第134話 廃砦の邂逅
ガイル砦は、ダレウモアとヤドックラディの国境を隔てる険しい山岳地帯に、灰色の影のように佇んでいた。切り立った岩壁の上に築かれたその砦は、百余年前、ダレウモアとの領土を巡って血を流し合っていた時代に、シュカリラの北西防衛線の一角として築かれたものだ。
当時、砦の壁は幾度も矢と火を浴び、門前の地はオウガの残骸で埋まったという。しかし両国で王が代替わりし、新たな国境線が引かれると、その役割は急速に薄れていった。その後、砦はなお十年あまり兵を置き、形ばかりの警戒を続けたが、やがて駐屯の火は完全に消え、ここ数十年は人の声ひとつ響かぬ廃墟となっていた。
岩石と鋼鉄で固められたその構造は、オウガ戦を想定して作られているだけに、今もなお崩れ落ちることなく聳えている。だが、井戸は涸れ、炉には煤がこびりついたまま、屋根裏の梁には巣を張った鳥の影が揺れていた。かつての生活の匂いはすべて風に削がれ、代わりに乾いた石の匂いと、苔の湿った匂いだけが漂っている。
「……ここが、ガイル砦……」
城門を潜った瞬間、百三十二機のオウガは一斉に駆動音を落とし、広い郭内がわずかに吐息を漏らすような静寂に包まれた。長旅で張り詰めていた緊張が、石壁の影の中でほんの少しだけ緩む。
「シュトルム殿、ここにお仲間が居られるのですか?」
声を掛けたピルムの眼差しには、期待と同時に、見知らぬ廃砦への警戒が色濃く滲んでいた。
「……いや、おそらくまだでしょう」
シュトルムは答えながら、乾いた風の中に、かすかな焦りを飲み込む。
「予想より早く事態が進んでしまいましたから……」
その瞳は、廃墟の奥の闇を貫くように細められていた。
メシュードラはピルムと並んで砦内の回廊を進んだ。
石造りの壁は冷たく、足音が低く反響しては、やがて奥の闇に吸い込まれていく。壁の継ぎ目には風が入り込み、乾いた砂塵と古い鉄の匂いを運んできた。廃墟のはずの砦に、人の気配──しかも食事の香りまで漂ってくるのは、どうにも現実感が薄い。
二人は居館の前で立ち止まり、重く錆びた扉を押し開けた。
途端に、外の冷気とは別の、かすかな湯気と温かな匂いが顔に触れる。
「お待ちしておりました、皆様。お食事の用意ができておりますよ。さあ、どうぞ」
出迎えたのは、一人の男だった。
礼儀正しく深々と頭を下げ、その所作は舞台の俳優のように滑らかだ。しかし、妙に柔らかな動きと、うっすらと施された化粧、しなを作る視線──それらは男性としての輪郭を曖昧にしていた。
ピルムの眉がかすかに動く。だが、今はそんな細部に気を取られる場合ではない。一昼夜の行軍で兵たちはすでに限界に近く、腹の虫の音すら抑えきれぬ状態だ。食事の用意があるとあれば、迷う理由はない。ピルムは早速へ皆を呼びに駆け出した。
「貴様、何者だ?」
この場に残ったメシュードラの声は低く、砦の壁を揺らすように響いた。
「御味方ですよ、メシュードラ様……おっと、こちらではシュトルム様でしたね」
男は軽く笑みを浮かべた。
「もしや、軍師殿の使いか?」
「そうです。私はミオネル。これでもベネディクト翁の孫弟子なんですよね~。マリーちゃんがいきなりクルーデと戦うから手伝えって呼び出されましてね、それでクルーデの砦に潜り込んで裏切り者をスカウトしたり、軍容を調べたり……まーこき使われましたわ。それでクルーデのとこでの仕事が終わったら、今度はこの砦を使えるようにしろって。私の方が年上なのに、マリーちゃんったらほんっと人使いが荒いんだから……あの子ったら昔っからそう! そう言えば十歳のお誕生日でも……」
その口は滔々と愚痴を紡ぎ続ける。
滑らかな口調と表情の変化に、ただの情報屋以上の場慣れを感じさせるが、不思議と嫌味がない。
メシュードラは、ふっと息を洩らすように笑った。
なるほど──マルフレアがいかに超人的な頭脳を誇っても、全てを一人で動かせるはずはない。きっと彼女は祖父の人脈を駆使して、ミオネルのような者を幾人も抱えているのだ。
話を聞く限り、この砦に手を付けたのはクルーデ戦の前から。すべては彼女の周到な布石のひとつ。
メシュードラは改めて思う──マルフレア・フォーセインという軍師の底は、まだどこまでも深いのだと。
*
「芋とパンとスープだけですけど、おかわりはたっぷりありますから、じゃんじゃん食べてくださいね~」
エプロン姿のミオネルは、まるで戦場など忘れたかのような笑顔で給仕していた。大鍋の湯気が立ち上り、香ばしいパンの香りが石造りの広間に満ちていく。
その傍らでは、部下らしき十名ほどが忙しなく動き回っていた。鍋をかき混ぜ、器を並べ、空になった皿を片付ける。足音と食器の触れ合う音が、静まり返っていた廃砦を不思議なほど賑やかにしている。
彼らは半月以上も前からここに入り、兵站拠点として物資を運び込んでいたという。食料、寝具、医薬品、オウガ修復用の触媒、予備の武器──あらゆる品が整然と積まれ、その背後には彼らが動かす四機のオウガが控えていた。
無骨なコンテナに満載された物資は、まるで戦の影など寄せつけぬほど規則正しく積まれている。戦場の混沌とは対極の、周到な準備の匂いが漂っていた。
「いやぁ、シュトルム殿。本当に助かりました」
ピルムは両手を胸の前で合わせ、頭を下げる。その目は潤み、声には安堵が混じっていた。
「なにしろ行き先などまったく考えていませんでしたからな。何と礼を申し上げたらよいか……」
メシュードラは、目を細めて彼を見やった。
おそらく善良な人物なのだろう。しかし、その善良さは戦場では無防備さと同義だ。きっと、姫に請われるまま参戦し、何の備えもなく進軍したのだろう。敗走の後、この砦で救われるまで、彼は本当に途方に暮れていたに違いない。
「現在こちら側の軍勢は百三十ほどですが、当初はどれほど居たのですか?」
「はい。姫様のもとに集まった騎士たちは、当初二百五十を超えておりました。宰相側に付いたのは六百以上……こちらの劣勢は明らかでしたが……」
「しかし、二百五十もあればスケイグに籠城という手もあったと思うのですが、なぜ野外決戦を?」
メシュードラの声には、冷静な疑問と、薄く滲む苛立ちがあった。敵が二倍以上いる状況で籠城せず出撃するなど、常道からすれば愚策に等しい。援軍が望めなくとも、城を背にした戦なら長期化もできる。そうなれば世論は必ず攻め手に不利に働く。そうなれば外交の場で活路が開けたはずだ。少なくとも、ここまでの惨敗には至らなかっただろう。
「それは……姫が……」
ピルムは言い淀み、パンを頬張る姫の方へ視線を投げた。
頬を膨らませ、次の一口をもぐもぐと噛みしめるその姿に、戦略の影は微塵もない。だが、それ以上言葉を継がずとも事情は察せられた。──敵が迫ったことで血が騒ぎ、何の策もなく突撃を命じたのだろう。そして、その勢いに押されるように国王軍全体が飛び出してしまったに違いない。
「それで百機以上のオウガを失うとは……」
メシュードラは低く呟き、苦々しい表情で首を振った。
姫には戦略という言葉がない。ピルムをはじめとする側近たちは、必死に諫めてきたのだろう。だが、彼女の血気はそれをすり抜け、耳を貸さぬまま突進したのだ。
(この姫を勝たせるのは……至難の業だ)
パンを千切る手の向こうで、姫の笑顔は無邪気だった。だが、その笑顔の裏にある無計画さが、どれほど多くの命を呑み込んだかを、メシュードラは歯がゆく思った。
「シュトルム、今日の働きは見事でした」
シルフィーアの声は、戦の疲れを感じさせぬほど張りがあった。
「先ほども申しましたが、スケイグに帰還した暁には、いくらでも恩賞を取らせましょう」
「ははっ、ありがたき幸せ」
シュトルムは浅く頭を下げたが、その眼差しはどこか冷ややかだった。
「それで、ピルム。明日には出撃できそうですか?」
「は……明日……でございますか……」
石造りの広間に一瞬、重い沈黙が落ちた。
恐るべきことに姫は、潰走し、たった今安息を得た軍に再び剣を取らせようとしている。しかも何の策もなしに。
返事を探して口を開きかけては閉じるピルムの姿が、あまりにも痛々しかった。
「出撃とは勇ましい限りですが……」
メシュードラは声を低くして口を挟んだ。
「味方の兵が半数近く失われたこの状況で、姫にはどのような策がお有りなのですか?」
シルフィーアの表情がわずかに硬直する。これまで彼女の命令に真正面から異を唱える者はいなかった。そう──この男を除いては。スケイグでも逆らい、しかも王女たる自分の頬を打った唯一の存在。記憶が蘇った瞬間、腹の底から怒りが込み上げた。
「策など必要ありません。我らには正義があります。強き心で立ち向かえば、ギャブレクの軍なぞ恐るるに足りません」
「……それで味方が全滅し、姫は囚われの身となる。大した策ですな」
その吐き捨てるような言葉に、場の空気が凍った。
ピルムも側近たちも息を呑み、視線を交わす。
「無礼な!」
シルフィーアは感情のままに手を振り上げた。しかし、その手首は寸前でがっしりと掴まれる。
「いい加減になさい」
メシュードラの声は低く、石壁に反響して重く響いた。
「あなたの無謀な突撃で、一体どれほどの兵が失われたか。兵は王を守り、支えるもの。決して姫の玩具ではありません」
「な……なんですって! 一体あなたに何がわかるっていうの! 父を殺され、国を奪われた私の──」
そこでシルフィーアの声が途切れた。
唇はまだ何かを言おうと震えているのに、言葉は出てこない。
石造りの広間に、外の風がすきまから吹き込み、燭台の炎がわずかに揺らいだ。
ふと、脳裏に焼き付いた光景が甦る──。
病の床に伏し続ける父王の細い肩。枕元に置かれた湯気の立つ薬湯。
日に日に痩せ、声すら出せなくなっていくその姿を、ただ傍らで見守るしかなかった日々。
あのときはただ、病魔の仕業だと信じていた。
けれど──王が旅立った夜、耳にした衝撃の告白。
父の衰弱は病ではなく、宰相ギャブレクが密かに盛り続けた毒によるものだった、と。
あの湯気の奥に、香の陰に、死が潜んでいたと知った瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。
怒りと悔しさと、取り返せぬ喪失感が渦を巻き、今もなお息を詰まらせる。
静寂が長く伸びたかと思うと、ついにその瞳から大粒の涙がこぼれた。
怒りと悲しみが絡み合い、頬を伝って落ちるたびに、炎の光を反射して儚く揺れていた。
胸を締めつけるその記憶が、今も熱となって喉に詰まる。
静寂が長く伸びたかと思うと、ついにその瞳から大粒の涙がこぼれた。
怒りと悲しみが絡み合い、頬を伝って落ちるたびに、炎の光を反射して儚く揺れていた。
その無念を、誰が計り知ることができようか。だが、彼女の感情に任せた采配は、やがて国王派全滅という結末へと直結する。メシュードラにとって、それは任務の失敗を意味した。
「姫の無念は、痛いほど分かります」
メシュードラは手首を離し、その目を真っ直ぐに見据えた。
「なぜなら、私はギャスパル王にあなたを託されたのだから」
その言葉に、広間がざわめいた。
シルフィーアも、ピルムも、側近たちも、信じられないものを見る目をしている。
戦場に颯爽と現れた無敵の剣士が、ギャスパル王自らの命によって召喚された存在だなど、誰一人として想像すらしていなかったのだ。
お読みくださり、ありがとうございました。
ベネディクト・フォーセインは、いずれマルフレアが独立する日のために、見込みのある弟子たちへ協力を要請する書簡を準備していました。
その書簡は、マルフレアが弾九郎の家臣となった時に発送され、やがてミオネルのような弟子たちの手に渡ったのです。
弟子たちの得意分野は実に多岐にわたり、戦略や戦術に長けた者、政略に精通する者、諜報や情報戦の名手、兵站を含むロジスティックの達人、さらに内政や法整備、行政機構の構築、金融、財政、経済に至るまで、各方面の専門家が揃っていました。
当初から弾九郎を中心とする国の建国を想定していたマルフレアは、彼らの力を借りつつ、国を形作ろうとしているのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。