断罪令嬢は空から落ちてきた騎士に守られ、王都へ帰還する
婚約破棄というものは、もっとこう——静かに通達されるものかと思っていた。
「侯爵令嬢ユリシア・エルダイン。お前との婚約は、今この場をもって破棄する!」
王城の大広間、百人はくだらぬ貴族たちが見守る中、そう高らかに宣言したのは、私の“元”婚約者、アルセイン王太子殿下だった。
ざわめき、ざわめき、ざわめき。
全員、私を見ていた。嘲笑と好奇と憐憫をないまぜにした目で。中には口元を手で覆って笑いを堪えている者もいた。
その傍ら、殿下にぴったり寄り添うのは、平民出身の宮廷魔術師エルナ・フェルディア嬢。きっちりと巻かれた金髪に、涙ぐんだふりをした大きな瞳。あれが今流行りの「慎ましやかで芯のある乙女」ってやつなのだろう。
「ユリシア、お前は我が王子妃にふさわしくなかった。高慢で、冷酷で、騎士としての矜持ばかりを重んじ、私への敬意を欠いていた!」
よく言う。私が王子の護衛騎士として最前線で命を張っていたことなど、殿下は一度でも感謝してくれただろうか? 一度でも真剣に私と向き合ったことがあっただろうか?
「そうね……ふさわしくなかったのかも」
私は涼しく微笑んでそう言った。心の奥は煮えくり返っていたけれど。
「エルナと新たな婚約を結ぶ。彼女こそが、未来の王妃にふさわしい」
断罪の言葉は、貴族たちにとって“事後承認”のように受け止められた。ユリシア・エルダインは、高慢なだけの騎士令嬢で、あわれ哀れな“使い捨ての駒”だったと。
その日のうちに私は王都の護衛職を解かれ、エルダイン家の領地へ“謹慎”という名目で追放されることになった。
だが私は知らなかった。この屈辱の幕開けが、まさか恋の始まりだなんて。
翌日、馬車で郊外のエルダイン家領へ戻る途中。空が、裂けた。
文字通り、空間が縦に引き裂かれるように光が走り、私の目の前に——男が落ちてきた。
「……なに?」
落下の衝撃で、馬が驚き暴れた。御者が叫び、護衛が馬車を囲む。砂埃が晴れた先に、黒髪の青年が倒れていた。背の高い、異国めいた服装の、剣を携えた男。
そして、彼はゆっくりと立ち上がった。
「ようやく見つけた……ユリシア・エルダイン」
「……誰?」
名を呼ばれたことにも驚いたが、その瞳——灰青の瞳に見つめられた瞬間、私は全身を貫かれるような感覚を覚えた。
「君は俺に“助けを乞うた”。だから来た。何もかも奪われる前に、君を迎えに来た」
「……言ってる意味がまったくわからないわよ」
彼は微笑んだ。
「いずれ思い出すさ。俺と君の約束を」
その日から、私と“落ちてきた男”との共同生活が始まることになる。護衛という名の同居。そして、王都では彼の出現が引き金となり、とんでもない騒動が幕を開けようとしていた。
城都を追われた私、ユリシア・エルダインは、エルダイン侯爵家の離宮で“謹慎”という名の幽閉生活を送るはずだった。けれど、今その離宮の応接室で、まったく見知らぬ男に紅茶を淹れている。
「こういうときは、角砂糖を一つだけ。甘さの奥に余白があるのが好ましい」
「……味の感想を論評するほどの立場かしら、あんた」
男は、昨日空から降ってきた人である。名前を尋ねると「カイン」とだけ名乗ったが、それ以外の素性は一切話さない。服装も言葉遣いも、私たちの常識とどこかずれている。だが、明らかに“品のある動き”と“剣の心得”を持っているのは間違いない。
「それで、カイン。改めて聞くわ。あなたは、私の何を知っているの?」
「君の記憶にはないことを、今語っても混乱するだけだ。だが、一つだけ言える。君はこれから、“もう一度立ち上がらなければならない”」
「聞き飽きたわ、そういう曖昧な言葉」
私は膝の上で手を組み、背筋を伸ばす。これでも一応、王国一の騎士団副隊長だったのだ。婚約を破棄され、王都から追放されても、この誇りだけは手放していない。
「……君を追放した王太子。アルセインという男」
その名が出た瞬間、茶器がカチリと音を立てた。私は無意識に力を込めていた。
「彼の側近に、《黒環の印》があった」
「黒環? まさか、禁術結社の残党?」
カインは静かに頷いた。私の記憶が正しければ、《黒環》とはかつて王国を転覆しかけた魔導結社だ。その存在は歴史書の中の化石のはず……。
「どうしてそんなことを、私に言うの?」
「君がこの王国の“鍵”だからだ」
「……またそれ」
この男、昨日からずっと“鍵”だの“運命”だのと、芝居めいた言葉ばかり使う。でも不思議と、ただの妄言には聞こえない。それが、腹立たしい。
「なら、証拠はあるの? 言葉だけじゃ何も動かないわよ。私は騎士だった。規律と命令で生きていた人間よ」
するとカインは、腰の外套の中から一枚の封蝋文書を取り出した。深緋の封に、歪んだ円環の紋が押されていた。
「これは……王宮内部の書簡?」
「アルセインの近侍が、黒環の幹部と定期的に接触している記録だ。しかもこれは、彼が婚約破棄の直前に受け取った」
「まさか……私を追い出すよう仕組んだのは……」
「彼ではない。“利用されている”んだ。だが、問題はそこではない。君を排除しようとしたのは、別の目的がある」
「私を排除することで、何かが成されるってこと?」
「君がいたから防げた未来が、今また進み始めている。君の退場が、それを加速させた」
私は息を呑んだ。そして悟った。この男が何を言いたいのか。
——私は、政略の駒ではなく、危険視される“存在”だったのだ。
だから断罪された。捏造された罪で公衆の面前で恥をかかされ、王子妃の座を奪われ、捨てられた。
「……ざまぁ、ね」
私は口の端を上げた。思わず笑ってしまった。なぜなら、こんな筋書き通りの悪役扱いを受けたのに、私は生きてここにいる。まだ戦える。まだ剣を握れる。
そして今、私の隣には——少なくとも私を“信じている”と言い切る男がいる。
「ユリシア・エルダインは、捨て駒にはならないわ。婚約破棄されようと、断罪されようと……私の人生は、あいつの小芝居の脚本じゃない」
立ち上がると、カインが私を見上げた。目を細めるようにして微笑む。
「ようやく、戻ってきたな」
「……何がよ」
「“君らしさ”だ」
私は顔をそむけた。なぜか、心臓がうるさい。こいつのせいで、きっとまた面倒な騒ぎに巻き込まれるんだろう。でも不思議と——悪くない気がした。
舞踏会と聞いて、心が沸き立つような令嬢は多い。華やかなドレス、煌びやかな会場、誰に声をかけられるかという高揚感。けれど私にとって舞踏会は、ただの情報収集と政略の場だった。そして今日、その舞踏会が、私にとって復讐の“舞台”になる。
王太子アルセインと、元平民魔術師エルナの“新婚約お披露目舞踏会”——という、聞くだけで胃が痛くなる催しに、私は正式な招待状を受け取った。
ざんげのつもりか、それともただの侮辱か。どちらにせよ好都合だった。
「行くつもりか?」
カインは私のドレスの裾を直している侍女たちの向こうで、壁に凭れて腕を組んでいた。
「もちろん。大勢の貴族の前で私を追放したんですもの。戻るなら、それ以上に派手な舞台がふさわしい」
「だが、まだ準備は——」
「もう揃っているわよ。証拠と、暴くべき場、そして私の“顔”。それで足りない?」
私は微笑んで立ち上がった。エルダイン家の刺繍を施した濃紺のドレスに、淡く光る魔導石のネックレス。あの夜以来、初めて“侯爵令嬢”としての私に戻る装い。
「……綺麗だ」
「なに、今さら口説くの?」
「口説いていない」
「顔が赤いわよ?」
「赤くない」
わかりやすい。けれど、今の私は恋愛で頭がいっぱいというわけにはいかない。恋は後回し、まずは……断罪だ。
舞踏会は王都の中心にあるクリュスタル宮で開かれた。天井には千の灯火、水晶のシャンデリア。音楽と笑い声が満ちる中、私は会場に一歩踏み込んだ。
その瞬間、ざわりと空気が揺れる。
「え……?」
「まさか、ユリシア嬢?」
「追放されたのでは……?」
人々がささやき始める。構わない、むしろ狙い通り。
壇上にはアルセインと、まるで天使のような微笑を浮かべるエルナが並んでいた。王太子は私に気づき、眉をひそめた。
「ユリシア……! なぜここに……!」
「招待されたので、正装で参りました。まさか、歓迎されませんの?」
「貴様……!」
アルセインが詰め寄ろうとするのを、エルナが制した。人前で取り乱すまいとするのだろう。お上品なふりをするには、よくできた演技。
私は会場の中心へと歩み出て、広く見渡した。
「皆様、本日はお招きありがとうございます。ユリシア・エルダイン、謹んでご挨拶申し上げます。先日、婚約破棄の件で騒がせましたが、私より一つ、報告がございます」
沈黙が、場を満たす。
「王太子殿下の近侍が、《黒環》と呼ばれる禁術結社と内通していた記録が、確保されました」
静寂が破れる。
「証拠はここに。宮廷魔導院に正式提出された文書の写しです」
私が懐から取り出した文書を見て、側近の一人が青ざめた。動いた。ならば、的中だ。
「殿下、まさかとは思いますが、貴殿がその内通に加担していたなどとは——お思いではありませんよね?」
「ば、馬鹿な……!」
「王族の周囲に、そのような組織が根を張るとは前代未聞。私の追放がそのためだったとすれば……私の名誉、そしてエルダイン家の名を傷つけたことになります」
ざわめきは混乱に変わった。王族批判は重罪だ。けれど、証拠が出れば話は別。
そしてそのとき、カインが背後から現れた。黒の礼装に身を包み、王宮の監察長官の徽章を掲げて。
「この男は、監察局特務調査官カイン・ヴァルトルフ。今回の捜査の責任者です」
王太子は言葉を失った。騎士団長が進み出て、文書を受け取る。
「真偽の確認は我々が行う。ユリシア嬢、このたびは貴重な情報をありがとう」
「いえ、とんでもない」
私は深く一礼し、会場から下がった。ざまあ、とか、断罪、とか、そんな言葉を口にするまでもない。事実が、すべてを語っていた。
カインが隣に並ぶ。
「よくやったな」
「当然よ。私は、誰にも使い捨てにされない」
「……お前が王妃だったら、この国はもっとまともだったろうな」
「今なら、まだ間に合うわよ?」
「……考えておく」
その横顔は、また少し赤くなっていた。
宮廷舞踏会での“公開断罪”から数日が経った。王城に響いたあの騒ぎは瞬く間に貴族社会全体へと波及し、王太子アルセインは政治の表舞台から事実上、引きずり下ろされた。
今、私は再び王都の中心——王城の一室にいる。けれど“囚われの身”ではない。護衛任務、監察協力、そして……なぜかカインの“監視対象”という、三重の名目付きで。
「……まさか、あのアルセインが一言も弁明せずに引き下がるとはね」
「表向きは“病による静養”。実態は、証拠隠滅と証人消しが出来なくなった結果だ。もはや彼に王権は残されていない」
隣で椅子に座るカインは、相変わらず事務的な口調だ。けれど私の目にはわかる。彼のまなざしは——この国の未来を、私以上に憂えている。
「君の動きがなければ、今回の暴露は成立しなかった。ありがとう、ユリシア」
「礼なんていらないわ。あいつらに“ざまぁ”って思われるのも癪だし」
私はそう言いながら、窓の外に視線を向ける。王都の春の空は明るく澄み、白鳩が低く飛んでいた。あんな空に、あの時、カインは落ちてきたのよね——空から。
「なあ、ユリシア」
カインの声が珍しく、少しだけ躊躇いを含んでいた。
「ん?」
「俺は、君に——いや、やっぱり何でもない」
「はあ? 何よそれ。言いかけてやめるくらいなら最初から黙ってなさいよ」
「いや……君にだけは、言うべきか悩んでいたんだ」
彼がいつになく真剣な目をしていた。今にも剣を抜くような鋭さ。けれど向けられているのは、敵意ではなかった。むしろ、それとは正反対の——
「俺は、君を知っていた。過去に。正確には……別の時間で、君と共に戦っていた。だが、その記憶を君は持っていない」
「……それって、どういう……」
「その答えは、君が選ばなければならない。俺が言えば、君はきっとその記憶を“奪われたもの”と感じてしまうから」
わけがわからない。でも、わかった。
この人は、本当に私のことを大切に思っている。過去がどうあれ、彼は今の“私”に向かって剣を抜き、言葉を交わし、視線をくれる。
「……ねぇ、カイン。あなた、もしかして私のこと、好きだったの?」
彼は視線を逸らした。耳がほんのり赤くなる。
「昔の君は、もっと直球じゃなかったはずだ」
「それって、今の私に惚れてないって意味?」
「そうは言っていない」
「なら、はっきり言いなさいよ。私は曖昧が嫌いなの。剣と同じ。芯が通ってないと、すぐ折れるわよ?」
すると、彼は静かに立ち上がった。私の前まで歩み寄ると、片膝をつき、そして右手を胸に当てた。
「私は、カイン・ヴァルトルフ。王国監察局特務調査官。そして一人の剣士として、ユリシア・エルダインに誓う」
「えっ……なにその真面目モード……」
「この先、何があろうと、君の味方であり続ける。誰が君を罵ろうと、過去を咎めようと、剣を抜いて君を守る」
「ちょ、ちょっと待って……!」
「それが俺の“本当の任務”だった。そして今は——それ以上の意味もある」
「も、もしかして……それって……」
「恋だ」
不意打ちすぎた。
私は真っ赤になっていた。顔だけでなく、首まで熱い。息もうまく吸えない。
「ちょ、ちょっとなに勝手にそういうこと言って……! 私、そんなん、心の準備とか、ないし!」
「でも、君はもう覚えているはずだ。あの時、最期の瞬間に交わした約束を」
私は——ふと、胸が締め付けられた。
遠い夢のような記憶。誰かの手を取り、「また、きっと」と言った、あの夜。あれが、この人だった……のかもしれない。
「……ずるい。全部思い出せてるわけじゃないのに、そんな風に言われたら、意識しちゃうでしょ」
「構わない。君が、俺をもう一度“好き”になってくれるなら」
「そ、それはこれから考えるわよ!」
私の声が裏返った。彼はくすっと笑った。ふざけてる。……けど、嫌じゃない。むしろ、こんな風にまっすぐ向き合われるの、初めてかもしれない。
王城の風が、二人の間をすり抜けていく。春はもうすぐ終わる。
夜が静かに更けていた。王城の離れに設けられた私の部屋で、私は書きかけの報告書の筆を止めていた。
カインは部屋の隅、窓際に立ったまま、じっと夜空を見つめている。何か言いたそうにして、でも言わずにいる沈黙。こういうのが一番、気まずい。
「言いたいことがあるなら言えば?」
「……君の夢は、いつから始まっている?」
唐突な問いに、私は瞬きをした。
「夢って?」
「誰かに手を伸ばして、名前を呼ばれて、闇の中で契約を結ぶ……そんな夢を見たことは?」
それは、何度も見た。繰り返される曖昧な夢。誰かが私に剣を差し出し、私がその手を取る場面。顔は思い出せないのに、懐かしくて、痛ましい。
「……ある。たぶん、子供の頃から。でも、意味があるとは思ってなかった」
「それは“契約の記憶”だ。君と俺が交わした、ある誓いの痕跡」
「契約?」
「君が絶望した未来で、最後に俺に言った。『もう一度、この手で選びたい』と。だから俺は、時空を超えて君のもとに来た。あの裂け目は……その契約が発動した瞬間に開いた、“召喚の穴”だった」
私は立ち上がって彼に近づく。静かな部屋に、二人の足音だけが響く。
「本当に……私が呼んだの?」
「君の記憶には残っていない。だが、魂は覚えていた。あのときの選択を。だから俺は応じた。何もかもを捨てて、君のために来た」
「……それって、ずるいわよ」
「ずるい?」
「私だけ覚えてないのに、あなただけ全部知ってて、それで私の前に立つなんて……不公平すぎる」
胸が苦しかった。理由なんてわからない。ただ、彼の言葉を聞くたびに、何かが喉元までせり上がってくる。
「思い出したいのに、思い出せない。なのに、あなたの目を見るたびに……涙が出そうになるの。そんなのおかしいでしょ」
「それでいい。無理に思い出す必要はない。今の君が、俺を選ぶなら——それだけでいい」
私は顔を上げた。カインの瞳は深く、悲しみと、決意と、希望がないまぜになっていた。
「ねえ、カイン。私が呼んだというなら、あなたにお願いがある」
「なんでも言ってくれ」
「これからの私の“選択”に、勝手に答えを決めないで。私は、私自身の意思であなたを信じたい。恋をするのも、剣を抜くのも、自分で決めたいの」
彼の表情が、少しだけ柔らいだ。
「了解した。君が選ぶ限り、俺は従う。君が俺を拒む日が来ても、剣は抜かない。だが——」
言いかけたその瞬間、外で警鐘が鳴った。重い音。王城を包む魔力がざわめく。
「侵入者!?」
私とカインは同時に動いた。彼が剣を抜き、私が魔導槍を握る。互いの背中を任せ合う構え。ああ、これ、知ってる。この感じ——
「迎えに来たようだ。君を“奪い返す”ために」
カインがつぶやいた。
外では、赤い霧を纏った黒衣の集団が王城の防壁を突破していた。黒環の残党。だが、私の視線はその中心にいた女に奪われた。
あれは——エルナ・フェルディア。
「待って……! あの女、処分されたはずじゃ……!」
「処分されてない。“逃がされた”。君を完全に消すために、別の手段で」
私は奥歯を噛んだ。断罪も、ざまぁも、まだ“幕間”にすぎなかったのか。
でも、もう逃げない。
私は魔導槍を構えた。
「カイン。これが私の選択よ。あんたを信じて、私も剣を抜く」
「……了解。では、契約の剣士として、再び君と戦おう」
背中を預け、敵の渦へと飛び込む。——あの空から落ちてきた男は、私が自ら呼び寄せた“運命の騎士”だったのだ。
王城の中庭が、まるで戦場だった。咆哮を上げる魔獣、赤黒い魔法陣、炎に包まれた石畳。風が逆巻き、空気は張り詰めている。けれど、何より場を支配していたのは、あの女の声だった。
「お久しぶりね、ユリシア嬢。貴女の断罪、まだ終わっていないのよ」
笑っていた。エルナ・フェルディアは、あの“舞踏会”で私が突き落としたはずの玉座の座を、まるで手放していなかったかのように。
黒と紅のドレスに身を包み、瞳は完全に魔に染まっている。背後には黒環の残党たち、そして巨大な魔獣が二体。彼女の掌には、紅蓮の魔力が渦巻いていた。
「処分されたんじゃなかったの?」
「処分? あんなもの、形だけよ。王太子を脅せば、いくらでも逃げ道はあるの。私を追い出したつもりだったのでしょうけれど……次は私が“あなた”を王都から消す番」
……なるほど。あの男、最後の最後まで使い物にならなかったわけね。
「そして私は、真の王妃となる。黒環の力をこの国に注ぎ、正しい“選別”をもたらすわ」
「そうやって魔導を乱用して、滅んだ国はいくつもあるわ。あなたはその二の舞をやるつもり?」
「歴史の敗者は口を閉じるのよ。勝てば、私が新しい歴史を刻むだけ」
完全に正気を失っている。けれど、それ以上に危険なのは、彼女の背後に控える黒環の魔導師たちだ。その魔術レベルは、王国魔術院の上級師すら凌駕していた。
「カイン、どうする?」
「この場で迎撃する。君はエルナに集中しろ。魔獣と術師たちは俺が捌く」
「ひとりで十人を相手にする気?」
「構わない。君が倒すべき“本当の相手”は、目の前にいる」
私は頷いた。足を前に踏み出し、魔導槍を構える。鼓動が速い。息が苦しい。けれど怖くない。私にはもう、背中を預ける相手がいる。
「エルナ・フェルディア。あなたは私を断罪した。でも今度は、私があなたを裁く番よ」
「やってみなさいな、婚約破棄された哀れな捨て駒令嬢!」
その瞬間、地面が割れ、エルナの足元から紅蓮の柱が吹き上がった。防御の魔法を展開しながら、私は跳躍する。背後でカインの剣戟が聞こえる。けれど、私の視界にあるのはただ一人。
――許せなかった。
私を罠に嵌め、王都から追放し、政敵をすべて排除しようとしたこの女が、まだ笑っていることが。
だから、私は叫ぶ。
「断罪を受けるべきは、お前だ!」
閃光のような槍撃が、魔導障壁を貫いた。エルナの顔が歪む。再び障壁を張ろうとした彼女の手を、私は自らの手で弾き飛ばす。
「私は、あのときは黙って引いた。でももう違う。私には、見届ける者がいる。守るべき名誉がある。そして何より——」
私は最後の一撃を振り抜いた。エルナの魔力核に刻まれた“黒環の紋章”を、槍の先で破壊する。
「私には、私を信じてくれる人がいる!」
砕け散る魔力。赤い風が吹き抜け、エルナはそのまま膝をついた。
「どうして……私が、あなたなんかに……!」
「簡単よ。私はもう“ひとりぼっちじゃない”から」
そのとき、背後から足音がした。振り返れば、カインが返り血に濡れた剣を持ち、私の隣に立っていた。
「片付いたようだな」
「こっちもね。あとは彼女を拘束して、正式な処分を待つだけ」
私は荒い呼吸を整えながら、カインの隣に並んだ。
「……ありがとう。あなたがいてくれたから、ここまで来られた」
「俺もだ、ユリシア。君がいたから、ここに来られた」
視線が合う。言葉はもういらない。ふたりで勝ち取った正義と誇り。そして、かつての断罪を乗り越えた今——私たちはようやく、同じ未来を見始めたのかもしれない。
城都に花が戻っていた。エルナ・フェルディアが拘束され、黒環の残党が壊滅したことで、王城も貴族社会も急速に沈静化した。かつて断罪され、婚約破棄された“元令嬢”ユリシア・エルダインの名が、いまや“黒環を暴いた騎士令嬢”として再び街に響いている。
「ふん、今さら賞賛なんて、遅すぎるのよ」
そう口では言いつつ、私は王宮に設けられた謁見の間へと向かっていた。正式に名誉を回復し、青炎隊副隊長としての復職を認めるというのが、今日の目的だった。
「どれだけ私を見下しても、結果を見れば誰が正しかったか分かるはずよ」
「その通りだ、ユリシア。お前は間違っていなかった」
静かにそう言ったのは、私の隣に立つ男——カインだった。今や王国監察局の“次席特務官”として、王命により常に私の任務に同行する立場となった。……つまり、四六時中、傍にいる。
「ねえ、カイン。監視対象が解除されたなら、そろそろ一人になってくれてもいいんじゃない?」
「無理だ。俺は、君の“監視”じゃなく、“誓い”でここにいる」
「またそれ……ずるい言い方する」
「誓いを交わしたのは、君の方からだろう?」
「知らない。記憶ないもの」
「なら、新しく誓わせてもいい」
「っ……」
いちいち言い回しが狡い。だけど、そんなところが少しずつ、私の中に居場所を作っている。騎士としての誇りとは別に、個人としての心のほころびに、彼の声が触れてくる。
謁見の間では、王と王妃が揃って私を迎えていた。王太子アルセインの姿は、当然ない。彼は“療養”という名目で国外に送られ、二度と王政には関われない。
「ユリシア・エルダイン。汝の勇気と忠誠に感謝する。我ら王室は、汝の名誉を完全に回復し、爵位と地位を再び与える」
「……謹んで、お受けいたします」
私が深く頭を下げると、王妃がそっと言った。
「あなたのような方が、もっと早く王妃候補であればよかったのに」
「恐れ多いお言葉です」
過ぎ去ったものに未練はない。私には今、別の未来がある。
謁見を終えると、城の回廊でカインが待っていた。
「さて。名誉は返ってきた。次は何を望む?」
「名誉を取り戻したら、私にはもう“騎士”以外の未来がなかったはずだった。でも、今は……」
私は彼を見上げる。春の陽差しが、彼の髪に差し込んでいた。
「私、あなたのことが好きみたい」
「……」
カインの目が、ほんのわずか見開かれた。
「だって、あなたがいなければ私はあの夜、きっと立ち上がれなかった。仇を取っても、心は空っぽだった。あなたが傍にいて、真っ直ぐ私を見てくれたから、私も前を向けた」
「それは——」
「だから、今度は私の番。あなたに誓うわ」
私は彼の手を取った。かつて夢で誰かと交わしたあの仕草を、現実でなぞる。
「カイン・ヴァルトルフ。私はあなたを“未来の騎士”として、私の隣に置きたい。過去がどうであれ、今の私があなたを選ぶの」
沈黙が落ちた。けれど、それは重いものじゃなかった。
彼は手を握り返し、ゆっくりと口を開いた。
「ようやく、君らしいな」
「え?」
「やっと、記憶じゃなく“今の君”に言ってもらえた。……ありがとう、ユリシア」
彼が私の手に口づけた瞬間、胸が熱くなった。
かつて断罪された令嬢は、もういない。
今ここにいるのは、運命に選ばれた魔装騎士。そして、その隣にいるのは——彼女を守ると誓った、空から落ちてきた騎士。
季節は、夏へと移ろい始めていた。
王都は花と光に満ち、かつての不穏の影はもうほとんど見えない。けれど、私は知っている。影は完全には消えない。だからこそ——騎士は剣を携えるのだ。
「それが、君の選択か?」
静かな水音が響く、王城の中庭。噴水の前で、カインが私の言葉を反芻するように尋ねた。
「ええ。私はこれからも騎士であり続ける。そして……令嬢として、“個人の意思”で選んだ相手と共に歩くわ」
私の言葉に、彼は少し目を細めて笑った。その微笑みは、初めて出会った日の、あの無表情の仮面とはまるで違う。
「やっと“君の声”で答えてくれた気がする」
「ずいぶん長い前置きだったでしょ? でも……選びたかったの。過去や運命に操られるんじゃなくて、自分の意志で、今の私が」
「君はもう、完全に“あの時”の君じゃない。それでいい。今の君を、俺は愛している」
顔が熱くなった。何度も言われたその言葉なのに、ようやく実感を伴って胸に響いてきた。
「……なら、あんたも覚悟してね?」
「ん?」
「私の隣に立つっていうのは、そう簡単じゃないのよ。政略も陰謀も、王国の重圧も全部背負って、それでも前を向き続けるってこと」
「大丈夫だ。君が隣にいる限り、背負えないものはない」
「……ずるい。本当に、ずるい」
私は言いながら、笑っていた。
そう、私はこの国で“断罪された令嬢”だった。誇りも地位も奪われ、愛する者に裏切られ、すべてを失った。
でも今は、私は自分の意志で剣を握り、自分の選んだ男の隣に立っている。
「カイン」
「ん?」
「そろそろ、手を離してくれない?」
「いやだ。君が離しても、俺は握っている」
「ちょっと! 何その返し!?」
「誓いだよ、これは」
顔を真っ赤にして抗議しようとしたそのとき、不意に彼が懐から一つの小箱を取り出した。開くと、そこには緋色の宝石がはめ込まれた指輪。
「これは、君と交わした“初めての契約”の証。時を超えて持ってきた」
「……!」
「もう一度、交わしてくれるか? “契約”じゃなく、“誓い”として」
指が、震えた。思わず口元を押さえる。涙が、出そうになった。こんな風に——
「ええ。誓うわ。今度こそ、私はあなたを最後まで信じ抜く。剣を持つ手も、心も、全部」
私は指輪を受け取り、彼の手に自分の指を差し出した。
「ありがとう、ユリシア」
「こちらこそ。……本当に、来てくれてありがとう」
夏風が吹いた。花が舞った。白い光が、私たちを包み込む。
かつて“空から落ちてきた”男と、地に落とされた令嬢の物語は、ここで一つの終わりを迎える。
でも——
これは、始まりだ。
王国を守る騎士として。ひとりの女性として。
私は、私の選んだ“運命”と共に歩いていく。
そしてその隣には、かつての契約者——今は、ただひとりの愛する人。
私、ユリシア・エルダインは、ようやく本当の意味で“未来”を手にしたのだ。