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第四話 手紙

 案件は夜だった。

「十二歳、男児。急性疾患。搬送中。生存確率、中の上」

 中の上という言葉は信用ならない。

 期待を持たせる数値ほど、揺れる。

 

 現場は病院の廊下だった。白い光。

 消毒液の匂い。規則的な足音。

 

 少年はベンチに座っていた。

 パジャマ姿で、腕には点滴の痕。

「ここ、寒い」

 まただ。その一言に、里奈の胸の奥がざらりとする。


「大丈夫。まだ間に合う」

 少年は不思議そうにこちらを見る。

「僕、死ぬの?」

 直球だ。十二歳は、曖昧な言葉を使わない。

「まだ決まってない」

 少年は少し考えるように天井を見上げる。


「ねえ、お姉さん」

 静かに会話は続けられた。

「うん、なあに?」

「約束ってさ、守れなかったら怒られるかな」


 心臓を強く打つ。

「誰と、どんな約束をしたかによるかな」


「退院したらさ、友だちにゲーム返すって言ったんだ」

 軽い。でも、軽い約束ほど、心に残る。

 黒い影が、廊下の隅に滲む。

 今回もいる。里奈は少年の前に立った。


「返せるよ」

「でも、もし」

 少年の不安を拭うかのように、言葉を続けた。

「返せる可能性があるなら、考えるのはあとにしなさい」


 自分でも驚くほど、言葉が鋭い。少年は少し笑う。

「お姉さん、怖くないの?」

 その問いに、一瞬だけ言葉が止まる。


 怖い。守れないことが。見送れないことが。

 出さなかった手紙が。図書室の窓際。

 薄いカーテン。書きかけて、破いた便箋。

 ――「もし絵本作家になったら、僕に送って」



「怖いよ」

 

「でもね」

 里奈は、少年の目をまっすぐ見る。

「怖くても、やるしかないことはある」


 遠くで機械音が不安定に跳ねる。

 榊の声が低く響く。

「判断を」

 影が伸びてくるのを横目に、里奈は少年の肩を掴む。

「帰りなさい」

 光が揺れる。影とせめぎ合う。

 少年の輪郭が揺らぐ。


「もし戻れたら」

「うん」

「ちゃんと返す」

「うん」

「ちゃんと謝る」

「いいね。きっとできるよ」


 その言葉に、胸が強く締め付けられる。

 謝る。私は、謝っていない。

 光が弾けた。影は、飲み込めないまま消える。

 静寂。榊が書類を閉じる。


「生存確認。見送り完了です」

 里奈はその場に立ち尽くす。

 見送れた。なのに。胸が痛い。

「どうされました」

「……謝ってない」


「誰にですか」

 榊は淡々と問う。里奈は少しだけ笑う。

「覚えてない人にです」


 榊は沈黙する。

「あなたの未練ですね」

 否定できない。


 里奈は榊に尋ねる。

「成人の未練は、対象外ですか」


「状況によります」

 榊の口調は相変わらず冷たい。

 でも、嫌ではなかった。

 里奈は深く息を吐く。


「わたし、自分のことを救おうとしてるのかもしれません」

「ええ、そうでしょうね」

 即答だった。


「悪いことですか」 

 榊は少しだけ視線を逸らす。


「動機は問いません。結果が伴えば」

「伴わなかったら」

「削れます」

 正直すぎる。里奈は小さく笑う。


「じゃあ、削れるまでやります」


 榊はほんのわずかに目を細めた。

「この仕事を長く続けられる人のやり方です」


 帰路。

 病院の窓の向こうで、少年が母親に抱きしめられている。

 泣いている。生きている。

 里奈は目を細める。榊に話しかけた。

「ねえ」

「はい」

 返事はいつもどおり冷たかった。

「もし」

 言いかけてやめる。もし絵本作家になっていたら。

 もし手紙を出していたら。もし謝っていたら。

 全部、遅い。


「珈琲、ありますか」

「業界標準です」

 差し出されたマグ。

 今日は紙コップではない。湯気が立つ。


「ブラックで」

「砂糖は自己申告制です」

「無糖が好きなので」

 里奈は砂糖を入れない。苦いまま飲む。


「次、行きます」

 榊が頷く。成功しても、未練は消えない。

 でも、少しだけ。

 あの図書室の窓際の光が、遠のいた気がした。

 名前は思い出せないまま。次の仕事へ向かった。

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