第168話 老将の咆吼
西の空は薄く朱に染まり、焦げた金属と血の匂いが風に混じって流れていた。
二つ頭の猟犬を撃破したメシュードラらは弾九郎の元に集まり、次の指示を待つ。
ヴァロッタは倒れたオウガの散らばる戦場を見下ろし、物足りなそうな口調で言った。
「弾九郎、敵さん引き始めたぜ。追わないのか?」
返ってきたのは、驚くほどあっさりとした声だった。
「いや、追わん。この戦での我らの役目は終わった」
そして弾九郎は視線を遠くに投げた。
その眼差しには、もはや戦いの熱ではなく、冷えた戦略の光が宿っている。
「倒れたオウガはすべてラバスへ運べ。敵兵もだ。一機も残すな」
端的な指示に、周囲の者たちは顔を見合わせた。
敵本陣はまだ無傷のまま。勝利を掴みかけているのに、撤収とは。
「弾九郎殿……本当に、よろしいのですか? このままでは敵を取り逃がすのでは……」
メシュードラの声には、焦燥と懸念が入り混じっていた。
だが、弾九郎は静かに指を伸ばし、地平を指す。
「あれを見ろ」
薄曇る平原の向こう側──ダーシャ・ザーニ率いる貴族連合の軍が、撤退を始めた敵本陣の背を塞ぐように動いている。
その旗印の列を見て、メシュードラの瞳が見開かれた。
「マリーの策が当たった。……寝返りだ」
弾九郎の声音は、確信に満ちていた。
彼だけが知っていた。貴族連合の総大将、ダーシャ・ザーニを裏切らせる策を。
それを信じ、待ち、そして──今、その時が訪れた。
「残りのヤドックラディ兵は七百足らず。前からシュカリラの七百、背には九百の貴族連合。もはや勝負はついた」
淡々と告げるその口調に、勝利の昂揚はない。
あるのは、ただ戦の終わりを見届ける者の冷静な声だけだった。
「ラバス軍も撤収を始めたな」
ツェットがつぶやく。
視線の先では、中央の陣形が崩れ、損壊したオウガが次々と後方へ運ばれていく。
その背後で、マルフレアのフォーダンが陣頭に立ち、冷徹な指揮を続けていた。
「これで終わり……ってことでしょうか、弾九郎様」
ライガの声には、どこか物足りなさが滲む。
血と火の中で戦い続けた者だけが知る、終戦の虚しさ。
「聞くまでもねえよ、ライガ」
クラットが笑いながら肩を叩いた。
「敵さんをこの戦場に引きずり出した。それだけで俺たちの役目は終わったんだ。横を突いてきた連中を追っ払ったのは……まあ、オマケってとこだな」
ライガは不満げに鼻を鳴らしたが、その瞳には納得の色が浮かぶ。
弾九郎は一歩、戦場を見渡す高台へと歩み出た。
沈む陽の光が、無数のオウガの残骸を橙に照らし出す。
その景色は、まるで燃え落ちる国の墓標のようだった。
「だが全て終わったわけでは無い。なるべく撤収を急がせろ。用意が整い次第──ニスビーへ征くぞ」
静かに告げられたその声に、誰もが背筋を伸ばした。
風が吹き抜ける。焦げた匂いの中、部下たちは一斉に持ち場へ散っていく。
その足音を聞きながら、弾九郎はひとり、遠くで立ち上る煙の向こうを見つめた。
*
金属の悲鳴と血煙の中、前線から伝令が転げ込むように飛び込んできた。
その顔は恐怖に引き攣り、声は掠れていた。
「将軍っ──! 裏切りです! 貴族連合が……我々に攻撃を!」
その言葉を聞いた瞬間、アイゼル・パガニンの思考は止まった。
一瞬だけ、時間が凍る。だが、次の瞬間、遠方に見える光の奔流──それがすべてを物語っていた。
青と橙に輝くダーシャのオウガ、サフィールが剣を掲げ、味方の陣へと突撃している。
そして、それに続く九百の巨人たち。
「な……何だと……? 裏切りだと……?」
唇が震える。
だが目の前の光景は、誰の目にも紛れもない現実だった。
「なぜだ……! なぜ裏切った、ダーシャァ!!!」
怒号が戦場に響いた。
アイゼルの胸を焼くのは、怒りよりも、深い失望だった。
右将軍と左将軍。二柱としてヤドックラディを支え、互いに信義を尽くしてきた。
ダーシャは大貴族の出ではあったが、地に足のついた女だった。
戦場で泥を啜り、血を流し、部下の命を抱いて泣いた。
貴族でありながら戦士である。その矜持を、アイゼルは何よりも買っていた。
自分の後を継ぐ者は、もしかするとあの娘かもしれぬ──そう考えたことさえある。
だが今、その信頼が音を立てて崩れ去る。
「……馬鹿な……野心か? それとも……ヤマトに誑かされたか……」
老将の脳裏で、無数の可能性が一瞬にして駆け巡る。
だが、いずれにせよ意味はない。理由を問う暇など、もうどこにも残されていない。
「将軍! 前方より新手です!」
またしても伝令が駆け込んだ。
「シュカリラ軍、七百! 鋒矢の陣でこちらへ突撃してきます!」
アイゼルの瞳がわずかに見開かれる。
視界の彼方、砂煙を巻き上げながら押し寄せる軍勢──整然としたその動きは、まさに訓練された精鋭の証だった。
(……終わったか)
その言葉が脳裏を掠める。
だが口には出さない。
五十年以上、剣を握り続けてきた男の誇りが、それだけは許さなかった。
「総員、陣形を立て直せ! 退路を確保しつつ後退する! まだ終わりではない!」
怒号と共に、アイゼルは剣を掲げた。
背後から迫る裏切りの鉄騎、正面にはシュカリラの大軍。
逃げ場のない挟撃。
だが、老将の心にはまだ一点の火が残っていた。
(まだだ……まだ終わらん……)
アイゼルの雷鳴のような咆哮が平原を震わせた。
「全軍、我に続けぇい!!!」
ラバス平原の空が、紅蓮の炎で裂けた。
老将アイゼル・パガニン、その生涯で最も孤独な戦が、いま始まろうとしていた。
*
「はっはー! ようやく出番が来たか!」
地を震わせるような咆哮と共に、アウルバリ・ベルンが先陣を駆け抜けた。
その背に翻る漆黒の軍旗が、夕焼けのように血煙に染まる。かつて氷剣ツェットと互角に渡り合い、狂獣と呼ばれた男。その眼光は、戦場を焼き払う紅蓮そのものだった。
彼の左右を固めるのは、巨斧を振るうダリウス・ディナプェと、細身のレイピアを構えるキリア・リュッケ。二人の刃が光を散らすたび、敵兵の悲鳴が空気を切り裂く。
「つまらん! 貴様らそれでもヤドックラディの戦士か!」
「逃げるってんなら都合いいじゃないか。こっちは後ろから狩るだけさね!」
ダリウスが怒声を上げ、キリアが艶やかな笑みを浮かべながら血飛沫の中を舞う。
その勢いは、まるで戦場に吹き荒れる嵐。アウルバリ隊は無人の野を行くが如く、敵陣を一気に切り裂いていく。
しかし、彼らが進む先に、もはや「戦場」はなかった。
眼前に広がるのは、破壊し尽くされたオウガの残骸。装甲の破片と血が混じり、地面には蒸気と焦げた鉄の匂いが立ちこめている。
つい先程まで戦場を埋め尽くしていたヤドックラディ正規軍の巨体は、今やほとんど影も形もない。
「アウルバリ! 敵はどこへ行ったのですか!」
後方から駆けつけたシルフィーア姫の声が、戦場に澄んで響いた。
姫のオウガ、エステリアームの装飾が風に揺れ、血煙の中で一瞬、神聖な光を放つ。
「姫! どうやら敵は逃げ散ったようです。呆気ないですが、我々の勝利のようですな」
「そうですか……これで終わったのですね……」
シルフィーアは空を仰いだ。
あれほど覚悟を決め、祖国の名誉を懸けて挑むと誓った戦場が──気づけば、すでに終わっていた。
足元には、焼け焦げた土と、冷たく沈むオウガの残骸。勝利の余韻よりも、取り残されたような虚無感が胸を満たしていく。
「これで……次はどうなるのですか? 私たちに出来ることは……」
そのつぶやきに、ピルムが静かに応えた。
彼の声は戦場の残響の中でも不思議と落ち着いていた。
「ヤマトからの指示では、損傷したオウガを敵味方関係なく、ラバス城へ運べとのことです。差し当たって、我々の仕事はそれですね」
「そう……ヤマトの方は大丈夫だったのかしら?」
「心配する必要はないでしょう。最初の戦で敵の先鋒をほとんど蹴散らしたと聞きました。何しろあちらには、メシュードラ殿を含む十三剣が四人もいて──弾九郎様が率いているのですから」
「それもそうよね……」
シルフィーアは遠く、右翼の陣を見つめた。
陽炎の向こうに、彼の姿を探すように。
──メシュードラ。
共に戦えなかったことは心残りだったが、今はただ、彼が無事であることを願う。
焦げた風が頬を撫で、涙のように熱を残していった。
お読みくださり、ありがとうございました。
今回の戦いでヤマト、シュカリラ連合軍は二百機近い損害を出しましたが、ヤドックラディ正規軍では起動不能となったオウガが五百機を超えました。
戦闘終了後は、これらの機体を迅速に確保し、搭乗員を捕虜として扱うことが優先されます。
敵オウガの中には、数時間で復旧する機体も存在するため、不意の反撃を受ける可能性があるからです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




