第七話 先に呼ばれた名前
通知は、夜半を少し過ぎてから入った。
「二十七歳、男性。交通事故。意識混濁。境界形成、強」
成人男性。未成年ではない。対象外の通知ははじめてだった。
「強、とは?」
「未練が明確です」
榊の声は変わらない。
だがその明確という語に、わずかな含みがあるように感じられた。
現場は交差点だった。
信号の赤が、妙に鮮やかに灯っている。
事故の瞬間で時間が止まり、周囲の車も人影も、まるで舞台装置のように静止していた。
男は道路脇に座り込んでいた。
スーツの上着が裂け、額に血の線があるが、痛みはまだ届いていないらしい。
「……あれ」
男は里奈を見ると、わずかに目を細めた。
「ようやく会えた」
里奈の足が止まる。
初対面のはずだ。だが男の視線は、迷いがない。
「誰と間違えてるの」
「いや。間違いじゃないよ」
男はゆっくり立ち上がる。
足元のアスファルトがわずかに波打つ。
境界が安定しきっていない。
「遅いよ」
男が発した言葉に、胸の奥がひやりとする。
「何が」
里奈は聞いた。
「呼んだのに」
呼んだ?その瞬間、交差点の影が伸びる。
だが今回は遠い。介入する気配はあるが、急がない。
観察しているようにもみえる。
「あなた、未練は?」
里奈は仕事の手順に戻ろうとする。だが男は首を振る。
「未練ってさ」
少し笑う。その笑い方が、どこか懐かしい。
「残していく側が言う言葉だよね」
里奈の呼吸が浅くなる。
「残される側は?」
「勝手に残る」
風が止まる。信号の赤が滲む。
「ねえ、約束したの、覚えてる?」
男が問う。世界が、ほんの少し歪む。
図書室。窓際。差し出された本。
「絵本、できたら最初に読むから送ってって……」
男の言葉に鼓動が強くなる。
「あなたの名前は」
里奈の声は、わずかに震えていた。
男は、はっきりと告げる。
「海斗だよ」
その瞬間、記憶が繋がる。海斗。
ずっと霧の向こうにあった名前が、輪郭を持つ。
胸の奥に押し込めていた未練が、音を立てて開く。
「……どうして」
「どうして、って」
海斗は肩をすくめる。
「里奈が忘れてただけでしょ」
時間が、完全に止まる。
影が近づかない理由が、わかった。
これは回収ではない。確認だ。
榊の声が入る。
「対象の未練、あなたに関連」
冷静すぎる報告。
「介入しますか」
問いは、仕事としての確認だ。
里奈は海斗を見る。
けれど、図書室の少年の面影が確かにある。
「約束、守れなかったね」
海斗は言う。責める調子ではない。
ただ、事実の確認のように。
「ごめんなさい」
やっと出た言葉は、驚くほど小さい。
海斗は少しだけ目を細める。
「それ、聞けたからいいや」
影が、わずかに揺らぐ。未練の形が変わる。
「未練は?」
里奈が問う。海斗は空を見上げる。
信号の赤が、やわらいでいく。
「うん。あるよ。まだ、死にたくない」
明確な意思だった。その瞬間、影は後退する。
引力が弱まる。里奈は一歩近づく。
「帰りなさい」
今度は、迷いなく。
「海斗は、まだ間に合う」
海斗は微笑む。
「もう少し、こっちで頑張るからさ。気長に待っててよ」
「うん」
光が弾けて、海斗は消えていった。
交差点の時間が再び流れ出す。
後ろから榊の声が聞こえた。
「心拍再開。蘇生成功」
里奈はその場に立ち尽くす。涙は出ない。
ただ、胸の奥にあった固い塊が、静かに崩れていく。
帰路。榊が言う。
「中村さん」
「あなたの未練、回収されましたか」
「いいえ」
里奈は首を振る。
「では」
「未練の形が……変わっただけです」
榊はわずかに頷く。
「あなたは今、初めて対等になりました」
「対等?」
「救う側ではなく、謝る側として」
里奈は小さく笑う。
「次は、ちゃんと見送ります」
それが仕事なのか、人生なのかは、まだ分からない。
だが一つだけ確かなのは、名前が戻ったこと。
海斗。ごめんね。ありがとう。
雲の向こうで、満月がにじんでいた。




