第六話 名前の輪郭
通知は、いつもより遅れて届いた。
緊急度は低い、と榊が淡々と告げる。
「十四歳、男性。慢性疾患。急変の可能性あり。精神的乖離、進行中」
「乖離?」
「生への執着が希薄になっています」
榊の言葉に里奈は頷いた。
身体が限界に近づく前に、心が先に諦めるケースはある。
未練回収業者は、そういう隙間を好む。
現場は病室だった。
病院の外は夜に変わりかけている。
東の空には、まだ薄青の中に浮かぶ満月があった。
満ちた光は、欠けたものを責めない。
昼と夜の境目は曖昧だ。
夕方の光がカーテン越しに薄く差し込んでいる。
少年はベッドの上で、タブレットを膝に置いたまま、画面を見ていなかった。
点滴の管が規則正しく揺れていた。
「こんにちは」
里奈が声をかけると、少年は視線だけを動かした。
「誰」
「通りすがり」
それ以上の説明はしない。彼らはだいたい理解する。
「僕、もういいんだ」
静かな声だった。絶望というより、疲労に近い。
「何が?」
「治療。頑張るの、飽きた」
治療を続けてきた少年の「飽きた」という言葉は重かった。
大人の諦めよりも、よほど真剣だ。
里奈はベッド脇の椅子に腰かける。
今回は影がまだ見えない。だが空気は薄い。
窓の外の夕焼けが、やけに遠い。
「未練は?」
少年は少し考えたあと、首を振る。
「ないよ」
「本当に?」
「うん。どうせサッカーもできないし。学校も行ってないし」
言葉は淡々としているが、指先がタブレットの縁を強く握っている。
「じゃあ、その動画は何?」
少年の視線が揺れる。
画面には試合のハイライトが止まっている。
「別に」
「好きなんでしょ」
「見るだけなら、できる」
その「見てるだけ」に、未練は潜む。
そのとき、病室の隅の影が、わずかに濃くなる。
まだ形はない。ただ、温度が下がる。
里奈は静かに言う。
「見るだけでも、続きはある」
少年は笑う。乾いた、諦めた笑い。
「ないよ。僕はもう、選手になれない」
「誰が、選手の話をしたの」
少年が黙る。
「好きなものが形を変えることはある。でも、消えるとは限らない」
それは榊の言葉の引用だった。
痛みから動機へ。後悔から選択へ。
少年は目を伏せる。
「頑張っても、どうせまた悪くなる」
「それでも、今日を選ぶことはできる」
影が、ベッドの脚に触れる。
重力が、ほんの少し強くなる。
里奈は立ち上がり、少年の正面に立つ。
「あなたの名前は?」
少年は少し戸惑いながら答える。
「悠斗」
その瞬間、胸の奥で何かが微かに震えた。
悠斗。
違う。探している名前ではない。
けれど、響きが似ている気がした。
里奈は息を整える。
「悠斗。あなたは、まだ終わっていない」
少年の瞳が、初めてこちらを正面から見る。
「保証はないけど」
正直に言う。
「でも、なくなったと決めるのは、今日じゃない」
影が揺らぐ。未練回収業者は、強い意思を嫌う。
確定しないものを好む。
少年の指が、タブレットをそっと撫でる。
「あのさ、もし、生きてたら」
「うん」
「コーチとか、できるかな」
里奈は微笑む。
「できるかもしれない。選手より長く、続く形もある」
「そっか、まだ僕にもできることがあるかもしれないのか」
影が薄くなる。夕焼けの光が戻る。
遠くで心電図が安定したリズムを刻む。
榊の声が入る。
「状態、持ち直しました。危険域、離脱」
里奈は静かに息を吐く。今回は叫ばなかった。
強くも言わなかった。ただ、名前を呼んだ。
病室を出たあと、榊が言う。
「以前より、干渉が穏やかですね」
「押すより、待つほうが効くこともありますね」
榊は少しだけ微笑む。
「学習しましたか」
「観察しました」
榊はわずかに頷く。
「中村さんの未練は?」
里奈は少し歩みを緩める。
「まだ、輪郭がぼやけています」
「そうですか。焦る必要はありません」
「でも」
里奈は立ち止まる。
「名前くらい、思い出したい」
榊は静かに答える。
「思い出す準備が整えば、出てきます」
保証のない言葉。
だが不思議と、拒絶したくはなかった。
榊が、どこからともなく紙コップの珈琲を差し出す。
「ありがとうございます」
受け取った珈琲は、夜気よりも少しだけ温かい。
病院の外は夜に変わりかけている。
昼と夜の境目は曖昧だ。
ちょうど、生と死のあいだのように。
里奈は小さく呟く。
「帰りなさい」
それはもう、影に向けた言葉ではなかった。
まだ選べる誰かへ。そして、いつかの自分へ。
名前のない未練は、確かにそこにある。
けれど今日は、それに飲まれなかった。
それだけで、十分だった。
東の空の満月は、変わらずそこにあった。




