第133話 隘路の騎士
シルフィーア姫と別れ、隘路の中央に立ち続けて二十分ほど。
街道から迫る重低音が、岩壁を震わせ始めた。陽炎の向こう、曲がり角から鉄の巨影が次々と現れる。陽を反射して眩く光る装甲。先頭は二十機ほど、全員が槍や剣を構え、岩肌を蹴って駆け上がってくる。
「……まずは、先陣を片付けるか」
ガレランが背中から長剣を引き抜く。白銀の刀身が真昼の太陽を受け、まるで稲光のように瞬いた。
「いたぞ! 一機だけだ! 国王派のオウガだ!」
隘路を駆け上がってくる敵影。巨体の足音が地面を震わせ、鉄板同士が擦れる耳障りな音が谷間に響く。岩肌を掠める日差しが、彼らの装甲をぎらつかせた。
先頭の一機が槍を構え、獣のような咆哮をあげて突進してくる。
その瞬間、ガレランが踏み込み、長剣が白光を放った。
横一閃──刃は空気を裂き、敵の首部を厚い装甲ごと断ち切った。金属が軋む音と共に頭部が宙に浮き、油煙を吹き上げながら地面に転がる。
先方が崩れた瞬間、隊列全体に生まれるわずかな間。
メシュードラはそれを見逃さない。
刃を返し、後方から迫る二機の胸部装甲をほぼ同時に貫く。鋼が裂ける高音、油の噴き出す音、そして巨体が崩れる衝撃が狭い隘路を震わせた。
──違う……まだ足りない。この程度では……あの弾九郎殿の足元にすら及ばない……。
戦いながらも、脳裏に焼き付いて離れない光景があった。あの日、己を支配した記憶──クルーデと弾九郎の一戦。
──あの時の弾九郎殿の動き。羽毛のようにしなやかで、鋼のように力強く。刃筋は繊細にして寸分の狂いもなく、振り下ろす一撃には山を割るような剛直さがあった。どれもこれも、今の自分では到底届かない。
一体、どれほどの研鑽を積めば、あの領域に辿り着けるのか……行きたい。あの領域へ。あの高みへ……。
クルーデと弾九郎の一騎打ち──それは、まさに伝説として語られる戦いだった。
万夫不当の豪傑と、刃を携えた猛獣の邂逅。見た者すべてが息を呑み、武を志す者なら誰もが魂を震わせた。
その影響はメシュードラだけではない。ヴァロッタも、ツェットも、クラットも、ライガも──武を求める者なら誰しもが憧れる、神々しいまでの強さだった。
あの日から、彼の稽古は変わった。目指すべき目標を得て、果てしなく遠いゴールを胸に刻み、己をひたすら鍛え続ける。
きっと、他の者たちも同じだろう。あの戦いを境に、彼らの眼差しには鋼のような光が宿りはじめていた。
(弾九郎殿なら……この状況、どう捌く?)
飛びかかる敵の刃を受け、薙ぎ払いながら、メシュードラは自らと対話する。
今、この刹那だけでも自分を弾九郎に重ね、その剣をなぞるように振るう──まるであの高みに、少しでも近づくために。
「バ、バケモノだ! 全員距離を取れ!」
残った敵が半歩引く。狭い隘路に、彼らの恐怖と熱気がこもる。
「な……何者だ!」
隊長らしき男の声が震える。
「ああ……我が名はシュトルム・デュパン」
「それほどの腕を持ちながら、なぜ宰相殿に刃を向ける!」
「……さあな。御託はどうでもいい。かかってこい」
不機嫌そうに手招きするが、誰一人動けない。油と血の匂いが混ざり合い、虫の声すら届かぬ沈黙が降りる。
「なんだ……かかってこないなら俺は行くぞ。もし気が変わったら追ってこい。いくらでも相手してやる」
その言葉は、刃より鋭く彼らの心を抉った。
姫を追わねばならない。しかし、その先には、この化物が待っている。
足止めとしては十分すぎる。追撃隊は本隊と合流するまで動けまい──そう踏んだメシュードラは剣を肩に担ぎ、ガレランの踵を返す。
真昼の陽光を浴び、悠然と山道の奥へ消えていくその背中に、誰一人として追いすがる者はいなかった。
*
「シュトルム殿! ご無事でしたか!」
日が完全に西の山に沈み、空の端が群青に染まった頃──。
山道を抜けた先の平地で、シュトルムの巨影が一行の前に現れた。
岩肌の向こうからゆっくりと現れるその姿は、昼間よりもなお大きく、重々しく見えた。脚部には砂塵がこびりつき、肩や腕には敵機の破片や擦過痕が刻まれている。それが、彼が本当に一人で後方を押さえ、道を繋いだ証だった。
シルフィーアは胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
最初に出会ったとき──礼儀知らずで粗暴な男としか思えなかった。無遠慮に言葉をぶつけ、時には己を叩くことすらためらわない。しかし今、その背に積もった傷跡と、疲労を隠して立つ姿を見れば、彼がどれほどの覚悟であの隘路に立ち塞がったのかが痛いほど分かる。
国王派の兵たちは皆、息をつき、互いの肩を叩き合った。ほんの一日で、メシュードラは彼らにとって揺るぎない拠り所となった。あの戦場で見せた強さと胆力が、そのまま信頼に変わっていた。
「ピルム殿。ここまで来たのなら、多少速度を落としても大丈夫でしょう。敵との距離は相当離れましたから」
低く落ち着いた声。そこには勝利の昂ぶりも慢心もない。
追撃隊は、あの場で完全に足止めされている──そう彼は読み切っていた。もちろん、行き先を探る斥候が放たれたことも計算済みだ。街道の分岐に潜み、それを討ち取ると、わざと目的地とは逆の方角へ十キロも担いで運び、廃墟に置き去りにした。その一手が、追撃の目をさらに遠ざける。
「ご苦労様でした、シュトルム。今はなにも差し上げられませんが、スケイグに凱旋した折には、いくらでも褒美を与えましょう」
「ありがたき幸せ。それはさて置き──姫様も少しお休みを。朝から戦い詰めでお疲れでしょう」
そう言って、シュトルムはガレランを低くしゃがませた。
エステリアームと向かい合わせになった瞬間、シルフィーアはわずかに息を呑む。まるで「身を預けろ」と言われているようだった。
オウガの行軍では、休憩を挟まず進む場合、仲間を交互に背負って進むことがある。背負われた者はシリンダー内で休眠モードに入り、脳と神経を休ませることができる。速度はやや落ちるが、体力は格段に回復する。
姫はしばし逡巡した。
しかし──この背中は、あの隘路で敵の奔流を一身に受け止め、なお前に進ませてくれた背だ。拒む理由は、もはやなかった。
静かにオウガを寄せ、連結の音が響く。
その瞬間、わずかな揺れと共に、全身が安らぎに包まれた。
硬質な戦場の空気が遠ざかり、代わりに、不思議な安心感が胸を満たしていく。背越しに感じるのは、重く安定した心臓の鼓動──そして、自分を守り抜くという無言の誓い。
こうしてエステリアームはガレランに背負われたまま、夜の街道を進んだ。
頭上には星が瞬き、遠くで山風が梢を鳴らす。砦までの道のりはまだ遠いが、その背の温もりが、不思議と距離を短く感じさせた。
軍は一晩中進み、夜が白みはじめた頃──ようやく、古き石壁を持つガイル砦の姿が、朝靄の向こうに現れた。
お読みくださり、ありがとうございました。
山岳地帯は、かつてダレウモアとの国境紛争の際に無計画に整備された結果、織物のように複雑に入り組んでいます。
メシュードラの機転によって逃走路を見失った追撃隊は、その時点で追撃を断念しました。
敗北した際の退避先としてガイル砦を選定したのはマルフレアですが、その理由は追撃が困難である点を重視していたからです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。