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第二話

 中村里奈が見送り課にバイト採用されてから、三日が過ぎた。

 時間の流れは曖昧だが、案件は規則的にやってくる。


「七歳、男児。河川で溺水。救命処置中」

 榊が差し出した書類は簡潔だった。

 余計な感情が入り込む余白がない。

 

 現場は薄暗い川辺だった。

 こちら側の世界は、現実よりも輪郭が曖昧だ。

 だが恐怖だけは鮮明に浮かび上がる。

 少年は川岸に立っていた。

 濡れたままの姿で、自分の身体を遠くから見下ろしている。

「寒い」

 それが最初の言葉だった。里奈は膝を折り、目線を合わせた。

「すぐ終わるよ。ちょっと待ってて」

 自分でも驚くほど落ち着いた声だった。


 榊は少し離れた場所で状況を見ている。

 介入は最小限。判断は里奈に任されている。

「戻れる可能性は?」

「低いです」

 淡々とした返答。

 少年の背後で、水面が黒く揺れる。

 未練回収業者だ。今回は早い。

 川という場所は、未練を引き寄せやすいらしい。

 後悔、恐怖、突然の断絶。水はそれを溜め込む。

 黒い影が、水から這い上がる。里奈は息を呑んだ。


 

「君の名前は?」

「……ゆうと」

「ゆうとくん。帰ろう」

 少年の足元が揺らぎ、影が足首に絡みつく。


「寒いよ」

 その声が、胸を刺した。

 その声に、その声に、里奈は一瞬だけ息を止めた。


 あの子も、冬は図書室にいた。

 暖房の近くで、静かにページをめくっていたっけ。

 名前は――出てこない。


 里奈は咄嗟に抱きしめたが、感触はなかった。

 けれど意志だけは重なる。

「大丈夫。生きるほうが、あったかい」

 嘘かもしれない。

 でも、それは生きてみないとわからないのだ。

 水面が大きく波打った。

 

 榊が一歩前に出てきた。

「中村さん」

「まだ、いけます」

 自分に言い聞かせる。


 しかし、遠くで機械音が止まった。

 現実世界の心電図。ぴ、と短く鳴り、平坦な線になる。

 

 その瞬間、少年の身体が軽くなった。

 里奈の腕をすり抜け、影が一気に包み込もうとする。

「だめ!」

 里奈は叫んだ。

 だが少年は、影ではなく、上へと浮いていってしまう。

 光でも闇でもない、曖昧な方向へ。


「おかあさん、泣かないで」

 最後の言葉だった。

 里奈の手は空を掴むが、何も残らない。

 影は不満げに揺れ、消えた。


 静寂の隙間に川の音だけが続く。

 里奈はその場に立ち尽くしていた。

「……守れなかった」

 その言葉は、初めてではない気がした。

 

 転校前日。机の上に置かれた、小さなメモ。

 書かなかった手紙。出さなかった一通。

 理由は、もう思い出せない。


「戻れる可能性は低いとお伝えしました」

 背後から榊が呟いた。

 その声は責めている声ではなかった。

 ただ事実だけをつぶやく。

「でも、もしかしたらって」

「期待は、判断を鈍らせます」

 榊の言葉は冷静だった。

 わかっている。でも、胸が焼ける。


「わたし、向いてないのかもしれません」

 里奈は初めて視線を逸らした。

 榊は少しだけ考えたように間をおいてから

「向いているかどうかで決める仕事ではありません」

「じゃあ、何で」

「選んだからです」

 里奈は黙る。確かに、自分で選んだんだ。


 珈琲の匂いがふわりと漂ってきた。

「福利厚生です」

 コーヒーが入った紙コップを榊は淡々と渡す。


「タイミング、悪すぎませんか」

「業界標準です」

 里奈は一口飲んだ。苦い。今日はやけに苦かった。


「……あの子、怖くなかったのかな」

「怖かったでしょう」


「じゃあ、どうして」

「受け入れたからです」

 榊は自分の珈琲マグを見つめたまま言う。


「人は、受け入れる強さを持っています。子どもでも」

 里奈は黙って立ち上がった。

 涙は出ないが、代わりに、奥歯を噛みしめる。


「次は、守って、見送ります」

「守れない案件もあります」


「それでも」

 榊は初めて、ほんのわずかに目を細めた。


 里奈は気づいていた。

 最初の少女を見送ったときの自分より、確実に何かが削れている。

 けれど同時に、芯のようなものが残っている。

 夢を諦めたときは、何も残らなかった。でも今は違う。


 満月が水面に歪んでいる。里奈は視線を逸らさなかった。

 影のないまま、歩き出す。

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