第101話 その名はヤマト
グリクトモア城内に点在する広場には、朝から緊張と期待が入り混じった空気が漂っていた。
重々しい曇り空の下、冷えた石畳を踏みしめる足音が響くたび、市民の誰もが無意識に背筋を伸ばした。木々の間には小鳥のさえずりさえ聞こえず、まるでこの日がただならぬ一日であることを、自然すら察しているかのようだった。
幾つかの広場には臨時のスピーカーが設置され、黒と金の布で装飾された壇が風に揺れていた。市民たちは一人、また一人と集まり、やがて数千、最終的には全会場合わせて三万人を超える人々が、この瞬間を見届けるべくそれぞれの広場へ足を運んでいた。老若男女、誰もが不安と希望の入り交じった面持ちで、式典の始まりを待っている。
中でも、領主館前の広大な公園には特別な緊張感が漂っていた。敷き詰められた芝の上を、重厚な軍装に身を包んだ兵士たちが警備にあたり、中央の大階段──かつてはテルヌ・オロロソが民と語らった場所──の踊り場には、荘厳な演台が据えられていた。そこは今日、かつての終焉と未来の胎動とが交差する舞台となる。
正午、鐘の音が三度、静かに町に響いた。演台に立ったのは、グリクトモア評議会議長代理オスモ・ニュンケ。緊張のあまり手元をわずかに震わせながらも、確かな口調で口を開く。
「──ただいまより、テルヌ・オロロソ様の遺言を、グリクトモアのすべての広場に向けて放送いたします」
その瞬間、広場にいたすべての者が、息を呑んだ。
次の瞬間、スピーカーから流れ出したのは、あの温かくも凛とした女性の声──テルヌ・オロロソ、彼女自身の肉声だった。
「……皆さま、まずは心からの感謝を申し上げます。そして……私が、この身を持って最後までお傍にいられなかったことを、どうかお許しください……」
群衆の中には、テルヌを信仰に近い形で敬っていた老婆もいた。彼女は杖を握りしめ、両目に手を当てながら膝をつく。「ああ、テルヌさま……」と呟くその姿に、隣の少年は戸惑いながらも手を握った。
その後、テルヌの声は静かに、しかし途切れることなく続いた。国の歴史、市民への想い、若き日に夢見た理想、そして幾度となく心を折られながらも信じ続けた未来──彼女の言葉は、まるで人生そのものを語るかのように、聴く者の胸へと沁み渡っていった。
その声は時折、弱々しく震えていたが、それでも言葉一つひとつには不思議な強さと優しさが宿っていた。会場にいた婦人は両手を胸元で組み、職人は拳を固く握って唇を噛みしめる。家族を亡くした若き未亡人は、嗚咽を漏らしながらも涙を拭おうとせず、ただその声に耳を傾けていた。
「そして……来栖弾九郎様は、なんの縁もないこの地に舞い降り、義侠心のみでグリクトモアをお救いくださいました。一片の見返りも求めずに……」
静けさの中に、押し殺すような嗚咽が広がる。テルヌが遺した言葉は、まるで一人ひとりの心の奥に直接語りかけてくるようだった。
「……だからこそ、彼こそが、皆さんの未来を託すに相応しい人物だと、私は確信しました。どうか……愛するグリクトモアの皆さん……弾九郎様をお支えし、共に、新しい国と未来を……切り開いてください……」
最後の一節が流れたとき、広場はまるで時間が止まったかのように静まり返った。
誰もが声を失い、ただその余韻に包まれていた。やがて、ひとり、またひとりと天を仰ぎ、ある者はその場に膝をつき、ある者は両手で顔を覆いながら涙を流す。そこには、深い哀しみと、それ以上の誇り、そして新たな覚悟が確かに息づいていた。
広場の片隅では、武装した兵士が眉をひそめた。「本当に大丈夫なのか……」と、誰にともなく呟く。その視線の先には、壇上に向かってまっすぐに見据える弾九郎の姿があった。
そして──式典の次なる瞬間を告げるかのように、マイクが静かに切り替えられる。
空気が再び張り詰め、人々の視線が一斉に壇の中央へと注がれる。
そこに、ゆっくりと歩を進めたのは、来栖弾九郎──。
彼の声が、次なる未来の扉を開こうとしていた。
*
「──俺は……来栖弾九郎……忠景……だ……である」
その声は、スピーカーを通して広場に響き渡った。けれど、その第一声には微かに震えが混じっていた。拡声器に慣れていないのか、それとも、何万人もの視線が自分ひとりに注がれているという重圧か。弾九郎は、目の前に広がる海のような群衆を前にして、額に浮いた汗をそっと袖で拭った。
「……どうも、こんな場所では話しづらいな」
彼の口元が、少しだけ苦笑いを浮かべる。高台の演台から見下ろすかたちで言葉を発する──それが、どうにも自分には似合わないとでも言いたげな表情だった。
次の瞬間、彼はためらうことなくスタンドマイクを片手に演台を降り始めた。重厚な礼装の裾が風に揺れ、階段に一歩、また一歩と足を運ぶ。
「えっ!?」
「だ、弾九郎様!?」
取り巻きの者たちがざわついた。警護の兵士たちも慌てて動き出すが、彼の足は止まらない。後方に控えていたミリアやヴァロッタ、メシュードラ、ツェットの顔には、驚きと──それ以上に親しみ深い笑みが浮かんでいた。
やれやれ……という目で、彼らは弾九郎の背を追って階段を降りる。厳かで格式ばった式典において、型破りな行動。それなのに、なぜかしっくりくる。不思議と似合っているのだ。
マルフレアは眉間に皺を寄せつつも、どこか諦め混じりの笑みを浮かべた。
──王たる者には威厳が必要……本来なら、そうあるべきなのですがね。
だが、彼女の心はその思考を否定していた。型にはまらず、民と同じ地平に立って話そうとするその姿勢にこそ、真の尊敬が宿るのではないか──そう思えてならなかった。隣でクラットが肩をすくめて苦笑している。これが弾九郎、という男なのだ。
そして彼は、石畳の広場に足を下ろす。目の高さが民と重なるその場所で、風を感じながら歩を進めた。ゆっくりと、着実に、一歩ずつ。彼の周囲を包む空気は不思議とあたたかく、心を解かすような静けさに満ちていた。
やがて弾九郎は立ち止まり、ふと空を見上げる。まるで天にいる誰かに語りかけるように──再び、彼は声を発した。
「俺は、つい最近この世界に来た。いわゆる異界人という者だ。この世界の道理も、人々も、何も知らず……ただ剣を振ってきた。それが──」
広場を吹き抜ける風が、弾九郎のマントを揺らした。マイクを通しても彼の声は決して大きくない。だが、その静けさの中に確かな熱が宿っており、集まった人々の誰もが一言一句を聞き逃すまいと、息を殺して耳を傾けていた。
彼は演説のような言葉を吐いているのではなかった。まるで、名も知らぬ目の前の誰かに、静かに心の内を明かすように。あるいは、遠く故郷に残してきた誰かに語りかけているかのように。
「奇妙な縁だが、この地に……国を建てることにした。それは、テルヌ殿に頼まれただけではない。──この世界に生まれ変わってから、ずっと考えてきたことだ」
弾九郎は再び歩き出した。左右に自然と人波が割れ、彼の通る道を作る。市民の誰もが、彼の足音に心を揺らしながら、その姿を見守っていた。
「俺がかつて居た場所は、戦乱の世だった。強者が弱者を蹂躙し、力のない者には、生きていくことすら難しい場所だ」
その言葉に重なるように、彼の拳がきゅっと握られる。指先の関節が白くなるほどに、強く。悔恨と、記憶の痛みが滲んでいた。
「……俺は、そんな世で戦に生き、数多の血を浴びてきた。相手は武士。だが、名も知らぬ、恨みもない者ばかりだ。ただ、生きるために、俺は……命を刈ってきた」
彼の言葉には、苦しみがあった。自身の手で終わらせてきた命──名も知らぬその数々が、今もなお背中に重くのしかかっているのだろう。
「だからこそ……この世界で、二度目の命を与えられたとき、同じ生き方だけはしたくないと思った」
彼は足を止めた。ちょうど広場の中心、四方を市民に囲まれたその場所で、弾九郎はまっすぐに空を見上げた。空は灰色の雲に覆われていたが、どこかその向こうに光があるような気がした。
「だが、この世界もまた、俺がかつていた場所と変わらぬ戦乱の地だった。強者が弱者を虐げ、奪い、苦しめる世……」
静かなざわめきが民衆の間を走った。かつてアウラダが語っていた通り、千年以上もの争いの歴史。それは誰もが知り、そして諦めかけていた現実だった。
「俺にできることは、結局、剣を振るうことだけだ。──ならば」
弾九郎は腰の儀典用の剣に手をかけ、ゆっくりと抜き放った。太陽の光をわずかに反射しながら、その刃が高々と空に掲げられる。風がひときわ強く吹いた。
「俺はこの剣を、弱き者を守るために振るう。誰にも脅かされることのない、穏やかな暮らしを、この地に芽吹かせるために──!」
言葉を噛みしめるように、弾九郎は剣を鞘に収めた。そして目を閉じ、深く息を吐く。
「俺は、天下に武を布き、戦乱の世を終わらせる。そのために国を興す。その名はヤマト」
目を見開き、力強く周囲を見渡す。
「今はまだ名ばかりの国だ。だが、俺には心強い仲間たちがいる。……だから、どうか、皆も俺の仲間になってほしい。そして──共に、安寧の世を築こう!」
その言葉が落ちた瞬間、広場は凍りついたように静まり返った。誰もが、ただ彼の姿を、言葉を、胸に刻み込んでいた。
やがて、どこからともなく一つ、二つと拍手が起こる。最初はためらいがちだった音が、次第に広がり、波となり、嵐のような喝采が広場を包み込んでいく。
若き兵士は、槍を握る手に力が入るのを自覚しながら、気づけば──敬礼の姿勢をとっていた。
信仰に生きてきた老婆は、涙の跡の残る頬に笑みを浮かべ、小さく頷いた。
グリクトモアの空が、まるで新たな時代の幕開けを祝福するかのように、静かに晴れ始めていた──。
「私たちもやります!」
「俺もだ! なんだってするぜ!」
「弾九郎様、ついていきます!」
「……これが、希望ってやつか」
「おれ、生まれて初めて、国ってもんに期待してる」
「強くて、優しい人だ……」
「この人が、俺たちの王なんだ」
無数の声が溢れ、空に舞い上がる。弾九郎の言葉は確かに届いていた。かつてこの地を覆っていた絶望は、今、確かな希望へと変わろうとしている。
*
AE四七三三年、六月二日。
曇天の空がやがて晴れ間を見せ始め、やがて輝くような陽光がグリクトモアの石畳を照らしたその日──。
異界より現れし来栖弾九郎忠景は、グリクトモア最後の領主、テルヌ・オロロソの遺志を継ぎ、民衆の前で静かに、しかし確かな言葉で誓いを立てた。
彼は剣を掲げ、かつての罪を背負いながらも、新たな正義と理想を携え、この地に新たなる秩序を打ち立てるのだ。
その日、彼は異界人としてではなく、王として、名もなき民たちの心に刻まれた。
歴史は静かに流れを変えた。
かつてグリクトモアと呼ばれたこの地は、その名を封じ、新たな名とともに歩み出す。
──ヤマト王国。
この日が、そのはじまりの日である。
お読みくださり、ありがとうございました。
AEとは、この世界で用いられている年号です。
今から四七三三年前、突如としてこの世界に「ガント」が現れ、王鎧という戦乱の火種を撒き散らしました。
その時に始まった戦国の世は、今なお終わりを迎えていません。
次回もまた「異界戦国ダンクルス」をお楽しみください。
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「異界戦国ダンクルス」をお読みくださっている皆様へ
4月15日より毎日投稿を続けてまいりました本作も、本日、無事に第101話を迎えることができました。
ここまで続けてこられたのは、ひとえに読んでくださっている読者の皆さまのおかげです。
心より感謝申し上げます。
物語もひとつの大きな節目を越え、弾九郎の建国という展開にまでたどり着くことができました。
このタイミングで誠に恐縮ではありますが、101話を一区切りとして、本日よりしばらくの間、投稿をお休みさせていただきます。
連日楽しみにしてくださっている皆さまにはご迷惑をおかけすることとなり、大変申し訳ありません。
次の展開についてはすでに構想があり、頭の中では物語が動き始めております。
ただ、さらに深く物語を練り直し、よりよい形でお届けするために、少しだけお時間をいただければと思います。
具体的な再開時期をお約束するのは難しいのですが、なるべく早く、遅くともひと月以内には再開したいと考えております。
ご期待いただいている皆さまには重ねてお詫び申し上げますとともに、作品をより良くするための時間とご理解を、何卒よろしくお願いいたします。
令和7年7月4日 蒼了一
作品に関する情報は、X(旧Twitter)アカウント https://x.com/soryoichi にて随時発信しております。
ご関心をお持ちいただけましたら、ぜひご覧ください。




