第五話 未練の所在
案件の通知は、珍しく昼間に入った。
昼の光は死と相性が悪い、と里奈は思う。
夜ならばまだ諦めがつく。
闇は境界線を曖昧にしてくれる。
しかし昼は残酷だ。
窓の外では子どもたちが走り、洗濯物が揺れる。
世界は何事もなかったかのように進行している。
その明るさの只中で、誰かの時間だけが切断される。
「十七歳、女性。転落。意識不明。蘇生処置中」
十七歳。十二歳よりも重く、大人よりも軽い。
中途半端な年齢だ。
現場はマンションの屋上だった。
実際の身体は救急車の中にあるが、境界は事故の直前に形成されることが多い。
少女はフェンスのそばに立っていた。
制服姿のまま、風に髪を煽られている。
その横顔は、驚くほど静かだった。
「落ちるつもりはなかったの」
少女は先に言った。
言い訳のようでもあり、誰かへの報告のようでもあった。
「ちょっと足が滑っただけ」
里奈は距離を測る。
フェンスと少女の間。風の強さ。
足元の砂利。偶発か、衝動か。
その判断は仕事に直結する。
「誰かに会いに来たの?」
「ううん。ひとりになりたくて」
ありがちな言葉だが、声音は空虚ではなかった。
ひとりになりたいと願う瞬間は誰にでもある。
しかし高所を選ぶとき、そこには少しだけ危うい願望が混じる。
黒い影はまだ現れない。つまり猶予はある。
「未練は?」
里奈はあえて端的に問う。
少女はしばらく考え、そして首を傾げた。
「わからない」
その答えは珍しくない。
十代の未練は形になっていないことが多い。
恋かもしれないし、進路かもしれない。
ただの承認欲求かもしれない。
だが未練は曖昧でも、身体は落ちる。
「誰かに言えなかったことは?」
少女のまぶたが揺れた。
「……ごめんって、言いたかった」
里奈は胸の奥で何かが軋むのを感じる。謝罪。
いつかの少年も、同じ言葉を口にしていた。
「誰に?」
「お母さん」
風が強まる。フェンスが軋む音がする。
「何を謝るの?」
少女は唇を噛んだ。
「期待に応えられないかもしれないって、思った」
それは未練というより恐怖だ。
だが恐怖もまた、強い引力を持つ。
そのとき、背後に気配が生じた。
影は屋上の給水塔の足元から滲むように現れ、ゆっくりと広がる。
今回は形がある。人の輪郭に近い。
曖昧な腕が少女の背に触れようとする。
「中村さん、判断を」
榊の声は冷静だが、僅かに低い。
里奈は少女の前に立つ。
フェンス越しの空は高く、眩しいほど青い。
落下の感覚が、記憶ではなく想像として背筋を撫でる。
「謝るのは、生きてからにしなさい」
少女が目を見開く。
「生きていても、失望されたら意味ない」
「失望は、死より軽い」
思わず強い言葉が出る。
自分でも少し驚く。影が近づく。
少女の足元が揺らぐ。
「あなたがいなくなったら、お母さんは期待すらできなくなる」
少女の呼吸が乱れる。
「それでも、怖い」
「怖くても、生きてほしい」
里奈は少女の両肩を掴む。
触れた瞬間、映像が流れ込む。
食卓。模試の結果。母親の沈黙。
自室のドア。泣かない努力。
同時に、別の記憶が混じる。
図書室の窓。書きかけの便箋。
出せなかった手紙。謝らなかったのは、誰だ。
影が少女の背を押す。里奈は強く引き寄せる。
「未練はね、形がなくてもいい」
「でも、あるなら――今、使いなさい」
光が弾ける。屋上の景色が歪み、白に溶ける。
次の瞬間、榊が淡々と告げる。
「心拍、回復傾向。蘇生成功の見込み、高」
里奈は膝に力が入らなくなるのを感じた。
見送れた。だが、今回は手応えが違う。
少女の恐怖が、まだ皮膚の裏に残っている。
「あなた、強くなりましたね」
榊が珍しく評価めいた言葉を口にする。
「強く、ですか」
「以前より、説得に自分の体験を混ぜている」
指摘は正確だ。里奈は息を整える。
「それは、規則違反ですか」
「いえ、規則は、結果を基準にします」
つまり、成功したから問題ない。
里奈は屋上だった空を思い出す。
青は、あまりにも広かった。
「榊さん」
「はい」
「未練は、完全に消えるものですか」
榊は少しだけ考え、珍しく即答しなかった。
「消えません」
意外だった。
「形を変えるだけです。痛みは動機になります。後悔は選択になります」
理屈としては理解できる。
しかし感情は追いつかない。
「あなたの未練も、すでに形を変えつつある」
里奈は静かに首を振る。
「まだ、謝っていません」
「謝る相手が、生きている保証は?」
冷酷な問いだが、合理的だ。
里奈は目を閉じる。
名前の思い出せない少年。約束。手紙。
「それでも」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「謝る準備くらいは、しておきたい」
榊は小さく頷く。
「そうですね、何事も準備は大事ですね」
その言葉は、許可のようでもあり、警告のようでもあった。
帰路、昼の街は相変わらず明るい。
世界は、誰かの未練など知らない顔で回転している。
執務室に戻ると、榊がすでにカップを二つ用意していた。
「昼間の案件は、消耗します」
差し出された珈琲から、細い湯気が立ちのぼる。
里奈は何も足さず、そのまま口をつけた。
苦味が舌に残る。悪くない、と思う。
里奈は、ほんのわずかに呼吸が楽になっているのを感じた。
未練は消えない。だが、形は変えられる。
その仮説を、彼女は今日、他人に適用した。
だが、いつか――自分の過去にも向き合わなければならない。
その予感だけが、静かに確かな重さを持って、胸の奥に沈んでいた。
カップの黒い液面に、昼の光が白く映っていた。




