第162話 武者震い
「ではカーツ将軍、どうぞお動かしください」
マルフレアの言葉と同時に、駒が動く。
狙いはヤマト右翼、弾九郎の率いる軍。
だが、マルフレアは右翼全体をさらに右へずらした。当然、カーツ達の軍との間に空間が生まれる。
「……これでよろしいのですか?」
「ええ、続けてください」
カーツは不審に思いながらも魚鱗陣を前進させる。
その瞬間、マルフレアが弾九郎軍を反転させ、ヤドックラディの横腹を突くように動かした。
そして中央のカーツ軍も反対方向から横撃を加える。敵軍を両翼から同時挟撃──魚鱗陣の弱点を的確に突く。
しかし、カーツも負けてはいない。
「ならば、突破を止め、的を右翼を絞りましょう」
彼はすぐに陣を組み替え、魚鱗陣の二列目を斜めに押し出した。前方の突破は諦め、側面の厚みで対抗する。
だがマルフレアは即座に右翼を下げ、追撃する魚鱗陣の側面を中央軍に突かせる。
両軍の駒がぶつかるたびに、盤上には緊迫した気配が満ちた。
──カチリ。
駒の音が響くたびに、空気が震える。
カーツが陣を変える。マルフレアが読み切る。
読み切られたカーツが逆に囮を仕掛け、今度はマルフレアがそれを凌ぐ。
何度かの攻防が繰り返されるうちに、傍らで見守っていた将たちは次第に息を呑んでいった。
誰も言葉を発せず、ただ二人の動きを目で追う。
卓上で繰り広げられる駆け引きが、まるで戦場そのものの迫力を帯びていた。
「……どう動かしても、崩される……!」
カーツは唸るように呟いた。
魚鱗の陣を中央突破に切り替えても、右翼から攻めても、どこかで二正面、三正面攻撃を受けた。
その全てが、あらかじめ読まれている。
マルフレアは一歩も引かず、淡々と駒を動かしていく。
まるで目の前の戦場が彼女にだけ見えているかのようだった。
「……なるほど。このような手が……」
カーツの手が止まった。
魚鱗の陣は、完全に鶴翼の中で壊滅していた。
沈黙が落ちる。
戦場を模した盤上から、見えない風が吹き抜けたように感じた。
カーツ・ゴーレイはゆっくりと顔を上げ、マルフレアを見つめた。
謀略の才に加え、ここまでの戦術眼を備えるとは──もはや恐れすら抱く。
そして確信した。
──彼女になら、全軍を預けられる。
マルフレアが静かに駒を置いた。
カチリ、という最後の音が部屋に響いた瞬間、一同は息を呑んだ。
「ちょっといいかい、軍師殿」
盤上に漂う緊張を破ったのは、アウルバリ・ベルンだった。
大きな体をやや前に傾け、腕を組んだまま鋭い視線を送る。
その声音には、どこか抑えきれない焦燥と、自らの軍を信じる者の誇りが混じっていた。
「俺たちシュカリラの出番はいつ来るんだ? あんたらのやり取りだと、左翼はただ突っ立ってるだけじゃないか?」
その言葉に、シルフィーアが眉をひそめた。
ピルム・ガイラーもタレラ・ヘンゼルも、わずかに視線を交わす。
──誰もが同じ疑問を抱いていたのだ。
彼らは援軍として駆けつけた。なのに、自分たちの役目が地図の上で「沈黙」している。誇り高き戦士たちにとって、それは耐えがたいことだった。
マルフレアはそんな彼らの心情を見透かすように、一歩進み出て静かに言った。
「実は、皆様の存在こそがこの戦いで最も重要なのです──」
その声は穏やかでありながら、部屋の空気を一変させる重みがあった。
彼は指先で地図の左端、ヤドックラディ正規軍後方を軽く叩く。
「シュカリラ軍の存在が、貴族連合を縫い止める鍵になります。そして同時に、ヤドックラディ正規軍の動きをも制限するのです」
マルフレアの言葉に、アウルバリの眉がぴくりと動いた。
続けてマルフレアは淡々と説明を重ねる。
「貴族連合は、この戦いで大きな利を得る立場ではありません。外征による領地拡大が見込めぬ以上、彼らが積極的に動く理由はない。──しかも皆様が左翼に控えている。これが貴族連合にとって『動かない理由』になるのです」
マルフレアの指先が、地図上を滑る。
貴族連合の陣の後方に、影のように描かれたシュカリラ軍の印。
それを示すたび、まるで彼の言葉に命が宿るように、盤上の空気が緊迫していく。
「もしも正規軍がヤマトの陣を抉っても、無傷の皆様が後方から襲ってくる──その一点が、正規軍にとっても『動けぬ恐怖』を与えるのです。彼らは背後から討たれることを恐れ、前進もできず、退くこともできない。心理的に封じられる」
その説明に、アウルバリの表情が次第に変わっていった。
最初は不満気だった眼差しが、やがて興味に、そして静かな理解に変わる。
戦場を支配するのは、剣や槍ではなく「恐怖」だと──この軍師はそれを熟知している。
「なるほど……それは、重要だな……」
アウルバリは低く呟いた。
豪胆な戦士らしい笑みがゆっくりと浮かぶ。
力を振るう時が来るのはまだ先かもしれない。だが、その時こそ決定的な瞬間──そう確信できる策だ。
シルフィーア・ウォーカー姫も静かに頷いた。
彼女の胸の奥に、熱いものが灯る。
──この戦い、シュカリラが最後の刃となる。
重苦しい空気の中、わずかに希望の光が差した。
「じゃあもしよ……」
そして作戦室に、普段と変わらぬ軽い声が響いた。
口を開いたのはヴァロッタ。かつて傭兵団を率いて戦場を渡り歩いた戦士である。戦略には明るくないが、戦場の匂いを誰よりも敏感に嗅ぎ分ける。
「敵さんが動かなかったらどうするんだ? このままだとにらめっこになるぞ」
卓上の地図を睨みながら言うその声には、退屈でも臆病でもない、「戦」を知る者だけが持つ疑念が滲んでいた。
「さすがヴァロッタ将軍。実はそうなる可能性が一番高いと見ています」
マルフレアが穏やかに答える。彼女の言葉には一片の迷いもなく、まるですでに戦の結末まで見通しているようだった。
その自信に気を良くしたヴァロッタは、鼻息を荒くしながら身を乗り出す。
「そんじゃあ、そのままじゃ一気に倒すってわけにはいかねえな。どんな手を打つんだい?」
ますます調子づいたその様子に、マルフレアはふっと笑みを零した。
柔らかく、それでいて人を挑発するような笑みだった。
「何のために右翼に『大陸十三剣』を四人も並べたと思いますか? しかも、率いるのは──弾九郎様です」
その名を口にした瞬間、部屋の空気が張り詰めた。
将たちの視線が一斉に弾九郎へと向かう。
静かに腕を組んでいた弾九郎は、マルフレアの言葉をすでに知っていたかのように、わずかに目を細めて頷いた。
「敵と対峙した瞬間にこの一団が真っ先に陣を切り裂き、睨み合う暇は与えません。敵は百戦錬磨の古豪──アイゼル・パガニン。彼の強みは経験と読み。それを発揮させる時間を、一瞬たりとも与えない。常に動き、形を変え、考える隙を奪い続ける。先手を重ねれば、勝利は必然となるでしょう」
その声は静かだった。だが、静寂の奥に炎があった。
その言葉が落ちた瞬間、室内の空気が弾けた。
雷鳴が遠くで轟いたかのように、胸の奥で何かが跳ねる。
ヴァロッタは鼻で笑い、肩をぐるりと回した。鎖骨の鳴る音が、闘志の合図のように響く。
メシュードラは剣の柄に触れ、刃の重みを確かめるように指を滑らせた。
ツェットは無言で拳を握り締め、節が白く浮き出る。
ライガの瞳には、若い炎が宿った。戦が始まるというだけで、血が沸き立ち、全身の筋肉が歓喜に震える。
それは恐怖の震えではない。
戦士としての歓び──己の存在が最も鮮烈に輝く瞬間を前にした、武者の昂ぶりだった。
一方、クラットだけは壁にもたれ、長い息を吐いた。
「やれやれ」と言いたげな半笑いを浮かべながらも、その瞳だけは冷静で、戦局の先を測っている。
当初、一軍を任されるはずだった彼は、自らその席を辞退した。
責任を避けるためではない。若きライガに戦場の背中を見せるためだ。
だからこそ、今もこの場にいながら、誰よりも俯瞰していた。
そしてそのとき、カーツ・ゴーレイはマルフレアを見つめ、息を呑んだ。
作戦の核心──それはアイゼル・パガニンから『思考する時間』を奪うこと。
経験を積み重ねた者ほど、状況を読む。だが読ませなければ、彼の知略はただの飾りにすぎない。
カーツは歴戦の将として数多の策を練ってきた。だが今、自分が見ている景色のさらに先を、彼女は見ている。
その深淵を覗いた瞬間、カーツの背を冷たい戦慄が走った。
──この軍師は、戦略を「理」でなく、「芸術」として操る。
こうして、マルフレアの作戦は全会一致で承認された。
外では風が鳴り、野営の旗がはためく。
遠くで兵たちが槍を打ち鳴らし、オウガの駆動音が響いた。
──ヤドックラディとの最終決戦が、いよいよ始まる。
お読みくださり、ありがとうございました。
マルフレアがカーツに模擬戦を仕掛けたのは、今回の戦術がどれほど有効であるかを全員に周知するためでした。
机上の戦いではありますが、マルフレアが今回の作戦をどのように考え、どのように進めようとしているのかを伝えるうえで、非常に有効な手段だったのです。
その結果、戦略方針を全員が理解し、不安なく出陣できるだけの心構えを整えることができました。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




