第三話
案件は、昼間だった。
「九歳、女児。交通事故。意識不明。生存確率、中程度」
中程度、という言葉は便利だ。
高くも低くもない。期待してもいいし、諦めてもいい。
現場は横断歩道だった。信号は青のまま点滅している。
少女は、道路脇に立っていた。ランドセルを背負ったまま。
「ここ、危ないよ」
里奈は声をかける。少女は首を傾げた。
「だって、まだ約束してない」
「約束?」
「今日、ママと。帰ったら、いっしょにクッキー焼くって」
里奈の喉が、わずかに詰まる。
――約束。反応が一拍遅れる。
榊が書類を確認する。
「母親、待機中。強い帰還意志あり」
「戻れますか」
「五分五分です」
少女は信号機を見上げて呟いた。
「クッキー、焦げちゃうかな」
その言葉に、胸がざわつく。
焦げる。遅れる。出さなかった手紙。
里奈はしゃがみこんで少女に答えた。
「焦げても大丈夫だよ」
「え?」
「失敗しても、やり直せるから」
自分に言っているのかもしれない。
空気が揺れる。黒い影が、道路の影から滲み出る。
未練回収業者。だが、前回より遅い。
少女の足元が揺れる。
「ねえ、お姉さん」
「うん」
「約束って、守らなかったらどうなるの?」
心臓が、わずかに強く打つ。
一瞬、図書室の窓の光が脳裏をかすめる。
名前は出てこない。でも、声だけが浮かぶ。
――僕に送って。
里奈は、ほんの少しだけ息を吸う。
「守れなかったら」
言葉を選ぶ。
「ずっと覚えてる」
少女は不思議そうな顔をする。
「忘れないの?」
「うん。忘れない」
黒い影が迫る。
里奈は少女の両肩を掴む。
「でもね」
声は静かだ。
「守れる約束もある、まだ、間に合うよ」
遠くで、機械音が不規則に跳ねる。
榊が低く言う。
「今です」
里奈は強く、静かに言う。
「帰りなさい」
少女の身体が光を帯びる。
影が伸びる。
だが今回は、飲み込まれなかった。
光が弾ける。少女は静かに消えていった。
影は苛立つように揺れ、消失する。
静寂の後、信号は赤に変わる。
榊が書類を閉じる。
「生存確認。成功です」
里奈は、その場に立ったまま動かない。
「……戻れましたよね」
「ええ」
「よかった」
そう言ったのに、胸が軽くならない。
焦げた匂いが、鼻の奥に残る気がする。
榊が横に立つ。
「満足されないのですか」
「満足……とは言い難いです」
「なぜですか」
「守れなかったことがあるからですかね」
榊は一瞬だけ考える。
「守れなかった過去と、今回の案件は別です」
里奈は何も言わない。
「あなたが救いたいのは、目の前の子どもではないのでは」
榊は核心に触れかける。
里奈は視線を逸らす。
「珈琲、飲みます」
「業界標準です」
差し出された紙コップを受け取る。一口。苦い。
「甘くないですね」
「砂糖は自己申告制です」
里奈は、ふ、と息を吐く。
約束を守れた。でも、戻らないものがある。
満月は出ていない。昼の空は白い。
影のない自分が、やけに軽い。それでも。
「次、行きます」
榊が頷く。
成功は、救いではない。
それでも仕事は続く。




