第135話 偽りの軍権
もちろん、それは根も葉もない嘘。しかも、その嘘はつい数刻前にミオネルから吹き込まれたものだ。
考案者はマルフレア。彼女はシルフィーアが理屈では動かぬ、岩のように頑固な性格である可能性を考慮し、強引に従わせるための虚構を用意していた。
本来の筋書きでは──メシュードラが「シュトルム・デュパン」を名乗り、義勇兵として国王派に身を投じ、戦場で実績を積み重ねて徐々に信頼を勝ち取る。だが、そんな悠長な道筋は姫の性急な命令で粉々に砕けた。
ならば、別の物語が必要だ。しかも今この場で、すぐに人の心を奪う物語が。
「私の父、トロイア・デュパンは傭兵として大陸各地を渡り歩きました。そしてシュカリラでも剣を振るい、ギャスパル王より大変な厚遇を受けました」
その言葉が落ちた瞬間、石造りの広間に低いざわめきが広がった。
老臣の一人が眉を上げ、別の者は口を開きかけて閉じる。──彼らはその名を知っていた。
トロイア・デュパンは確かに存在した。幾つもの戦場で武勲を立て、長年シュカリラに尽くした実在の傭兵。老臣の中には面識を持つ者もいるほどだ。
それを利用するため、マルフレアは細やかに過去を洗い、実在の歴史の上に偽名を築き上げた。
現実のトロイアは戦傷が元で引退し、グリシャーロットで余生を送った。家族はいない。だが、その私生活まで正確に知る者など王宮にはいないはず。つまり、裏を取ろうにも取れないのだ。
「私も幼き頃、幾度かギャスパル王にお目通り叶い、大変可愛がっていただきました」
そう言って、メシュードラは目を伏せ、哀惜を滲ませた。
そのわずかな沈黙と仕草さえ、ミオネルの振り付けだ。
「そして──つい先日、王よりお手紙を賜ったのです」
胸元から取り出された一通の封筒。蝋にはシュカリラ王家の紋章が刻まれ、高級紙には流麗な筆致で王の名が記されている。
もちろん、それもマルフレアが作らせた偽物。だとしても、高級紙の質感、封蝋の色合い、筆運びに至るまで、どこを切り取っても本物にしか見えない。
マルフレアはこうした偽文書を、いくつも「当然の準備」として作らせていたのだ。
ピルムが朗々と読み上げる。
「──もし我が娘、シルフィーアの将器が未熟で、敵に勝てぬと見定めたならば、貴殿に軍権を預けたい。どうか一人残された娘を守ってほしい──」
文中には、なんと軍権譲渡の旨まで明記されていた。
その瞬間、メシュードラの背筋を冷たい汗が伝う。手のひらにじっとりとした湿り気が生まれ、視界の端がわずかに霞む。
彼は一介の戦士として剣を振るうつもりだった。だが今、知らぬ間に一軍の将へと祭り上げられている──しかも虚構の上で。
「おい、ミオネル……こんな話、聞いていないぞ」
低く、喉奥から絞り出すような声。
だが、隣のミオネルは涼しい顔のままだ。青白い灯りが頬を撫で、薄い笑みを際立たせる。
「軍略ってのはね、時にこういう搦め手を使うもんなんです。それに、あなたはマリーちゃんの指示でここに来たんでしょう? あの子の軍略に従うってことは、こういうことですよ」
唇の端を持ち上げ、くすくすと笑う。
その無邪気さがかえって底知れぬ冷たさを伴い、メシュードラは背中に走った悪寒を抑えられなかった。
──軍師とは、これほどまでに人を駒として動かす生き物なのか。
*
一同の意向は、迷いなく定まった。
軍権を──シュトルム・デュパンに預ける。
ケールスの戦場でも、スケイグからの撤退戦でも鬼神のごとき剣を振るい、その背で兵たちを生還へ導いた男。しかも、王からの信任を示す手紙まで携えている。少なくとも、無謀な姫君の命令に従い破滅へ向かうよりは、はるかに魅力的な選択肢だった。
石造りの広間は、冷えた空気の中にも決断の熱を孕んでいた。燭台の火がゆらゆらと壁に影を描き、椅子の背にかかる各人の影が微かに震えている。
誰もがその場の空気を吸い込み、心中で何かを覚悟していた。
「それでは──これより国王派の軍権は、私、シュトルム・デュパンがお預かりします」
低く響く声が、石壁に反射して幾重にも重なる。
「姫様も、それでよろしいですね」
視線が一斉にシルフィーアへと注がれた。
姫は唇を強く噛み、頬は紅潮し、瞳には大粒の涙がきらめいている。本心では、喉まで出かかった反論を押し込めているのが見て取れた。
だが、父の遺言と家臣たちの一致した意志の前に、彼女は拳を膝の上で握り締めたまま、小さく頷くしかなかった。
「……わかりました。でも──その代わり……」
その声音には、わずかに震えと、刃のような硬さが同居していた。
「その代わり……なんでしょうか?」
メシュードラはわずかに眉を動かし、静かに問い返す。
「ギャブレクと……ギャレンは、私に討たせなさい。これだけは……譲れません」
広間の空気がぴたりと止まった。
その一言には、父を奪われた娘の燃える執念が凝縮されていた。理よりも感情が先に立つ、向こうっ気の強さ。
メシュードラは、内心で深くため息をつきながらも、恭しく膝を折った。
「もちろんです、姫様。彼の逆賊二名は、必ずや姫の御前に引きずり出してみせましょう」
そう言って頭を垂れながらも、その瞳の奥では別の計算が渦巻いていた。
これで国王派軍の指揮権は完全に自分の手に落ちた。だが、本当の苦難はこれからだ。三倍を超える敵軍を相手に、兵力も士気も削られた状態で戦わねばならない。
頼れる戦術参謀はミオネルひとり──その才覚がどこまで通用するかは未知数だ。
それでもやらねばならない。
ヤマトがヤドックラディとの決戦に勝つために。
砦の外では、風が谷を抜け、遠くで戦雲の気配を運んできていた。
*
ともかく次の一手を打たねばならない。それも、猶予などないほどに早急に。
すでにスケイグは宰相派の掌中に落ちた。王都を失ったという現実は、国全体の象徴を奪われたに等しい。これでシュカリラ王国全土は、いまや連中の影に覆われてしまったのだ。
しかしまだ、すべてを諦めるには早い。シルフィーア姫が無事であり、なおも抵抗の意志を示し続けている限り、宰相派とて容易に統治は果たせぬだろう。民草の心には、王権を簒奪した者への疑いと憤りが渦を巻いているのだから。
「まずは混沌をまき散らしましょう。国を乱し、戦いは終わっていないと知らしめるのですわ」
広げられたシュカリラ全土の地図。その上を指でなぞりながら、ミオネルは愉悦を含んだ声音で語った。彼の目は不気味なほど澄んでいて、炎のように明滅する思考が透けて見える気がした。
ここはガイル砦の作戦室。厚い石壁に囲まれ、外は風の音すら届かない。燭台の火がゆらめき、影を大きく揺らす中で、メシュードラはミオネルと向かい合っていた。
今や頼れるのは、この男の頭脳ただひとつ。そう自らに言い聞かせながらも、心の奥底では、彼の底知れぬ笑みに戦慄を覚えずにはいられなかった。
「そのために、具体的に何をする?」
「ギャブレク様の本拠地はクオラ。彼は宰相であった頃からこの街に資金を投じ、一大拠点を築いてきましたの」
ミオネルの説明は冷ややかに、しかしどこか楽しげに続く。
──ギャブレクは自領のクオラ城に流通の要を置き、有力商人を呼び寄せ、富を吸い上げ続けてきた。その間、王都スケイグは衰退の一途をたどり、街並みはかつての活気を失って久しい。産業は衰え、若き労働力は次々とクオラへ流れ去った。もはやスケイグは、王が座するだけの空虚な政治の器に過ぎない。
「やがてギャブレク様は、クオラへの遷都を目論むでしょうね」
「な……なんと。それではシュカリラの伝統が断ち切られてしまうではないか」
「ええ、ですが──人心を新たに縛り直し、過去を忘れさせる手段としては有効なのですよ。遷都とはね」
「ならば、何としてもそれだけは阻止せねば……」
胸の奥で怒りが膨らみ、メシュードラは拳を握り締めた。脳裏に浮かぶのは、王都を作り上げ、支えてきた数多の人々の姿。その歴史を、誇りを、彼らの勝手に塗りつぶさせてなるものか。
「ですから、クオラ周辺を荒らしましょう。衛兵を襲い、道を封じ、街に不安と恐怖を満たすのです。混乱を──大いに……ね」
ミオネルの声は、妙に甘やかな響きを帯びていた。
「乱す……?」
そう呟くメシュードラに、彼は唇の端をわずかに吊り上げて見せる。
──ゲリラ戦。それが彼の示した答えだった。
ガイル砦を拠点に、敵の心臓たるクオラをじわじわと締め上げる。正面からの戦いに勝算がない以上、闇に潜んで牙を剥くしかない。
メシュードラは深く息を吐き、胸に広がる重苦しい予感を振り払おうとした。
だが同時に、心のどこかで悟ってもいた。
──この男の策に賭けねば、未来は閉ざされる。
お読みくださり、ありがとうございました。
ベネディクト・フォーセインの手元には、これまで受け取ってきた数十通の書簡がすべて保管されています。
中には各国の国王から受け取った封蝋付きの手紙も含まれていました。
さらに彼は、あらゆる文書や書簡を資料として収集し、蓄積してきました。
それは単に情報を保持するためだけでなく、今回のように偽造文書を作成するための資料としても活用するためでした。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。