第129話 十七歳の姫騎士
「もはや決戦は避けられず、開戦まで秒読み段階に入ってます」
マルフレアは窓辺に立ち、差し込む朝陽に背を向けながら、淡々と告げた。だが、その口調の静けさに反して、言葉が孕む意味はあまりにも重い。
地図上で言えば、シュカリラはヤドックラディの隣国。すなわち、ヤマトとも直接的な影響を受けかねぬ距離にある。もしその地に内紛が勃発すれば、ヤマトはただ傍観者ではいられなくなる可能性もある。
「シュカリラは、もとより宰相のギャブレク様が国政を壟断し、国王の側近達と対立しているとは聞いていましたが、事態がそこまで逼迫しているとは……」
メシュードラの声にはわずかに陰が差していた。かつて彼が仕えていたアヴ・ドベックも、シュカリラと国境を接していた。その地の動静には常に目を配っていたつもりだったが、マルフレアの語る内容は、彼の予想を遥かに超えていた。
マルフレアは一枚の家系図を机に広げ、その上にそっと指を置く。
「シュカリラの国王、ギャスパル・ウォーカー陛下には、四人の御子がいらっしゃいました。しかし、成人に至ったのは三女、シルフィーア様ただお一人」
メシュードラの目に浮かんだのは、かつて噂に聞いた若き姫騎士の姿だった。
十七歳。金色の髪は陽光を浴びれば麦畑のように波打ち、透き通るような肌に宿る血色は、生の証をそのまま映していた。碧眼は泉に棲む女神を想起させ、その容姿はまさに「王国の希望」と称された。
だが、その美しさの裏に隠された気性は、いわゆる姫らしいそれとはかけ離れていた。
幼い頃から宮殿の壁を越え、庭を駆け、剣の錆となることすら厭わぬ意志を見せた少女。侍女たちが疲弊しながらも愛おしむその背中に、すでに戦士の影があった。七歳のとき、オウガ適性があると判明した瞬間、彼女は歓声を上げ、躊躇なく「剣の道」を選んだ。
幾人もの師のもとで鍛錬を重ねた末、今やスケイグの鬼姫として名を馳せるその姿は、国民の信仰にすら近い憧憬を集めている。
黄色と青と白の光を纏うオウガ、エステリアーム。その優美にして凛々しい姿は、シュカリラにおける「武」そのものであった。
「……もし、シルフィーア様のもとで宮廷が一枚岩となっていれば、シュカリラは揺るがぬ国となっていたでしょう」
マルフレアの声に、かすかな哀惜が滲む。
だが、その理想に立ちはだかったのが、ギャスパル王の実弟であり、宰相を務めるギャブレクだった。
政治への関心が乏しかった王に代わり、実質的に国政を動かしていたのは彼であり、彼の采配により国庫は先王時代の倍に膨れ上がったという。
ギャブレクは息子のギャレンを次期国王にと望み、そのために兄を口説き落とした。
その条件が「シルフィーアとギャレンの結婚」。
従兄妹同士の婚姻は、貴族社会ではさして珍しいことではない。血統、功績、そして政治的安定。すべての条件が揃っていた。王も、民も、誰もがそれを「当然」と受け入れるだろうと思っていた。
「ですが……シルフィーア様は、ギャレン様との婚姻を拒まれました」
その一言に、メシュードラの眉がわずかに動いた。
「……それは、一体どのような理由で? 王族であれば、婚姻に個人の感情が介入することはほとんどありません。しかもギャレン様は宰相の嫡男、歳もまだ若く、決して不釣り合いではないはず……」
彼の語気には、率直な疑念が混じっていた。
メシュードラも貴族の出身であり、自らの婚姻が政略に基づくものであることを、疑問に思ったことすらなかった。
ましてや、国の未来がかかっている以上、シルフィーアがそのような決断を下すことに、理解が追いつかないのも無理はなかった。
だがマルフレアは、わずかに目を伏せ、深く息をついた。
シルフィーアの選択。その裏に何があったのか。
それは、姫騎士が「剣を取る」者として、自らの尊厳と矜持に従って下した決断だった。
「シルフィーア様がなぜ結婚を拒まれるのか……推測できることはいくつかありますが、確たる証拠はありません。ですが、内乱の根は、まさにそこにあると見ています」
マルフレアの言葉は静かだったが、その奥にある確信の重さは、部屋の空気をひと際冷たく引き締めた。
窓の外では鳥たちの声が聞こえてくる。だが、その音すら遠く感じるほどに、室内は張り詰めていた。
「……そうですか。それで、私は一体、シュカリラで何をすればよいのでしょうか?」
メシュードラはすでに覚悟を決めかけていた。だが、あえて問うたのは、まだ心に一縷の迷いがあったからだ。
マルフレアは一歩、机へと近づく。並べられた資料の中から、王都スケイグの周辺を詳細に描いた地図を一枚引き出し、その上に指を滑らせるように置いた。
「国王派はシルフィーア様に、宰相派はギャブレク様に従っているとのこと。比率はおよそ三対七。……シルフィーア様の方が圧倒的に劣勢ですね。それでも、彼女は一歩も退く気はないようです」
メシュードラは息をひそめた。
十七の少女が、政治の潮流を押し返そうとしている。いや、押し返すのではない。斬り結ぶ覚悟で立っているのだ。
王女であり、戦士であり、ひとりの人間として。
「……どのような事情であれ、巻き込まれる民にとってはたまったものではありませんね」
憂いを含んだその言葉に、マルフレアは目を細めた。
その視線には、肯定でも否定でもない、ただ理解があった。戦とは、常に誰かの涙を代償に成立するものだから。
「現在、シルフィーア様は王都スケイグにて人材を集めています。対してギャブレク様は、ご自身の本拠地、クオラで傭兵を募集しているとか」
「……ならば、両者がぶつかるのは、その中間地点……」
メシュードラの言葉を待たず、マルフレアは広げた地図の一箇所を、ぴたりと指で押さえた。
「ここ。ケールスが戦場になると思います」
それはスケイグの東に広がる荒野だった。痩せた土壌、少ない水脈。耕作には適さず、ほとんど人の手が入らぬ地。だが、平坦で地盤が堅く、オウガ同士の戦においては好都合な地形だった。
しばし地図を見つめたまま、メシュードラは黙した。
そして、静かに口を開いた。
「……なるほど。つまり、私にその戦に参加せよと?」
「ええ。将軍には身分を隠し、密かにシルフィーア様の助力をお願いしたいのです」
「は? シルフィーア様の方を、ですか?」
思わず声が上ずる。いかにも無謀に聞こえる提案。だがマルフレアは、にこりともせず、むしろ当然のように微笑んだ。
「勝ちそうな側に恩を売っても、大して感謝はされません。ですが──負けそうな側に立って勝たせれば、助っ人の価値は比類なきものとなります」
「……は、なるほど……それは……否定できませんが」
重要なのは勝てるかどうか。敗れてしまえば恩の売りようが無い。そんな困惑を滲ませるメシュードラの反応にも、マルフレアは意に介さず、さらに淡々と、しかし確信をもって言葉を紡ぐ。
「将軍がシュカリラへ赴かれている間、私たちはラバスを落とします。そこを足場にしてヤドックラディと対峙し──いずれは全面戦争。その時にシュカリラ軍が後詰に回ってくだされば……互角以上の戦いができるのです。これが恩を売る理由」
それはまるで、今日の夕飯をどうするかを語るような口ぶりだった。
だが、その内容は正気とは思えぬ国家規模の野望だ。メシュードラの胸中には、ひやりとした感覚が走った。
……本当に、そこまでの計算を、すでに済ませているのか?
そう思わずにはいられなかったが、同時にメシュードラは、クルーデとの戦いで彼女が見せた鬼謀を思い出していた。
自分が戦場で考えるより早く、いや、自分が考える遥か手前で、マルフレアはすでに盤面を読み切っている。彼女の采配であれば、常識を覆す展開すら現実になる。
ならば、自分がすべきことは一つ──。
「承知いたしました。このメシュードラ、拙き身ながらも、命を賭してそのお役目、果たしてみせます」
彼は真っ直ぐに膝をつき、剣を抜いて胸の前に掲げた。
それは忠誠を誓う騎士の、古式ゆかしき敬礼であった。
その姿を見たマルフレアは、ふっと口元を緩めた。
その微笑には、戦略家の冷徹ではなく、彼に全幅の信を置く指揮官の顔があった。
「ありがとうございます。あなたなら、きっと引き受けてくださると信じていました」
陽が昇り始め、地図にかかる影を短くした。
その影は、やがてケールスに差しかかり、まるで未来の血煙を予兆するかのように、地図の一角を静かに染めていた。
お読みくださり、ありがとうございました。
シュカリラにおける国王派と宰相派の対立は、これまで水面下で進められ、表面化することはありませんでした。
ところが、ここ数週間の間に事態が急変し、両者の軋轢が一気に明るみに出ることとなりました。
そして両陣営はそれぞれの拠点において、戦争の準備を開始したのです。
マルフレアはクルーデとの戦いに備える一方で、周辺諸国の情報収集も怠らなかったため、この異変をいち早く察知していたのでした。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。