第106話 ヤマトからの使者
「カーツ様! お帰りなさいませ!」
初夏の陽を受けて金にきらめく石畳を駆けてきたのは、ファノナ・ルーク。まだ少女の様な幼さを残した顔が、笑顔でぱっと花開く。彼女の声が城門前に響いたと同時に、その細い体が勢いよく跳ね上がり、彼女の愛機、ハヴィーのような勢いでカーツに飛びついた。
「おいおい……!」
カーツは思わず苦笑した。戦場では冷静沈着な自分も、こうして無垢な少女に抱きつかれると、さすがに困る。だが、嬉しくないわけではない──そのことに、自分でも苦笑した。
「ファノナ! カーツ様に飛びつくな! 困ってらっしゃるでしょ!」
叱責の声と共に駆け寄ってきたのは、エスカ・エルショフ。彼女はファノナより二つ年上だが、長身で、背筋の伸びた立ち姿には既に女戦士としての風格が漂っている。普段は冷静なのに、今は頬をわずかに紅潮させている。
「出迎えはありがたいが、二人ともこの時間は哨戒任務のはずだろ?」
カーツが柔らかい声で問うと、二人は目を逸らし、気まずそうにあらぬ方向を見つめた。
「カーツ様のムスタが見えた瞬間、そろって持ち場を離れましてね。まったく、困ったものですよ」
呆れと諦めの混ざった声が背後からかかった。振り返れば、ラグナ・リンデルが歩み寄ってくる。整った顔立ちに鋭い眼差しをたたえ、カーツの腹心として頭角を現している。ラバス親衛隊の隊長で、人望も厚い。
「ファノナ、エスカ。だめじゃないか」
カーツの声音は、柔らかいが確かな重みがあった。
「任務をおろそかにすれば、周囲から信頼を失ってしまう。お前たちがいい加減な人間だと思われたら、私はとても残念だよ」
叱責ではなく、静かな諭しの言葉。だからこそ、ファノナもエスカも、そのまま抗弁せずに、しおらしく頷くしかなかった。名残惜しそうに振り返りながらも、二人は自らの持ち場へと戻っていった。
彼女たちの背中を見送りながら、カーツはふと心の奥に後悔が刺さった。
──少し、甘やかしすぎたかもしれない。そう思ったとき、胸にわずかな苦味が広がった。
だが、その内省の時間は長くは続かなかった。
「カーツ様」
いつになく硬い声に少し驚きながら、カーツは振り返った。ラグナの眉間に、深い皺が寄っている。
「戻られたばかりのところ申し訳ありません。お留守の間、少々、厄介なことが……」
その表情を見た瞬間、カーツの意識が鋭く研ぎ澄まされる。ラグナは、どんな緊急時でも容易く感情を露わにしない冷静な男だ。そんな彼が、ここまで困惑を隠しきれずにいる。──これは、ただ事ではない。
「……何があった?」
「昨日、ある男が城下に現れまして……自分はヤマトから来たと言うんです。それで……カーツ様に会わせてくれと」
その言葉に、カーツの背筋が静かに伸びた。口元がわずかに引き締まる。
「ヤマトから……? その男はどこに?」
「昨晩より客室に閉じこめております。……いかがなさいますか」
ラグナの問いに、カーツは短く息を吸い、視線を遠くにやった。空には雲ひとつない。だが、胸の奥にだけ、重く濁った気配が立ちこめている。
先を越された──そう思った。策を練る前に、相手が一手を打ってきた。そのことが、カーツの心をわずかにかき乱した。だが、同時に思う。探ろうとしていた相手が、自ら使者を送ってきた。もしかしたらこれは兆しかもしれない。
瞳に静かな決意を宿して、カーツは短く言い放った。
「会おう」
どんな者が送り込まれてきたのか。その姿一つで、ヤマトの意図も、来栖弾九郎という男の器量も、いくらかは測れるはずだ。
*
ラバス城西棟、応接室──。
窓辺に垂れた緋のカーテンが西日を吸い込み、部屋の空気に重みを加えていた。格子窓から差す陽は赤く、静寂の中に一筋の緊張を刻んでいる。
その部屋の中央、重厚な長椅子に腰かけていた男が一人。ヤマトからの使者、クラット・ランティス。背筋は伸ばしているが、全身に漂うのは場違いなほどの「場慣れしていない」空気。着ている礼装は上等な仕立てだが、着こなす意識よりも「脱ぎたい」という本音が透けて見えるようだった。
まるで居心地の悪い服を無理やり着せられてきたような、不自然な違和感。それが彼という存在の第一印象だった。
重い扉が音を立てて開く。
革靴が赤絨毯を踏み、カーツ・ゴーレイが姿を現した。凛としたその佇まいに、部屋の空気が一気に引き締まる。彼は無言で奥の椅子へと歩み寄り、ゆっくりと腰を下ろした。そして、相手の顔を一瞥し、静かに口を開く。
「私がカーツ・ゴーレイだ。ヤマトからの使者とは……その方か?」
その声は穏やかでありながら、明らかな探りを含んでいた。対するクラットは、その探る視線に気づいているのかいないのか、にこりと笑みを浮かべて応じる。
「お会いできて光栄です、カーツ様。私はヤマトの王、来栖弾九郎の使いとして参りました。クラット・ランティスと申します」
カーツは眉をわずかに動かした。言葉遣いは丁寧、発音も崩れていない──だが、何かが足りない。使者にしては緊張感がなく、礼装も着せられた感が強い。顔は薄く笑みを浮かべており、目は細くて感情の奥が見えない。喋っていなければ、何も考えていないかのようにも見える。だが、口を開けばその印象は一変する。
「其方がヤマトの使者とは、誠か? にわかには信じがたいが……」
皮肉半分の問いに、クラットはあっさりと頷いた。
「ああ、わかりますわかります。自分でもね、向いてないよなぁって思ってますもん。ははっ。けどね、うちの国、まだできたばっかりでして。人材不足って言うんですかね? 荒っぽいのとか堅物とかばっかりで……こういうのが務まりそうなの、自分くらいしかいなかったんですよ。へへ」
その笑いは、肩肘のまったく張られていない、あまりに素朴なものだった。まるで親戚の家にふらりと立ち寄ったような気安さ──それが、余計に奇妙だった。
(なにを……考えている?)
カーツの目が鋭さを増す。軽妙な語り口と裏腹に、この男の内側にはまるで霧のように、掴みどころのないものが渦巻いていた。
「そうか。で、向いていないと言いながら、こうして足を運んだということは……よほど重要な話があるということか?」
やや挑むようにそう言うと、クラットは「あー、そうですねぇ」と曖昧に相槌を打ちつつ、懐から一通の封書を取り出した。手の動きは滑らかで、無駄がない。先ほどまでの間の抜けた雰囲気と裏腹に、その所作には妙な落ち着きがあった。
「詳しい話はこの書簡に書いてあります。でもまあ、簡単に言えば──カーツ様、一度、ウチの大将……来栖弾九郎に会ってみませんか?」
「はっ?」
カーツは不意を突かれたように目を見開いた。
それは、予想し得る中でも最も直接的な申し出だった。戦場で刃を交えてもおかしくない敵の長が、前線指揮官である自分に「会いたい」と言ってきた。そこには明確な意図があるはずだが、それが外交なのか謀略なのか、それとも……。
(どうも、いかんな……)
カーツは心中で唇を噛む。相手の間合いに、自然と引き込まれているのを自覚した。初対面で主導権を握られた。意図的なものか否かすら掴めないのが、なおさら不気味だった。
(だが、断ってしまえばその瞬間、和平の糸は切れる。残るのは武のみ……それだけは、避けたい。少なくとも今は……)
窓辺の陽が少し陰り、室内の赤みが薄れる。カーツは視線を書簡に落とし、次の言葉を探すように短く息をついた。
お読みくださり、ありがとうございました。
クラットが言った通り、人材不足に加え、ヤマトは建国に関わる課題を多く抱えており、本来であれば外交に割く余裕などない状況でした。
当初、ラバスへの使者はマルフレアが務める予定でしたが、自分の手が空くのを待っていては、策が後手に回ると判断し、彼女はクラットを使者に指名します。
マルフレアは今回の意図を丁寧に説明し、任務の詳細に至るまで綿密に指示を与えています。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。