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最終章 境界の外へ

 通知は入らなかった。それが最初の異変だった。

 榊の執務机にはいつもの書類がない。

 白い封筒が一通だけ置かれている。


「本日は案件がありません」

 榊はいつも通りの声音で告げた。


「そんな日、ありました?」

「ありませんでした」

 過去形だ。

 里奈は封筒を見る。宛名はない。

 だが、直感的に自分のものだと分かる。


「人員調整です」

 榊が言う。


「中村さんの未練は、主要因を解消しました」

 海斗の顔がよぎる。交差点の赤。あの微笑み。


「もしかして、解雇、ですか」

「選択可能です」


 榊は初めて、制度の説明をする。


「見送りの業務は、未練を持つ者を優先的に雇用します。あなたは適格でした。しかし現在、その強度は基準を下回っています」


 合理的だ。残酷なほどに。

「つまり」

「続ける義務はありません」


 静寂が落ちる。里奈は、自分の胸の内を探る。

 あれほど重かった塊は、もうない。

 完全に消えたわけではないが、刺すような痛みではなくなっている。


「辞めたら、どうなるんですか」

「境界の外へ戻ります」

「戻る?」


「個としての意識は希薄化します。いわば、溶ける」

 簡潔だ。


「怖いですか」

 榊の問いは、評価ではなく確認だ。里奈は少し考える。

「少し」

 正直に言う。

「でも、前ほどじゃないです」


 榊は頷いた。

「あなたは、十分に役目を果たしました」


 境界の景色は、いつも薄曇りだ。

 生と死のあいだは、はっきりした色を持たない。


「まだ、迷っている子はいますよね」

「常にいます」

「私がいなくても?」

「代替は存在します」

 

 制度は冷静だ。誰かがいなくなっても、回る。


「榊さんは?」

「私は継続します」

 即答だった。


「榊さんは未練があるのですか?」

「はい、あります」

「あなたほど明確ではありませんが」

 その答えに、里奈は少し驚く。


「内容は、非公開です」

 珍しく、ほんのわずかに皮肉が混じる。

 里奈は深く息を吸う。自分は何者だったのか。

 救う側か。謝る側か。

 それともただ、未練に引き寄せられた存在か。


 海斗は生きている。

 それだけで、約束は完全ではなくとも、意味を持った。


「榊さん、私、続けます」

 言葉は自然に出た。榊は瞬きをする。

「理由は」


「未練が消えたからじゃなくて、形が変わったから」

「理由になりませんか」

 自分でも、驚くほど明瞭だった。


「今度は、私が選びたい」


 救えなかったから働くのではない。

 救いたいから、残る。

 それは動機として、十分だ。


 榊は静かに封筒を回収する。

「継続申請、受理」

 机の上に、新しい書類が現れる。


「中村さん、早速です」

 仕事は待ってはくれない。通知が鳴った。

「十歳、女性。溺水。境界形成、開始」


 里奈は微笑む。

「わかりました。行きます」


 榊が立ち上がる。境界が開く。

 水面の光が揺れる。少女が、沈みかけている。

 里奈は迷わなかった。


「帰りなさい」

 その声は、もう震えていない。

 黒い影は、水の底で静かにほどけていく。

 戦いではなく、選択の結果だ。

 少女の手を優しく掴み、言葉をかける。


「まだ間に合う」


 光が差し込み、遠くで、心拍が戻る音がする。

 境界が静かに閉じた。

 里奈は水滴の残像を振り払う。


「珈琲ください」

「規定通りです」


 榊は、いつものように珈琲を差し出す。

 湯気が、ゆっくりと立ちのぼる。

 里奈はそれを受け取り、一口飲んだ。

 苦い。だが、もう拒まない。


「美味しい」


 黒い液面は、もう揺れていなかった。

 揺らすのも、保つのも、今は自分だ。


 未練は消えない。

 だが、形は変えられる。

 そして選択は、何度でもできる。


 境界は、今日も開く。

 里奈は歩き出す。

 今度は、誰かのためだけではなく、自分の意思で。


 窓の向こう、薄曇りの隙間に満月がかかっていた。

 何も言わず、ただ満ちたまま。

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