第一話
今夜は満月だった。
街灯よりも月のほうが明るい夜は、たいてい嫌なことが起こる。
中村里奈、二十七歳。子どもの頃の夢は、絵本作家だった。
結論から言うとなれなかったけれど。
美大も出ていないし、コネもない。
今は広告代理店の下請けで、企業パンフレットのレイアウトをしている。
それなりに忙しく、それなりに給料をもらい、それなりに生きている。
――それなり、という言葉は便利だ。
影がないことに気づいたのは、公園に入ってからだった。
月明かりの下、ブランコの鎖が冷たく光っている。
でも、私の足元には何も落ちていない。
ああ。そうか。
ビルの大型ビジョンから映し出されていた爆発事故のニュースを、ぼんやり見上げていた。
あのとき、声も届かなかったな。
「……せめて、美味しい珈琲を飲みながらとか、まぁ、無理か」
最後に飲んだのはコンビニのラテだった。
挽きたての豆の匂いを、最近ちゃんと嗅いでいない。
ぎい、と音がする。ブランコに、小さな背中がみえた。
「こんばんは」
振り返った少女は、泣いていた。
必死に状況を理解しようとする目をしていた。
「あの、おばけさん、ですか?」
「うん、たぶん。あなたも?」
女の子の言葉を否定する材料が私にはなかった。そして、この女の子も。
話を聞けば、爆発事故に巻き込まれたらしい。
町中を歩いていても誰も自分を見てくれない、と公園を見つけたそうだ。
私と同じだ。そのとき、人影があらわれた。
「あの」
突然、背後から声がした。
私と女の子が同時に振り返ると、細身の男が立っていた。
黒いスーツに黒縁のメガネ。整った髪。
場違いなほど落ち着いている様子だった。
「わたくし、株式会社よいこのさと、榊と申します」
差し出された名刺は、やけに現実的だった。
「未成年で不慮の事故に遭われた方の魂を、安全にご案内しております」
営業のように滑らかな声だった。榊は女の子の方をみて、
「このお嬢さんは、戻れる可能性が高いです」
はっきりと言う。
「あの、私は……」
「失礼、まず、あなたは未成年ではありません。そして」
一拍。
「……難しいでしょう」
心臓が止まったような感覚がした。止まっているのだけれど。
なれなかった夢。描けなかった物語。まだ出していないポートフォリオ。
何も成し遂げていない。でも、そうか。本当に私、死んじゃったんだな。
女の子が、私の服を掴んだ。
「お姉さんは?」
私は目線を合わせるようにしゃがみ込み、笑った。
「大人は、順番が違うみたいね。でもあなたは大丈夫よ」
女の子と会話をしていると公園の隅、黒い染みのような影が揺れた。
「お姉さん、あれはなに?」
指差す先の黒い影はじわじわとこちらに迫ってきている。
良くないものだということは女の子でも理解しているようだった。
「あれはなんですか?」
私は榊に尋ねる。
「未練回収業者がきました」
榊が淡々と言う。
「迷っている、もしくは未練がある魂を回収する者です」
私は女の子の手を握り、そして笑顔で言う。
「大丈夫。お母さんやお友達があなたの帰りをきっと待っているわ」
こくん、と女の子はうなづき、榊のところへ歩み寄る。
榊が何かつぶやくと、女の子は光に包まれた。
「ありがとう、お姉さん」
その背中を見て、なぜか思い出す。
図書室の窓際。絵本を読む横顔。
名前は、思い出せない。でも、声だけは覚えている。
――「もし絵本作家になったら、僕に送って」
静かに女の子が消えたあと、榊が私を見た。
「あなた、適性がありそうです」
「え、何のですか?」
「見送る側の……です」
見送る側……そうか、私はまだ必要とされているかもしれない。
影が迫ってきている。
得体のしれないものを目の前にして私は恐怖を感じていた。
でも、夢を諦めたときよりは怖くない。
私は一歩前に出る。
「あの、どうすればいいですか?」
「短期採用します。本来、上からの許可が必要ですが、今回は出向扱いです」
「あの、福利厚生と給料はありますか?」
榊は少し驚いた顔をしたが、すぐに真顔になり、即答した。
「珈琲が出ます」
珈琲、悪くない。私は少しだけ微笑んだ。
「ブラックですね」
「業界標準です」
影に向き直り、私は深呼吸をした。
「ここにはもう、誰もいないわ」
声が震えた。影が揺れ、未練回収業者は静かに消えていった。
ビルの窓越しに、救急車の灯りが遠く光る。
その前を、小さな少女が母親に手を引かれて歩いている。
包帯が巻かれた腕。でも、歩いていた。
こちらを振り返らない。空を一瞬だけ見る。
満月。私は榊がら陶器のマグを受け取った。
「ありがとうございます」
「いえ」
湯気。苦味。酸味。挽きたてだった。
「美味しい」
「次の案件です」
榊が書類を差し出してきたので、マグカップを机におき、書類を受け取った。
年齢七歳。溺水。生存確率、低。
私は息を吸い、少し遅れて吐く。
「わかりました。行きます」
満月の下、影のない私は、誰かの影になる。




