理想の郷
私は車を走らせている。
青い空、澄んだ空気、ここは木曽の山奥だ。
私は渓流釣りに来ている。
大学を出るとすぐ銀行に就職し、以後20年間ずーと会社員をやってきた。
人付き合いが得意でなかった私は、
接待のためにゴルフを習い、酒を覚え、接待のためにサーフィンすらやった。
接待のために浦和レッズのサポーターにもなり、
接待のためオタクに混じってモモノフにもなった。
そう接待こそが私の仕事のほとんどだった。
辛いことも多かった。
だからペットを飼ってみた、柴犬だった。
しかし、私には毎日の散歩が億劫だった。
近所の人たちに挨拶して、愛想よく振る舞うのが苦痛だった。
それで次にガーデニングをやった。
近所の小さな協同農園を一区画借り野菜作りを始めた。
しかし住宅地の近くで、やはりご近所に挨拶しながらガーデニングしなければならなかった。
これも自分にはストレス以外の何物でもなかった。
私はガーデニングをやめた。
そして、渓流釣りを始めることにした。
さっそくパジェロに買い替えて、上州屋で道具を揃え、好日山荘で山岳ウエアを買った。
昨日仕事でミスがあった。
といっても私のミスではなく、敢えて言えば部下のミスだ。
なのに、私は何度も謝らねばならなかった。
私はストレスを感じた。
だから、初の渓流釣りを決行することにした。
深夜から車を走らせ、人里離れた渓流を目指し、山道をどんどん進んでいった。
清々しい気分だ。
私は思った、都会の人間はせせこましいと。
昨日の仕事のミスも、最終的に私のミスということにして納めたが、
実際は私のミスではない、正確に言えば部下のミスでもない、本当は上司のミスだ。
人と人がぶつかり合ったら、どちらかが引かねばならない。
そうしないと、どちらかが壊れてしまう。
なのに私の周りの人は、自分の権利だけを主張し、だれも譲ろうとしない。
この大自然を見ろ。
鳥や昆虫を見てみろ。
俗世界の出来事なんて、些細なことでしかない。
私はそんな大自然の中で、渓流釣りを楽しむんだ。
車は山奥を走り、やがて道も消えた。
私は道具をもって渓流沿いを川上へと向かって歩いた。
聞こえるものは、鳥のさえずりと、渓流のせせらぎの音だけ。
私は自然と一体になれたのを感じた。
やがて大きな岩場を見つけた。
私はそこでルアーの準備にかかった。
最初は柔らかいウルトラライトの竿をと思ったが、
考え直しライトのバスロッドを使うことにした。
渓流では遠くに投げることが少ないのと、
トゥイッチをするので、硬めの竿のほうが使いやすい。
はじめての渓流釣りだが、専門書はみっちり読み込んである。
1000番のアブガルシアのリールにオイルをさし、
ラインを太いのに替えた。
ナイロンラインに特段こだわりがあるわけじゃないが、
フロロはリールに馴染みにくくてトラブルが多いしらしい。
私はフロロがどんなものか知らなかったが、
本にはそう書いてあった。
ルアーはシンキングミノーにした。
投げやすいし魚から美味しそうに見えてるらしい。
本にそう書いてあった。
フローティングミノーは軽くて、
すぐに浮き上がってしまうので、
浮かべたまんまでどこまでも下流まで流し、
倒木とかブッシュの下に流れに乗せて、
ポイント周辺でネチネチやるのがいいらしい。
本にそう書いてあった。
アメマスとかオショロコマを釣るならフローティングもやはり、
スピアヘッドがいいらしい。
本にそう書いてあった。
ゆっくり誘う時のスプーンは抵抗が少ないから気持よく飛んで行くらしい。
本にそう・・・
もうなんの事やら私にはさっぱりわからなかったが、
取り敢えず道具はすべて揃っている。
天候も最高だ。
「ヨシ、釣るぞ~!」
と、そのとき、突然、呼び掛けられた。
人の声だ。
二人組の老人だった。
地元の漁協の人らしい。
何でここがわかったのだろう。
GPSで見られてるのか。
こんな山奥にも監視カメラはあるのか。
「カンサツは?」
そう、日本の田舎なんてこんなものだ。
都会人が納めた税金で、野山を管理しているくせに、
よそ者が遊べる場所なんてないんだ。
みんな補助金で食ってるくせに、
田舎は自分の権利ばかり主張する。
こっちがどんなに疲れてるかなんてお構い無しだ。
私は大声でこう言いたかった
「ここはあんたの川か?」
「ここの魚は全部あんたが放流したのか?」
「いい加減にしろ!」
私は、ゆっくり振り向いて、こう言った。
「スイマセーン、知りませんでした、入漁料おいくらですか?」