第一話 俺だけ見える
なんでもない日だった。特別なことなんて、何一つない、いつも通りの日常。
……そう、思っていた。
あの日のことを思い出すたびに、俺は少しだけ胸の奥がざわつく。
小学四年生だった頃、俺は“あいつ”に出会った。
「あーあ、むかつく。むかつく」
俺はランドセルを背負ったまま、いつもの道を歩いていた。
ポケットの中には五百円玉が一枚。
「……五百円で何が買えんだよ」
駄菓子屋は潰れたし、ゲームセンターなんて論外だ。
ジュース一本飲んだら終わり。
つまんない。今日は、何もかもがつまらなかった。
「なんか……おもしれーもんねぇかな……」
そう呟いた、その時だった。
――視界の端に、黒い影が揺れた。
「……え?」
足を止める。目を凝らす。
道の脇、電柱の影のあたり。
空気が、もやっと歪んでいる。
「なに……あれ……」
嫌な汗が背中を伝った。心臓が一気にうるさくなる。
「……嘘だろ」
一瞬、頭に浮かんだ言葉を、全力で否定する。
幽霊?いやいやいや、ないないない。
そんなの、あるわけ――
(深呼吸だ)
僕は大きく息を吸って、吐いた。
……もう一度、見てみる。
「……いない?」
影は消えていた。空気も、元に戻った気がする。
「なーんだ……気のせいかよ……」
ほっとして、歩き出そうとした、その瞬間。
「何が、どっか行ったの?」
――耳元で、声がした。
「ひぃぃぃぃぃぃぃ!!」
叫び声が、完全に裏返った。
振り向いた俺の目の前に、誰かが立っていた。
黒い。……というより、輪郭が曖昧だ。
人の形をしているはずなのに、どこかズレている。
顔も、服も、はっきりしない。
「うわっ、ちょ、ごめんごめん!」
そいつは慌てたように手を振った。
「びっくりした? そんな叫ばなくてもさぁ」
「な……な……」
声が、出ない。
「びびらないでよ〜。まるで僕が悪いみたいじゃん」
「な、何なんだよお前!!」
絞り出すように叫ぶと、そいつは首を傾げた。
「え? 見ての通り、人間だけど?」
「どこがだよ!!」
即答だった。
「どこからどう見ても……と言いたいところだけど」
そいつは少し困った顔をして、続けた。
「実は自分の顔、見たことなくてさ」
「はぁ!?」
「だから、どんな顔してるのか、よくわかんないんだよね」
「だったら、そこのカーブミラーで見ればいいだろ!」
俺が指差すと、そいつの目がぱっと輝いた。
「おおっ! グッドアイディア! 天才じゃん!」
「ちょ、待て!」
手を掴まれる。冷たい……わけじゃない。でも、変な感触だった。
「やだやだやだ! 引っ張るなって!!」
半ば引きずられるように、カーブミラーの前に立つ。
……映ってない。
「……な」
「え〜、マジ? 期待してたんだけどなぁ」
ミラーに映るのは、俺と、道と、電柱だけ。
隣に立っているはずの“そいつ”はいない。
「……お前」
喉が鳴った。
「幽霊なのか?」
その瞬間、そいつは露骨に嫌そうな顔をした。
「はぁ!? やだやだ、幽霊とか一緒にしないでよ!」
「じゃあ何なんだよ!」
「それは……」
言葉に詰まる。
「……わかんない」
一瞬、沈黙が落ちた。
「でもさ」
そいつは、急に明るく言った。
「君には見えてるんだよね? 僕」
「……まぁな」
「じゃあさ、試してみよう!」
「は?」
そいつは、通りかかった大人に向かって手を振った。
「おーーい!!」
当然、無視された。
「……見えてないねぇ」
「だろうな……」
俺は頭を掻いた。
「じゃあ、なんで俺には見えてんだよ……」
そいつは、少し考えてから言った。
「君も同類だから、とか?」
「死んでねぇ!!」
即座に否定する。
「じゃあ、何なんだよ……」
「うーん」
そいつは首を傾げた。
「よくわかんない。でもさ」
にやっと、笑う。
「せっかく見える人に会えたんだし、もうちょっと話そうよ」
「……だる」
そう言いながらも、俺はその場を離れなかった。
あの日、俺は思いもしなかった・・・
この出会いが、俺の心に、ずっと残ることになるなんて。




