第132話 スケイグ脱出
国王派のオウガ百三十二機が、城門をくぐり終えると同時に、分厚い鉄扉が軋む音を響かせながら閉じられた。
外では、宰相派──ギャレン率いる軍勢三百二十機が包囲の陣形を整えつつある。
ケールスでの死闘は双方に血を流させたが、数の差は依然として歴然。しかも、宰相派の総帥ギャブレクが率いる二百機の本隊が加われば、その差は絶望的なまでに広がるだろう。
城壁の下から見上げる空は低く曇り、戦場の土埃と焦げた鉄の匂いが、まだ城内にも漂っていた。
「シュトルム殿──此度のご助力、誠に感謝申し上げます」
副官ピルムが深く一礼する。
ガレランから降り立ったシュトルムことメシュードラは、騎士の礼でそれを受けた。
「まさか既に戦が始まっていようとは。私は姫の檄に応じ、力を尽くす覚悟で参りました。ひとまず、お力添えできたことを嬉しく思います」
穏やかな口調だったが、その瞳はまだ戦場の熱を宿していた。
だが、次の瞬間──。
パンッ。
乾いた音が石造りの広間に響く。
振り向けば、鎧姿のシルフィーアが真っ直ぐ立っていた。
白い頬は怒りで紅潮し、握った手の指先までわずかに震えている。兵たちは息を呑み、互いに視線を交わした。
窮地を救った相手に対してあまりに非礼──だが、その激情は、彼女が姫であるがゆえのものか。
「よくも……仇討ちの機会を奪ったわね!」
シュトルムは驚きもせず、頬を軽く撫で、淡々と返した。
「機会などではありません、姫。槍が届くより先に、貴女は仇の捕虜となっていました」
その言葉は、戦場を見た者なら誰もが否定できぬ事実だった。
あの場で彼が割って入らなければ、今ごろ姫は鎖に繋がれていただろう。
しかし──。
「お黙りなさい! 次に私の邪魔をしたら……その時は容赦しないわ!」
鋭い眼差しが、矢のようにシュトルムの胸を射抜く。
だが彼はまるで怯まず、その視線を受け止めたまま、静かに口を開いた。
「承知しました。そのお言葉、胸に刻みましょう──それで、この城をいつ発ちますか?」
「出る? スケイグを? 馬鹿なこと言わないで!」
シルフィーアの声は怒気を帯び、鎧の肩飾りがわずかに震える。
「こうなったら、城に籠もってギャブレクを討つに決まっているでしょう!」
副官ピルムが一歩進み出る。眉間には深い皺が刻まれ、その声は冷徹だった。
「恐れながら姫様──我らの手勢だけではスケイグを守り切れません。百三十二機では、十二の城門を同時に守ることは不可能。シュトルム殿が申す通り、脱出が唯一の策かと」
スケイグはシュカリラ最大の都市であり、三十万を超える民が暮らす。だが、その城壁は堅牢とはいえ、城門は脆い。二箇所を同時に攻撃されれば、わずかな時間で市街は戦場になる。
それを理解していながら、シルフィーアは首を横に振った。
「いやです! 私はスケイグを離れません! ここを見捨てれば、姫としての責務が……!」
その声は次第に震え、悲鳴にも似ていた。王なき今、姫までもが城を去れば、王家の威は地に落ちる。それだけは、どうしても受け入れられなかった。
だが──。
パンッ。
鋭い音が広間に響いた。
手を上げたのはメシュードラだった。だがその目は怒りではなく、揺るぎない冷静さをたたえている。
「いい加減になさい。姫様がここに留まれば、街が戦場になるのですよ! 王の責務とは、市民を犠牲にしてでも果たすものだと、お父君は教えたのですか?」
その一言は、彼女の胸に鋭い楔のように突き刺さった。
「そ……それは……」
「シルフィーア姫、今すぐご決断を。一度スケイグを離れ、体制を立て直すか──この街と民を焼いて共に滅びるか」
沈黙が広間を包む。兵たちは互いに目を合わせ、やがて小さくうなずいた。ピルムもまた、その二択以外は残されていないことを悟っていた。
そして、姫も。
「……わかりました。スケイグを離れます。ピルム、全軍に伝えなさい。北門から脱出します」
「承知いたしました。──行き先は?」
「そ、それは……」
予期せぬ事態に、ピルムたちの思考は次の一手へと進めずにいた。脱出して他の街を目指すべきか、それとも身を潜めて機を待つべきか──結論は出ず、言葉は途切れがちになる。その沈黙を断ち切るように、再びメシュードラが一歩前へ踏み出した。
「北西の山岳地帯、ヤドックラディとの国境近くにあるガイル砦。そこに私の仲間が物資を運び込む手筈です。ひとまずそこへ」
その地名に、兵たちの間で小さなざわめきが起こる。あまりにも手回しが良すぎる。義勇兵の立場で知り得る情報ではない。
ピルムが目を細める。
「シュトルム殿……貴殿は一体……?」
「私は一介の兵に過ぎません、ピルム殿。ただ、勝つための準備は怠らない主義でして。まさか、こんなにも早く役立つとは思いませんでしたが」
「……わかりました。それではガイル砦へ向かいましょう。シュトルム、礼を言います。私は──危うく取り返しのつかない選択をするところでした」
「聡明な姫であれば、きっとご理解いただけると信じておりました」
「いいでしょう。先ほどの無礼は水に流します。ただし──この戦いで、必ずそれに見合う働きを見せること」
「ははっ、承知いたしました」
短いやり取りの中で、互いの視線が火花を散らす。
その直後、シルフィーアの決断は広間に伝わり、方針は一気に固まった。ピルムは踵を返し、全軍に脱出準備を急がせる。
北門の外では、まだ見ぬ戦いの気配が風に混じり、じわりと迫っていた。
*
スケイグ入城から二時間も経たぬうちに、北門の重い閂が外され、軋む音とともに開かれた。
夏の陽は容赦なく照りつけ、街道の石畳を白く焼く。陽炎が地面の上で揺らぎ、遠くの山々さえ霞ませている。
先頭を駆けるのは、副官ピルムが操る青銅色のオウガ、アダラード。その背後、黄と青と白の鎧に陽光を反射させながら、シルフィーアのエステリアームが続く。
彼女は脱出の直前、再び城に戻り、玉璽と王冠、王家の書簡、その他すべての重要文書を抱えてきた。胸当ての下でそれらの重みが脈打つたび、姫としての責務の鋭い棘が心を刺す。
それらを握っている限り、ギャブレクがどれほど奸計を巡らせようとも、王位簒奪は容易ではないだろう。
「ガイル砦は全速で駆ければ一日半……どうか、お急ぎを」
ピルムの声が響く。
背後では、すでにギャレンの部隊が追撃を開始していた。数は不明だが、先の戦での損耗を差し引いても、こちらの数は下回らないだろう。
街道を疾走する国王派の機影は、土煙を上げ、夏草の香りを乱暴に蹴散らす。だがその背後からは、重金属が地を叩く低い振動と、耳の奥を揺さぶる戦太鼓のような足音が、じわじわと距離を詰めてくる。
オウガは無尽蔵の力で動き続けられるが、操縦者の肉体はそうはいかない。搭乗者は省エネのため仮死にも似た半覚醒状態に固定されているとはいえ、脳は常に警戒を続け、神経は研ぎ澄まされっぱなしだ。疲労が臨界に達すれば、意識が途切れ、機体はただの鉄の棺になる。
今この列にいる者は、全員が早朝から命のやり取りを続けてきた兵士たちだ。丸一日半、無傷で走り切るなど、ほとんど奇跡に等しい。
やがて山岳路の入口に差しかかったとき、街道はぐっと狭まり、両脇の岩壁が影を落とした。空の蒼さが切り取られ、谷底の風が肌を冷たく撫でる。
「──この辺りで、私が敵を引き受けます。姫様は先をお急ぎください」
メシュードラの声は凪いだ水面のように落ち着いていた。
「引き受けるって……あなた一人で!?」
「ええ。両側が壁ですから、側面からの攻撃は心配いりません。先頭を叩き、進軍を足止めします」
確かにここは隘路、機体が並んで進むこともできず、数の利が殺される地形だ。しかし、それでも次々と押し寄せる敵を、たった一機でどれだけ防げるというのか──。
「姫、ここはシュトルム殿にお任せしましょう。このままでは追いつかれます!」
「……わかりました。でも、シュトルム──死んではいけません。必ず生きて戻るのですよ」
「ははっ!」
力強い返事に、妙な確信と底知れぬ気配が混じっていた。
やがて列から離れたメシュードラのガレランが道の中央に立つ。夏の陽を浴び、濃灰の装甲が刃のように光る。
静かに息を整え、両の手で剣を構える。その姿からは、ただ一つの意思──この先、一兵たりとも通さぬという鋼の誓いが、熱を帯びて放たれていた。
お読みくださり、ありがとうございました。
ケールスでの戦いがいずれ起こるであろうことは、ピルムたちも予想しておりました。
国王派の当初の戦術は、スケイグに籠もって迎え撃ち、敵の疲労を待って反転攻勢に出るという、慎重かつ消極的なものでした。
ところが、ケールスに敵影を確認した途端、シルフィーア様が独断で特攻を仕掛けてしまい、その勢いに引きずられる形で戦闘が始まってしまったのです。
そのため、ピルムたちはスケイグを放棄するという事態を、まだ想定してはいなかったのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。