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番外編 榊の未練

番外編 榊の未練


 未練は、測定可能だ。

 数値化はできないが、強度は判別できる。

 濃度、粘性、持続時間。

 

 榊にとって未練は、感傷ではなく現象だった。

 少なくとも、そう扱うことにしている。

 里奈が継続を選んだ日、榊は記録を更新した。


「職員番号R-17、継続。未練強度、再定義」

 再定義。

 本来なら減衰の一途を辿るはずの波形が、形を変えて安定した。

 それは興味深い事例だった。


 だが彼は、研究者ではない。

 監督者だ。執務室に一人残る。

 境界は常に薄曇りで、時間の概念は希薄だ。

 それでも彼は、一定の周期で机を整える。

 秩序は、崩壊を遅らせる。


 見送り業務は、救済ではない。均衡維持だ。

 未練が過剰になれば、境界は歪む。


 歪みは、事故を生む。

 事故は、さらなる未練を生む。


 その連鎖を断つために、彼らはいる。

 榊の未練は、単純だった。

 

 ――一度だけ、均衡を崩した。

 記録番号S-03。

 女性。二十六歳。自死未遂。境界形成、極強。


 当時の榊は、今よりも干渉的だった。

 説得し、論理を積み上げ、生存確率を上げる。

 それが正しいと信じていた。


 彼女は戻った。

 心拍は回復し、救急搬送は成功し、医学的には「救命」と記録された。


 三ヶ月後、再度。

 今度は、境界が形成される前に終わった。

 未練は、静かだった。

 強くもなく、濃くもなく。ただ、確定していた。

 あのとき榊は理解した。

 生存は、保証ではない。干渉は、万能ではない。


 それ以降、彼は距離を保つことを選んだ。

 選択は対象者に委ねる。彼は環境を整えるだけ。

 それが、彼の均衡だった。

 

 里奈は、異例だった。

 強い未練を抱えながら、他者の未練に触れ続けた。

 通常なら自己崩壊する。だが彼女は形を変えた。

 彼は観察していた。


「帰りなさい」

 

 最初の頃の彼女の声は、怒りに近かった。

 やがて、願いになり、最後には、確信になった。

 

 変化は、緩やかだが明確だった。

 

 榊は記録する。

 ――触媒、安定。

 それだけだ。


 だが彼の未練は、そこにある。

 彼は一度も、自分の案件を担当していない。

 制度上、それは可能だ。

 だが彼は避けている。


 記録番号S-03は、封印されたままだ。

 均衡を崩したのは、自分の過信だったのか。

 それとも、彼女の決定だったのか。答えは出ない。


 だから彼は続けている。

 均衡を保ち続ければ、どこかで意味が回収されると仮定して。

 里奈が「続けます」と言ったとき、榊はわずかに安堵した。

 理由は分析可能だ。


 彼女は制度にとって有用だ。

 損失回避の観点から合理的だ。

 だが、それだけではない。


 彼は知っている。

 選択を自分の意思で行った者は、二度目の崩壊を起こしにくい。

 彼女は、自分で残った。

 それが、彼にとっての救済だった。

 未練は、消えない。

 榊の未練もまた、形を変えている。



 後悔から、監督へ。過信から、観察へ。

 彼は机の上の古いファイルを一瞬だけ見る。

 開かない。まだ、その強度ではない。


 通知が鳴る。

「十六歳、男性。飛び込み未遂。境界形成、開始」

 榊は立ち上がる。


 扉の向こうで、里奈がすでに待っていた。


「行きましょう」

「ええ」


 榊は頷いた。均衡は、今日も揺らぐ。それでも続ける。

 それが、彼の未練だ。




番外編 赤信号のあとで


 赤信号を見ると、今でも一瞬だけ息が止まる。

 海斗はそれを後遺症だと思っている。

 医者は「外傷性の一過性ショック」と説明した。

 事故当時、意識は数分途切れていたらしい。

 奇跡的だった、と何度も言われた。


 奇跡。

 その言葉は便利だ。理由を問わなくて済む。

 交差点は、もう何事もなかったかのように機能している。

 車は止まり、青で進む。誰もあの日の歪みを知らない。


 だが海斗は知っている。

 止まった時間の中で、誰かが立っていた。

 最初は夢だと思った。

 事故の衝撃で見た幻覚。脳が作り出した都合のいい物語。

 だが、あの声だけは、妙に具体的だ。


「遅いよ」

 自分が言ったのか、言われたのか。

 記憶は曖昧だ。だが、確かに会話があった。

 そして、名前。

 ――海斗。

 呼ばれた気がする。


 退院後、彼は自室で古い本棚を整理した。

 奥から一冊のノートが出てきた。

 高校一年のときに描き始めた絵本のラフ。

 未完成のまま止まっている。

 きっかけは、図書室で交わした、約束だった。

 最後のページに、走り書きがあった。


「できたら、最初に見せる」

 誰に向けた約束だったのか。

 名前は分かっているはずなのに、うまく浮かばない。

 その日の光景だけが、どうしても曖昧だ。 

 胸が少し痛む。

 

 事故の瞬間、彼は焦っていた。

 締切。進路。期待。

 自分で決めたはずの未来が、急に重くなっていた。


 信号が赤に変わったのを、見落とした。

 その直前、ふと頭に浮かんだのは、「間に合わない」という感覚だった。


 何に?分からない。

 だが境界の中で、はっきりと思った。

 ――まだ死にたくない。


 その意思は、自分のものだった。

 誰かに言わされたのではない。

 ただ、背中を押された気がした。

「帰りなさい」

 その声は、怒っていなかった。

 命令でもなかった。

 ただ、確信だった。


 海斗は事故後、絵本を描き直した。

 テーマは変えなかった。だが結末を変えた。

 主人公は、崖から落ちかける。


 以前の案では、救われる理由は外から与えられていた。

 偶然の枝。通りすがりの人物。


 今回は違う。

 主人公は、自分で掴む。

 そのページを描きながら、ふと涙が落ちた。

 理由は分からない。


 完成した絵本を、出版社に持ち込んだ。

 採用はまだ決まっていない。

 それでも、止めなかったことに意味があると思えた。


 夜、交差点の赤信号を待つ間、深呼吸をする。

 もう息は止まらない。


「間に合った」

 小さく呟く。誰に向けた言葉か、自分でも分からない。

 だが確かに、何かは回収された。

 海斗は空を見上げる。冬の星は遠い。


 事故のあと、夢を一度だけ見た。

 薄曇りの場所。交差点。止まった空間。

 そこに、黒い服の男と、隣に立つ誰かがいた。

 顔ははっきりしない。



 だが、その誰かは静かに頷いた。

 目が覚めたとき、妙な安心感があった。

 幻覚でもいい。奇跡でもいい。


 ただ一つ確かなのは、自分は生きているということだ。

 そして、生きている限り、約束は更新できる。

 海斗はペンを握る。

 最初のページに書き足す。


「これは、間に合った物語」

 誰に読ませるのかは、まだ決めていない。

 だがいつか、どこかで、届けばいいと思っている。

 理由は説明できない。

 

 それでも、赤信号のあとには、青が来ると知っている。

 あの日、自分の名前を呼んだ声だけは、はっきりしていた。


後日談 中枢の扉

 呼び出しは、案件通知とは異なる音だった。

 短く、乾いた音。


 榊は机の上の端末を一瞥し、ほんのわずかに視線を下げた。

「上層からです」

「上層?」


 里奈は初めて聞く語に、わずかに眉を寄せる。

「制度管理部門。あなたはこれまで、現場のみを担当していました」

「昇進ですか」

「いいえ。観察対象です」

 率直だ。


 境界の奥に、さらに層があることは感じていた。

 案件は無数にあるのに、榊はすべてを把握しているわけではない。

 誰かが割り振り、誰かが監査している。

 だがそれを問わないのが、この世界の礼儀だった。

「拒否権は?」

「ありません」

 即答。

 空間が歪む。

 境界の薄曇りが裂け、奥へと通じる廊下が現れる。

 色はない。音もない。ただ、圧だけがある。


 里奈は歩く。

 榊は同行しない。

「あなた一人です」

「榊さんは?」

「私の層は、ここまでです」


 彼の声はいつも通りだ。だが、わずかに距離を感じる。

 里奈は振り返らない。

 廊下の先に、扉はない。ただ、濃度が増す。

 そして、声。


「R-17」

 性別も年齢も判別できない声が、直接意識に響く。


「継続後の適応、安定」

 評価だ。


「目的を再確認する」

 空間が揺らぎ、無数の境界映像が重なる。

 溺水。転落。病室。交差点。


「未練はエネルギーである」

 淡々と告げられる。


「過剰な未練は、世界の均衡を歪ませる。回収は必要不可欠」

 合理的だ。榊が言っていたことと一致する。


「だが」

 映像が切り替わる。里奈自身。図書室。名前を忘れた日。

 交差点で思い出した瞬間。


「未練は、変換可能である」

 その言葉に、里奈はわずかに息を詰める。


「変換効率の高い個体は、制度の中枢候補となる」

 理解が追いつく。


「私は、現場から外されるんですか」

「可能性として」

 心が静かに揺れる。

 現場を離れれば、より多くを救えるかもしれない。

 構造を設計する側になれる。均衡そのものに触れられる。

 だが。


「質問を許可する」

 里奈は考える。何を問うべきか。世界の成り立ちか。

 未練の起源か。榊の未練か。

 違う。


「現場で、名前を呼ぶことは、無意味ですか」

 沈黙。わずかな間。


「効率は低い」

 正直だ。

「だが、変換率は高い」

 数字の問題か。


「あなたは、局所的最適を選ぶ個体である」

 全体最適ではない。

 里奈は小さく笑う。


「それでも、現場がいいです」

 空間が、ほんのわずかに波打つ。

「理由」

「顔が見えるから」

 

 沈黙。長い、無音。

「感情的判断」

「はい」

 即答。


「だが、制度は感情を排除しない。感情は未練の媒質である」

 評価なのか、分析なのか分からない。

「R-17、現場継続を許可」

 圧が緩む。

「ただし」

 空間の奥に、微かな光が生まれる。

「いずれ、あなたは選択を迫られる。個を取るか、構造を取るか」


 未来予告。拒否はできないのだろう。

「そのときに考えます」

 里奈は答える。

 

 圧が消える。廊下が閉じ、薄曇りの境界に戻る。榊が立っている。

「どうでしたか」

「合理的でした」

「残りましたね」

「はい」

 榊はわずかに目を細める。

「あなたは中枢に近づきました」

「戻ってきましたけど」

「距離は、物理ではありません」

 その意味は分かる。


 里奈は空を見る。境界は相変わらず曖昧だ。

 だが、今は少しだけ奥行きが見える。

 制度は冷たい。

 だが、冷たいだけではない。

 未練は、排除されない。

 変換される。


 榊は何も言わず、珈琲を差し出した。

 里奈は受け取る。

「少し、濃いですね」

「中枢帰りですから」


 執務室に案件が届いた。

「次の案件は?」

 榊が端末を見る。

「十二歳、男性。火災。境界形成、開始」

 里奈は頷く。

「行きましょう」


 飲みかけの珈琲を机に置き、現場へと向かう。

 今はまだ、顔の見える未練を選ぶ。

 だがいつか、構造を選ぶ日が来るかもしれない。

 それでもいい。

 選ぶのは、自分だ。

 

 境界が開く。里奈は、迷わず踏み込む。

 未練は消えない。だが、形は変わる。

 制度もまた、静かに揺らいでいる。

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