第103話 右将軍ダーシャ
王であり兄であるバート・ゴーレイの様子を、カーツはやや身を乗り出し、静かに、しかし冷ややかな目で観察していた。穏やかに微笑を浮かべつつも、その内心は、すでに兄に対する冷淡な評価で満たされていた。
(やはり……兄上は「王」にはなれても、「覇王」にはなれぬお方だ)
その場しのぎの誇りと見栄に縛られ、大局を見失っている。なぜ、最大の目標に集中できないのか。なぜ、些末な感情に執着するのか。今なすべきは、来栖弾九郎という「刃」を、どう研ぎ澄まし、どう握るか──それだけのはずだ。
譲歩せよ。媚びよ。そして、使い潰せ。
カーツの胸中で、冷徹な計算が静かに転がり続けていた。だがそのとき、不意に、場の空気がわずかに動いた。
──誰かが、王の迷いに風を吹き込もうとしていた。
思わぬところから放たれたその一言が、カーツの予想を超えて、王の心に一石を投じようとしていたのだった。
「……確かに、カーツ将軍のお考え、一理ありますな」
重々しく響く低音。玉座の間に、アイゼルの声が落ちた。それはまるで老木が静かに風に揺れるような声音だった。経験という名の年輪を刻んだその面差しに、ほんのわずかな逡巡が浮かぶ。しかし、それは無用な迷いでしかなかった。現実は、すでに彼を肯定へと傾けていた。
「それで上手くいくのなら……越したことはありません」
続いてダーシャが口を開いた。普段なら感情をあらわにする彼女が、今は静かに言葉を紡ぐ。その様子は、燃えさかる炎が一瞬、深く静まるようでもあった。その落ち着きが、この提案の重みを何よりも雄弁に物語っていた。
王を除いた軍首脳部の視線が、音もなく交錯する。否定の意志はもはやどこにもなく、微かに頷き合うような気配が空気を伝う。重い沈黙の中、共通の意志が形になろうとしていた。
「……しかしな……」
玉座に深く身を沈めたまま、バート王がようやく口を開いた。その声は、どこか遠くから響いてくるようだった。言葉の一つ一つが重く、疲れたように湿っている。
──八年。
その言葉が脳裏を過った。あまりにも長く、あまりにも多くを犠牲にしてきた年月。そしてあの夜、クルーデとの密約を交わしたあの時から、すべては動き出していた。巨額の金を注ぎ、忠義よりも利益を求める男を雇い、グリクトモアという壁を崩し、グリシャーロットを奪い取る……すべては、アイハルツ統一の布石であった。
──だというのに。
たった一つの敗北で、全てが崩れ去った。それを受け入れるには、あまりにも積み上げたものが多すぎた。王の視線は宙を彷徨い、目の奥で何かが静かに崩れていく。
そして、よりにもよって──この提案を持ち出したのが、あの「異母弟」だというのが、また腹立たしかった。
「まあ、そうは言いましても、王よ」
カーツが再び口を開いた。声色はあくまでも穏やかで、緊張に満ちた空気を軽く撫でるような調子だった。
「ご懸念はおそらく、こちらが手を差し伸べても、向こうが応じる保証はどこにも無い。と言うことでしょう。でしたら、まずは接触を図って様子を見る……今はそれだけで十分かと」
決して押しつけではない。むしろ、王自身の判断であるかのように仕向ける巧みな語り口だった。その婉曲な言い回しの背後に、老獪な意図が見え隠れする。だが、それに気づきながらも、王は抗う気力を失いつつあった。
──厄介な男だ。
バート王は目を細める。喉元に棘が刺さったような不快感を覚えながらも、それを引き抜く術を持たぬまま、ただ胸の内で呟く。
カーツ・ゴーレイ。玉座に忠誠を誓うその態度の裏で、何を思い、何を企んでいるのか。あの柔らかな笑みの下に隠された本心を、王は未だ掴みきれていなかった。彼の心は水面のように穏やかだが、その奥に何が沈んでいるのかは誰にも見通せない。
「……よかろう」
ようやく、バート王が口を開いた。
長い沈黙の末に下された決断──しかしそれは、王としての冷徹な戦略というよりも、弟に対するちっぽけな報復心に支えられたものだった。
玉座の上で指を組み、わざとらしく重々しい息をついた王の目は、鋭さよりもどこか濁りを帯びている。八年の歳月と莫大な金を投じた策が水泡に帰す悔しさと、己の威信が崩れ落ちる不安。だが、それをそのまま飲み込むには、プライドが許さなかった。
──せめて、弟に恥をかかせたい。
そんな陰湿な思惑が、王の言葉に滲む。
成功すれば国のため、失敗すれば弟の責任。どちらに転んでも自らの立場は揺るがない。実に巧妙で、そして小賢しい。だが当のバート王は、それを見抜かれることも想定せず、心の中で得意げにほくそ笑んでいた。
「カーツ。それではその役を貴様に命ずる。ヤマト──来栖弾九郎と接触し、奴を従わせよ」
玉座の間に、バート王の声が響いた。抑えられた怒気と嘲りが、わずかに言葉尻に混じる。
だがその意図を、カーツはとっくに読んでいた。
「ははっ。かしこまりました」
カーツは一歩前へ出て、ゆったりと頭を垂れた。その所作は実に洗練されていて、まるで劇場の舞台で与えられた台詞をなぞる俳優のようだった。
だが、それはただの芝居ではない。見せかけの柔らかさの奥に、彼の揺るぎない自負が宿っていた。
この任は、自分にしか果たせない。
むしろ、自分が果たすべきだと誰もが思うように、仕向けてきた。
兄の劣情すら計算に入れた上で、ここまで導いたのだ。
老獪で、狡猾で、そして無言の誇り高い男。
その背に浮かぶ静かな微笑は、玉座の者が決して持ち得ぬ「器」の大きさを、淡々と物語っていた。
そして、誰もがその姿に見惚れていた。
それが演技であれ本心であれ、カーツ・ゴーレイには「美しさ」があった。どこか冷たく、しかし確かに人を惹きつける求心力が、そこにはあった。
ただ、カーツは気づいていなかった──その場にただ一人、青ざめた顔をした者の存在に。
*
「お待ちください、カーツ将軍。右将軍様がお呼びです」
城門へと向かっていたカーツの背に、清らかな声がかかった。振り返ると、呼び止めたのは右将軍ダーシャ・ザーニに仕える女官だった。緋色の制服に身を包んだその姿からは、厳格な主の命を伝える気迫が滲んでいた。
「右将軍様が?」
カーツの眉がわずかに動く。無表情の仮面の奥に、一瞬だけ戸惑いが浮かんだ。彼女が直轄の部下では無い自分を呼び止める理由は、軍の公式な用件とは思えなかった。女官が彼女の側近である以上、それはほぼ私的な召喚に等しい。
──しかもこのタイミングで、だ。
ダーシャ・ザーニは男嫌いとして知られていた。将軍職にありながら、側近は女性のみ。粗暴な男どもを従わせるために、気丈さと冷厳さを自らの鎧として纏ってきた。そんな彼女が、わざわざ自分を呼び寄せる理由とは何か。
だがカーツは王弟であれど、軍における序列は右将軍よりも下。上官の命令には従わねばならなかった。
やがて、彼女の私室に辿り着いたカーツが扉を軽くノックすると、内側から鋭くも張りのある声が返ってきた。
「入れ」
その声に、カーツは一瞬、気を引き締めた。
扉を開くと、室内には彼女の姿が一人だけあった。窓のカーテンは半ば閉ざされ、昼下がりの陽光が柔らかく部屋を照らす。先ほどの会議場の緊張が嘘のように、そこには微かな香水の香りと、穏やかな空気が漂っていた。
「どうされました、右将軍。私は急ぎ、ラバスに戻らねばならないのですが……」
カーツは踏み込むなり、努めて事務的な声を投げた。
ラバス──ヤドックラディ南部の要衝。その城塞都市は、彼が守るべき最前線だった。ヤマトと衝突すれば、最初に火の粉を浴びるのはここだ。
もし落ちれば、南部の支配は失われ、国土の四割が敵に渡る。ラバスの重さは、戦略的にも政治的にも計り知れない。
カーツがそこを預かるに至ったのは、先代王の英断であり、同時に現王バートの劣等感の源でもあった。
「……やめて」
不意に、ダーシャが静かに口を開いた。その声は先ほどの指揮官のものではない。
かつて修練場で剣を交えた日々の、あの少女の面影が宿るような声だった。
「ふたりきりのときは……そんな風に呼ばないで……」
言葉はかすかに震えていた。カーツの瞳が揺れる。彼の中にある規律の鎧が、わずかに軋んだ。
「ダーシャ……」
戸惑いの声が漏れた瞬間、彼女はゆっくりと歩み寄り、その身を彼の胸元に委ねるように抱きついた。
予想外の行動に、カーツは微動だにできなかった。
ダーシャの身体はわずかに震えていた。纏っているのは急ぎ着替えたのだろう、薄手のドレス。しかしその顔にはまだ、戦場の化粧が残っている。血気と気迫を帯びた彩りのまま、ひとりの女として、カーツにすがっていた。
「ヤマトには……行かないで……お願い。貴方が危険にさらされるなんて、私、耐えられない……もし、何かあったら私は……」
その声は、剣を振るい、命を預かる将のものではなかった。
ただ一人の男を案じる、ひとりの女の声だった。
右将軍としての尊厳すら脱ぎ捨て、ただ彼の前でだけ、心の奥に秘めていた感情をさらけ出していた。
お読みくださり、ありがとうございました。
ヤドックラディには九人の将軍が存在し、それぞれが一軍を率いています。その上には、左右の将軍が彼らを統括する形で配置されています。
その中でもカーツは、将軍のひとりでありながら、先代王の命によってラバス城の城主も兼任するという、特別な地位を与えられています。王位継承の権利こそ持たないものの、王の弟としての血筋と確かな実力を備えたカーツは、他の将軍たちからも一目置かれる存在です。
現王バートは、そんな弟の存在に強い嫉妬心を抱いており、彼の地位と名声が失墜することを密かに願っています。しかし、軍部や民衆からの支持が厚いため、表立った行動を起こすことができず、不満ばかりが募っているのです。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。




