第163話 骨が砕けるまで戦え!!
作戦会議から二日後の昼過ぎ。
灰色の雲が垂れ込める空の下、櫓の天辺に立つ監視兵は、風に煽られる旗を押さえつつ、遠くの地平を凝視していた。
最初に見えたのは、ゆらりと揺れる蜃気楼のような影。
それが次第に輪郭を帯び、やがて鉄の光沢とともに幾百もの機影へと変わる。
──来た。
その瞬間、彼の喉がひとりでに鳴った。
ヤドックラディ正規軍。雲霞のごとき大軍勢が、地鳴りのような振動と共にラバス平原を覆い尽くしていく。
地を這うオウガの群れは、まるで生き物のように波打ち、巨大な獣がうねるような一体感を見せていた。
兵の歩調が揃うたび、大地が震え、空気が圧し潰される。風が逆巻き、尖塔の旗を引き裂かんばかりに揺らす。
監視兵の背筋に冷たい戦慄が走った。
数でも、規律でも、あれは正規軍──自分たちがこれから相対するのは、まぎれもなく国家そのものの力だ。
*
「弾九郎様。敵が姿を現したようです。……皆に一言、お願いいたします」
スピーカーを通して響いたのは、マルフレアの静かな声だった。
彼女は中央軍の後方、カーツ・ゴーレイとともに指揮所にあり、全軍の進退をここから統べる。
風音とノイズの中、その声だけが妙に澄んで聞こえた。
「わかった……」
来栖弾九郎はゆっくり頷き、ダンクルスの右手を隣のオウガの手にそっと触れさせた。その触れ合いが、まるで見えない電流のように全軍へ伝わる合図となる。列の端々にまで響く小さな金属音が、軍の規律ある緊張をさらに引き締めた。離れた部隊にはワイヤーとスピーカーを通して、弾九郎の声が正確に届く。
「来栖弾九郎だ……いよいよヤドックラディとの戦が始まる」
全軍に緊張が走る。いよいよ始まるのだ。
「我らが目指すは敵軍の撃破、そしてニスビーを落とし、悪王バート・ゴーレイの首を刎ねること」
弾九郎は簡潔に、明瞭に自分達の目標を改めて述べる。
「奴は己が野望のため、長年にわたりグリクトモアとグリシャーロットを苦しめ、あまつさえ実弟カーツ・ゴーレイを無実の罪で殺そうとした。その悪業は万死に値する」
弾九郎の声は低く、しかし胸を抉るような重みを持って空気に刻まれた。
その言葉は兵の心に火を灯す。グリクトモアとグリシャーロット、そしてラバスの兵は微かに肩を震わせ、長年の屈辱と痛みを思い返す。彼らの拳は強く握られ、目に熱が帯びている。そして唇を噛み、血の匂いと戦の予感に全身を震わせた。
今まで一方的に押さえつけられ続けてきた悔しさと憤怒が、まるで溶岩のように内側から燃え上がる──それが戦士としての昂ぶりであり、抑えがたい武者震いだった。
「敵はヤドックラディ軍、二千四百のオウガ。こちらはシュカリラの精鋭を加えても千五百に満たぬ寡兵だ。なれど我らには必勝の策がある。ここで奴らを粉砕し、必ずやニスビーを落とす!」
ここでダンクルスは右腕を高々と掲げ、最後の檄を飛ばす。
「この来栖弾九郎がいる限り我らに負けは無い! 皆、全霊を以て立て——骨が砕けるまで戦え!!」
力強い言葉が空間を切り裂いた瞬間、兵たちの身体から何かが弾けた。拳が天を突き、喉から絞り出された声は一つの塊になって砦を揺らす。鬨の声は低く、しかし厚みがあり、波となって平原の空気を揺らした。遠くの風がそれを運び、敵の耳にも届くだろう。
声を上げた者の表情は十人十色だ。老兵は皺の深い顔を歪め、古傷のある腕に力を込める。若者は目を見開き、血の匂いに反応して胸を叩いた。妻子の面影を胸に抱く者は、唇を噛んで涙をこらえる。誰もが違う理由でその声に乗ったが、その芯にあるのは同じ覚悟だった──あの日の恥辱を雪ぎ、大切な人を守ること。
旗は一斉に翻り、オウガたちの関節が低く唸る。将兵の心肺が一斉に高鳴る音は、まるで巨大な生物の脈動のようだった。
弾九郎の声が消えた後にも、空気はそこに震えを残した。誰もが顔を上げ、互いの目に決意を確認する。指揮所ではマルフレア・フォーセインとカーツ・ゴーレイが短く眼差しを交わし、微かな頷きを交わす。戦鼓が鳴り響き、やがて列が整い、ラバス平原に答えが落ちる──戦いの始まりを告げる一歩が、重く、大地を踏みしめて刻まれた。
*
風に乗って響く鬨の声。
その一陣がアイゼル・パガニンの鼓膜を震わせた瞬間、老将の胸中にざらりとした違和感が走った。
戦場を包むのは、秋の乾いた風。その向こう、砂塵の中で陽光を反射させながら整列する敵の陣形が、じわりと輪郭を結び始める。
──横陣?。
アイゼルは思わず目を細めた。鶴翼のように開いたその形こそ、大軍を受け止め、包囲して削るための理想的な布陣だった。
そして何よりも、彼の眉をわずかに動かせたのは──籠城ではないという事実だ。
ヤマトが、籠城を捨て、野に打って出ている。
「……奴ら狂ったか……いや……違う、これは……」
老将の視線が戦場を舐めるように走る。
数えるまでもなく、そこに並ぶオウガの数は想定を外れていた。視界を横切る銀の影は千三百。
ざっと見ただけでも、彼の計算が崩れるには十分すぎた。
「馬鹿な……七百が限界のはず……!」
アイゼルは息を呑む。
数の優位を前提に立てた自らの戦略が、いま音を立てて軋み始める。
風が頬を撫でた。冷たいはずの風が、なぜか熱を帯びて感じられる。
老将の頭脳が、凍りつくような緊張と、戦の匂いに反応して熱を帯びていた。
「敵は……一体どんな魔法を……」
唇の端からこぼれたその呟きは、風に溶けて消えた。
しかし次の瞬間、彼の眼前の光景がその疑念を解き明かす。
砂塵の奥から、青金の紋章。
そして整然としたオウガの列。
「……シュカリラ……か?」
南方の雄、シュカリラ王国。
その名が脳裏をよぎった瞬間、アイゼルは額にじわりと汗を感じた。
ラバスを失った今、ヤドックラディとの国境はもはや存在しない。だが、シュカリラは長年の友邦であり、不可侵条約を結んでいるはず──はずだった。
「どういうことだ……」
目を凝らす。砂塵の向こうに並ぶ紋章旗、風に翻る深紅の布。陽光を反射して煌めく青金の紋章は、まぎれもなくシュカリラのもの。
老将の胸中を、冷えたものと熱いものが同時に走り抜けた。
不可侵の誓いを破ってまで兵を出した理由は何か。だが、現にそこにいる。数百のオウガが整然と並び、ヤマト軍の一翼を固めている。
「内乱の最中のはず……外に出る余力など、あるはずが……」
声は自分でも驚くほど掠れていた。
混乱する思考の奥で、アイゼルの「将」としての意識がなおも冷静を保とうとする。
──理由はどうあれ、戦場にいる以上、敵として数えるしかない。
心の奥で、何かが「コツリ」と切り替わる音がした。
彼は深く息を吸い、眼前の光景を改めて俯瞰する。
確かに敵は一千三百に届くが、こちらは二千三百。数の上ではまだ圧倒している。
「焦るな、まだ主導権はこちらにある……」
胸の奥でそう言い聞かせるように、老将は顎を引いた。
経験が警鐘を鳴らしても、理性がそれを押しとどめる。
だが、その均衡は一瞬で崩れた。
戦場の東──そこに現れた別の軍勢。
陽光に照らされ、濃緑の装甲が連なって見える。
戦旗が、はためく。
「……まさか……ダレウモア……だと……?」
アイゼルの声は、風に溶けてかすかに震えた。
胸中を駆け抜けるのは、驚愕よりもあり得ぬものを見たときの、理性の崩壊音だった。
その一団は、まるで森の影がそのまま歩き出したかのようだった。
濃緑の装甲を纏ったオウガが二百。鈍く光るその巨体の上には、深い翡翠色の旗がはためいている。
ダレウモア王国の戦旗──。
風が一瞬止まり、空気が重く沈んだ。
アイゼル・パガニンの瞳孔がかすかに揺れる。
「……ば、馬鹿な……」
声にならない呻きが漏れた。
目の前にある光景を、老将の脳が拒絶している。
不可侵の誓いを結んだ相手が、なぜここに。
「どうしてだ……どうしてダレウモアが……!」
老将の胸を、理屈では説明できぬ恐怖が締めつける。
背筋に冷たいものが走り、喉の奥に鉄の味が広がった。
──儂は……夢でも見ているのか……。
疑念が脳裏を駆け巡るが、風に揺れる旗は確かにそこにある。
濃緑の群れは静かに進み、陽光の反射がまるで波打つ湖面のように戦場を照らす。
だが実際には、そこに「ダレウモアの兵」など一人として存在しない。
それは擬装──マルフレアが周到に仕組んだ幻影である。
ミオネルが密かにシュカリラで用意した偽装装備を、アウルバリ率いる二百の兵が纏っているのだ。
色、紋章、掲げた戦旗、すべてが本物と見紛う精巧さ。
それは魔法ではなく、戦略という名の幻術だった。
老将の思考は、その一手によって完全に崩された。
理性が凍りつき、計算が狂い、戦場の均衡が音を立てて傾き始めた。
「……馬鹿な……そんなはずが……」
アイゼル・パガニンの喉がひくりと鳴った。
その瞳には、濃緑の群れが風にたなびくたび、現実の輪郭が少しずつ崩れていくのが見えた。
ダレウモア──アイハルツ第二の大国。その名を心の中で唱えた瞬間、背中を冷たい汗がつっと流れる。
彼は知っていた。戦国の世では信義など紙のように脆いものだと。
ゆえに、兵を動かす前に周到な根回しを行った。
自ら国境を越え、ダレウモア王に謁見し、ヤドックラディの立場、戦の目的、そして「短期での内乱収束」を滔々と説いた。
その王が静かにうなずき、不介入の約束を改めて確認し合った瞬間──アイゼルは確信した。「この国は動かぬ」と。
だが、今この目で見ている光景は何だ。
濃緑の巨体が二百、列を成し、風にたなびく旗には確かに王章が刻まれている。
まやかしか? 挑発か? それとも──。
「いや……違う。これは……」
口の中が乾き、唇がひび割れた。
もしこの二百が尖兵であれば、背後には本隊がいる。
一千、いや二千──。
その数字を頭の中で思い描いた瞬間、視界の端に広がる空がわずかに暗くなったように見えた。
敵が籠城を選ばなかった理由は、それで辻褄が合う。
ヤマトが鶴翼の陣を敷いたのも、混戦に持ち込んだ後、致命的な一撃をダレウモアの別働隊が与えるための罠。この布陣は迎撃のためではなく、「誘い込むため」のものだ。
まるで自分が囚われた獣のように、すべてが計算されている気がした。
そして老将の心を最も締めつけたのは、目の前の敵ではなく──ニスビーだった。
考え得る最悪のシナリオは、ヤマトが囮となり、ダレウモアがニスビーに侵攻する未来。
今ニスビーには兵がほとんど残っていない。
空き家同然の首都を、ダレウモアの本隊が突くとしたら……。
想像が現実を侵食していく。
石壁の上で翻るヤドックラディの軍旗が、突如として焦げるように見えた。
自分が守ってきた国が、いま静かに滅びの予兆を立ちのぼらせている──。
「ぐっ……ぐぐっ……」
喉の奥から漏れた声は、唸りというよりも、崩れかけた理性の断末魔だった。
アイゼルの脳裏には、幾百もの敵影が次々と浮かんでは重なり、現実と幻が混線していた。オウガの目が、一瞬たりとも焦点を結ばない。視界の端で煙が揺れ、その中に、また新たな「ダレウモア兵」が姿を現した気がする。
──いま、この瞬間に決断せねばならぬ。
幾多の戦場をくぐり抜けてきた老将の本能が、そう警鐘を鳴らしていた。勝ち筋を探すなど、もはや贅沢というものだ。最も守るべきは「国」だ。いや、国というより「存続」そのもの。
アイゼルは奥歯を噛み締め、焦げた鉄の味を感じながら決断した。
──退くしかない。ニスビーへ。
脳裏に浮かぶ地図。国境には、トレフロイグのオウガ一千機。いざとなれば彼らがいる。内戦であれば介入を拒むが、他国の侵攻とあらば、救援を頼まざるを得ない。
「トレフロイグの力を借りねばならぬとは……」
唇の裏で、誰にも聞こえぬように呟く。
だが──そう算盤を弾き終えた矢先だった。
前線から、悲鳴にも似た報告が通信を貫いた。
「敵です! 敵の先鋒と間もなくぶつかります!!」
お読みくださり、ありがとうございました。
ラバス平原に布陣したヤマト軍は、監視用の櫓を設営し、敵の動向を観察できる体制を整えていました。
ひとつの櫓の高さは七十メートルを超えており、オウガよりもはるかに広い範囲を見渡すことができます。
人力であれば大規模な工事になりますが、土木用オウガが部材を運び、現地で組み立てる方式のため、設営は一日もあれば完了します。
櫓の天辺へ登る際は、井戸のように滑車を備えたゴンドラに乗り、オウガが引き上げてくれるため、比較的容易に上ることができます。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




