。誰かの役に立ちたいっていう姿勢。……お前はほんとに姉さんが好きなんだな≫
「……好き、というのはもちろんありますが、どちらかというと尊敬しているんです。姉さん達は俺なんかより立派な人ですから」
≪うわ、面倒くせー……もしかしてそんなつまらん事を話すために俺を起こしたのか?≫
「はい。誰かに話したかったので」
≪……相変わらず行動力だけはあるな。今日だって、体調悪いのに無茶してただろ≫
「……でも、ベリルは助けてくれたじゃないですか」
≪お前に死なれたら困るんだよ≫
そう言って悪態をついてくる彼の名前は、ベリル。俺が五歳の頃に生まれた……もう一人の俺です。……俺は昔、父にとある儀式をさせられた事があります。詳しくは思い出せませんが、その時に自分は生まれたのだとベリルは言っていました。……昔から、俺は彼を話し相手として扱っていました。友達もいない俺にとっては、彼の存在が心地よかったのでしょう。……ちなみに俺は身体が弱く、過度な運動をするとよく倒れたりするのですが……ベリルはたまにそれを助けてくれます。彼はどうやら、俺に体力を与えることができるらしいのです。原理はよくわかりませんが……
「今日はありがとうございます。助かりました」
≪はっ、礼なんざいらん。俺が勝手にやったことだ≫
彼には本当に助かっています。――彼のおかげで、俺は自分の役目を果たすことができるのですから。願わくば、彼とも一緒に生きていたい……俺がそう願うようになったのも、ある意味必然だったのかもしれません。




