ママって“よんで”くれたから
「あの子がママって“よんで”くれたから、わたしの心は決まっていたのかもしれないわ」
夫、水原宏康との馴れ初めを訊かれたとき、旧姓金木真絹はこう答える。
そう、“呼んだ”し“喚んだ”のだ。
詳細を話すつもりはないが。
三年前-ー
同じ部署に所属する彼氏にフラれた真絹は、自宅の居間でTVに映る番組をぼんやりと眺めていた。菓子パンをペットボトルのミルクティーで流しながら。
普通ならヤケ酒に走るのだろうが、あいにく下戸。ノンアルコールのビールやカクテルをあおるなんて発想も産まれなかった。
付き合ったきっかけは向こうからの告白だ。ちょうど大型プロジェクトが成功したところで、達成感と仲間意識からほのかな思いを抱いていた真絹は花咲く気持ちで受け入れた。
それから映画や漫画みたいな山あり谷ありの起伏はなかったが、絆は強まってきた。このまま行けば結婚、と漠然とだが考えるくらい。
しかし、甘い夢を見ていたのは彼女だけで、彼は違ったようだ。
部長の娘との結婚を薦められて、そちらを選んだのだから。
あっさりと真絹は別れを承諾。恋人としての一年に思いを馳せたが、意味がないと痛感したので。
こじれることを予想していたのか、彼氏は目を丸くしていたが、早く終わらせたかった。
それは一日前のこと、今さらになってハラワタが重くなってきた。
恋の終わりを通告された時点では、気持ちが高ぶりすぎて逆に淡々としていられた。だが、一晩開けて冷静になると、気が滅入ってくる。
いつの間にか涙さえ浮かび……
-ーそれは本当に突然だった。
まるで蛍光塗料をぶちまけたように、辺りにまばゆい光が弾けたのだ。それは瞬く間に部屋の主を呑み込んでいく。
番組の演出ではない。見間違えでなければ、源は真下だから。
真絹に出来るのは、リモコンのスイッチでTVを消すこと(消えたかどうかはわからないが)と、食べかけのパンと飲みかけのミルクティーを引き寄せ、抱えることだけ。
常軌を逸した明るさに耐えきれず、力を込めて目蓋を閉じ、両腕を押しつける。
万全の対策にはならず、ほころびが生じたが新たな発見につながる。襲いくる白の威力が和らいできた。
淡くなり、目が落ち着いたところで、花瞼を開く。
「え……?」
震える声が唇から漏れた。
どう見ても屋外だ。それ以前に景色が違う。
一体何が起きたのか……?
真絹が状況を整理しようと試みた刹那-ー
「ママ! ママ-ー-ー-ー!」
一人の小さな女の子が駆け寄ってきた。
「えっ? あ……ちょっと……?」
「ママ! ママ! ママ-ー-ー-ー-ー!!」
“ママ”なんて呼ばれる覚えはない。付き合ったのも肉体関係を持ったのも元カレが初めて。
一体どうしたら……
まとわりついてくる幼女を突き飛ばすわけにもいかず、ただ周りを見回す。簡素ではあるがブランコやベンチがあるから、公園だとアタリはつけたがそれだけ。
どうするべきか判断がつかないところに、影が入り込み、足音が近づいてきた。
自然と顔は引き寄せられる。
見たことのない男。年は定かではないが、おそらく三十は越えていると女は判じた。
「“キリカ”、お姉さんが困っているだろう。離れなさい」
彼がたしなめると、キリカと呼ばれた幼女は名残惜しそうにしながらも、従った。
親子だろうか? 真絹は考える。
男は改めて真絹を見るも、脳味噌を必死に稼働させているのが目の動きに現れていた。彼女も同じだからだ。
「あの……大丈夫ですか?」
使い古されたセリフだが、それしか言えないのはこちらも理解できる。
「あ、はい……その、何があったんですか?」
事件の当事者となった者としては、かなり間抜けな言い様になってしまう。
脛が痛みを訴えて視線を降ろすと、新たな情報が入ってきた。
剥き出しの地面に正座していること、靴を履いていないこと、そして-ー真絹は妙ちくりんな図の描かれた所にいること。
「その……見ていた俺も信じられないんですが、聴いてもらえますか?」
信憑性を疑われること前提である発見者の語りかけに、真絹は真顔でうなずいていた。
彼-ー水原宏康と自己紹介した男性が話し出したのは、妻だった女、つまりキリカの母親が他の男と浮気をした挙げ句、駆け落ちをしてしまったとのこと。そしてキリカはママほしさにアニメか絵本に載っていた魔法陣を描き、ママを呼んだのだとか。そうしたら真絹が来たのだと言う。
「金木さんは魔法や超能力の類いを信じますか?」
「んー、まぁ、ファンタジーなら読んだことはありますけど……」
尋ねたシングルファザーに、独身女性は歯切れ悪く返す。先程、真絹も名乗っておいた。
「俺もそれぐらいですけど、その中に、魔法には召喚術っていうのがあって、それは主に異世界から何かを呼び出すんです。あと超能力には確か……物体移動とか瞬間移動っていうのがあるんですよね」
「だとすると……キリカちゃんのは召喚術ってことになりますよね」
馬鹿げた話だが、笑えない。現実に起きてしまったのだから。
召喚術。『召す』『喚ぶ』術。
つまり二重の意味でキリカはママを“よんだ”わけで……
だが、ここで疑問が。
「あれ? だとしたら本当のママを呼ぶんじゃないんですか?」
つい真絹が口にしたら、宏康の表情は曇った。
悪気はなかったが、プライバシーを侵害したのは事実。
「す、すみません……ところでここはどこなんですか? ガスは火をつけてませんし、TVはリモコンで消してきましたけど……」
空気を変える意味でも、本題に入る。
直後、思い出した。菓子パンとミルクティーのペットボトルを持っていたことに。
-ーもしかしてわたし、食い意地の張った女だと思われてる?
おまけに、食べ物の袋にはデカデカと半額シールが貼られている。
宏康はそれを凝視していたが、ややあって、
「……い、いや、賞味期限を見て、一瞬未来から来たのかと勘違いしまして……」
ごまかすためにか目を反らす。
真絹は新たなる仮説を導いた。
もし移動したのが場所だけでなくて時間もなら-ー
かさついた唇を舌で湿し、深呼吸する。
「あの……今は何年何月何日でここはどこですか?」
「今日は……」
教えてもらった日にちに、安堵のため息を漏らす。真絹が部屋にいた日と同じだからだ。時間はそこそこ経過しているだろうが、まだ勘弁できる。
場所は彼女の住んでいるアパートから十分前後の距離にある公園。
正直今まで知らなかったし気にしてもいなかった。“そういえばこの辺にもう一ヶ所公園があるって聴いたような”認識にとどまっていて。
真絹の知っている所は、もっと広くて遊具も豊富。それと比べたらここは猫の額だ。
閑話休題……
「キリカ、お前がママが欲しいのはわかるが、こういう形で呼ぶのはいけないことだ。もしご飯を食べていたりお風呂に入っていたりお仕事をしていたらどうする? そうでなくてもいきなりこんなところまで来させられたら困っているぞ。ごめんなさいは?」
宏康はキリカを叱る。にらみつけ、固い声で。
「ご……ごめんなさい」
幼女は身を縮こまらせている。
「そ、そんなに怒らないでください。キリカちゃんにも悪気はなかったでしょうし、他の人に迷惑がかかったってわかったらやらないでしょうし? そうだよね? キリカちゃん」
立ち上がった真絹は、慌てて口を動かす。
「そ、そうだ、水原さん。わたし、キリカちゃんのお話もっと聴きたいと思ったんですけど、よかったらわたしの家に来ませんか? どっちにしろ靴を履いていないから、一旦戻ろうかと思っていたんですけど、その方が手っ取り早いと思いまして」
「え……?」
宏康は目を丸くする。
「-ーキリカちゃんを信じてはいますけど、もしも友達と遊ぶことになって今みたいなことが起きたら大変ですし、この事を話したら嘘つき呼ばわりされて仲間はずれにされるリスクもありますから、対策を練った方がいいと思いますよ。それにわたしとしても、水原さんとのご縁をなかったことにしたくないんで」
強引は承知で一気にまくし立てる。
「すみません、本当に」
シングルファザーは頭を下げた。
「ママ、ママのお家どこー?」
キリカは真絹の周りを回っている。
「じゃあ、案内してあげるね」
独身女性はにこやかに笑ってみせた。
予期せぬアクシデントで接点をもった二人は、順調に交際を重ねた。元カレに一時期絡まれたこともあったが、専業主夫となってからは顔を会わせなくなったし、携帯もブロックしたから憂いはなくなった。
だが、さらに厄介な要素が存在していたのだ。
「私の夫と娘を返して!」
真絹と宏康の結婚式が開かれたところに、一人の女が乱入してきた。
独身卒業秒読みの女子と、再婚直前の男性が凍りつく最中、少女が進み出た。
キリカ-ー母親のゴリ押しで漢字は“綺李華”があてられた。その癖『地味』だ『ブス』だと外見に文句をつけてばかりだったそうだ。
「おばさん、キリカのママはパパのおよめさんなの。だからおばさんはいらないの」
血のつながった娘に冷たく言われ、母だった生き物は石像と化す。直後、結婚会場の従業員に引っ張り出された。
刹那、真絹は崩れ落ち、“娘”を見つめる。
「綺李華、ありがとう」
瞳から思いの雫が次々あふれ、細い滝を作った。