ドジっ娘、ですか……
新人社員である七瀬には他に同期がおり、同じ課の久遠姫乃もその内の一人だった。
「久遠さん、ちょっと……」
「はい」
久遠は名を呼ばれると内心ビクッとした。
用件は何となく想像が付く。しかしミスはなかった筈だと自信はあった。
立ち上がった拍子に傾いたファイルの山をキチンと揃え、小野寺のデスクの前へと向かった。
「久遠さん。あなた、この見積書を提出するまでに何日掛かりましたか?」
つい二時間前程、小野寺の承認待ち書類ケースに入れた見積書について聞かれた久遠は少し天を仰ぎ、そしていつも通り相手を睨み付けるような目でこたえた。
「一週間です……」
「先方から一度催促の電話を頂戴している筈ですが?」
「すみません……」
「トコブシ㈱ガバナンスの見積書も、出来ていますか?」
「いえ、まだです。すみません……」
「情熱ファイナンスは?」
最後は声にもならなかった。
久遠はただ項垂れるしかなく、自らの無能力をずっと悔い続けた。
「少し仕事を任せすぎたようですね。これは私の責任です、すみません」
「……」
軽く頭を下げる小野寺。
そして久遠に担当を任せていた案件をいくつか、自らで引き受けることにした。
「あなたは前調査と確認に時間を割き過ぎています。ミスしたくない気持ちは分かる。一分も隙の無い完璧な状態で提出したい気持ちも分かる。が、あなたはまだその状態には至れてはいない。そして何より、お客様はそこまで待ってはくれません……いいですね?」
「……はい。申し訳ありませんでした」
小野寺は口調や表情を変えること無く久遠と話を終えると、すぐに引き受けた仕事へと取りかかった。
「姫乃っち、大丈夫?」
「んーん、ゴメン。やっぱり私この仕事向いてないみたい」
七瀬は冷たいレモンティーの缶を久遠へ手渡した。
休憩室に二人の力無い声が染み渡る。
「そんなことないよ。まだ入ったばっかりじゃん」
「それは分かってるけど。でも私だけ仕事が溜まっちゃうし、お客様には『睨まれているようで目付きが怖い』って言われるし、書類も対応もダメなら私は何をすれば良いのよ……」
「大丈夫、そのうち慣れるよ。きっと」
「そうかな?」
「そ。今日は私も手伝えるからさ。終わらせよ?」
「ありがと、七瀬さん」
「ハハ……じ、実は私もお願いしたいことがあって──」
「なんですか? これは……」
七瀬に電話で呼ばれた小野寺は、その異様な光景に思わず顔を覆った。
ロングドレスのメイド服姿の七瀬と久遠が「おかえりなさいませ御主人さま♪」と声を掛けた。
久遠の胸の辺りには初心者マークが着けられており、研修中を表していた。
「何故あなたまで……」
「七瀬さんに頼まれまして……」
「なんか仕事で落ち込んでたから気晴らしにどうかなって、思いまして。丁度キャストに空きがありましたので」
小野寺は七瀬の電話に出たことを軽く後悔した。
『ちょっと見て貰いたい物があるのですが、ご飯ご馳走しますので来て頂けませんか?』
小野寺はタダ飯に弱かった。
「でも姫乃っちったら、メイドでも落ち込んじゃって。ミスしないように気張りすぎて、逆に堅くなりすぎ。ドジっ娘なんだからミス大歓迎なのに♪」
「そうはいきません。完璧に仕事を熟してこそ、です」
小野寺は頭が痛くなってきたが、あまり深く言及すると痛い目を見そうだったので、メニューを手に何を食べるかだけを考え始めた。
「あ、係長ピザ食べません? 新作出来たんですよ?」
「……どなたが作るのですか?」
「どっかのイタリアでむしゃくしゃ修行した一流シェフがいますので、キチンと釜で焼きますよ?」
「……ほほう」
小野寺の心に期待感が湧き始めた。
先日のオムライスに満足した小野寺は、料理に関しては悪くは無いと思っていたところだったのだ。
「ではそれを」
「かしこまりました御主人さま♪」
てけてけ~っと、奥へ駆けてゆく七瀬の背中を見て、久遠は小さくため息をついた。
「七瀬さんは何でもそつなく熟せて羨ましいです」
「彼女は何も考えませんので……その分大なり小なり失敗や失礼がありますが」
「姫乃っちー♪ シェッフーが姫乃っちに見られてないとピザ焼きたくないってごねてるよー?」
「あ、はい。今行きます。では係──御主人さま、今しばらくお待ち下さいませ」
「は、はぁ……」
呆けたような返事しか出ず、小野寺はメイド喫茶とは一体なんなんだと、考えようとして止めた。
そして目を閉じて、静かにピザを待った。
「お待たせ致しました御主人さま……」
「いえ」
可愛いピンクのミトンをした久遠が、出来たてのピザを持って現れた。
しかし何処か元気が無さそうに見えた。
「御主人さま……いえ、係長」
この二人、結構素に戻るなぁ、と小野寺は思った。
ここまで頻繁に、よくもまあスイッチの切り替えが出来るもんだ。と、ある意味感心をした。
「なんでしょうか?」
「私はドジっ娘メイドとしての仕事を与えられています」
「そうですか」
早くピザをくれ。
小野寺は待ちきれぬ心をなんとか静めようと試みる。
「しかし躓いたフリをしてお客様に水を掛けたりは、とても失礼に当たると思いまして……」
久遠の手にはピザが。小野寺は、おいまさかそれを投げるとか言わないよね? と、身構えた。
「課長……これを投げるのが私の仕事でしょうか?」
「ま、待ちなさい……!」
やはりと思った小野寺は、右手を突き出して制止した。
「宜しいですか久遠さん? 我々の仕事もそうですが、この世の全ての仕事には、共通する最優先事項がります。何だと思いますか?」
「……相手の注文通りかどうかですか?」
「答えは『相手が喜ぶかどうか』です」
「……」
「久遠さん。今のあなたの仕事はドジっ娘メイドです。ならば相手が喜びそうなドジをするのです」
小野寺は人肌ほどに冷えてきたピザの一角を取ると、久遠の口へと運んだ。
「あーっ! 姫乃っち御主人さまのピザ食べちゃったの~!? ナイスドジっ娘なんだぁ~」
ナイス言うな。そういうように、小野寺は一つ咳払いをした。
「喜ばれる仕事を続ければ、多少のミスなどどうってことありませんよ。では」
小野寺は久遠からピザ皿を受け取ると、荒々しく頬張り始めた。
飲み物や美味しくなるおまじないだとか、お口拭きのご奉仕だとか、そんなことは全て考えられなくなるほどに、久遠の頭の中は真っ白になっていた。
「ごちそうさまでした」
ピザを食べ終えると小野寺は素早く席を立った。
「あれ? 御主人さまお帰りで?」
給仕をしていた七瀬がひょっこりと顔を出す。
「ええ。では」
ピザ一枚では足りなかった小野寺は、帰りのスーパーで食材を買い、自宅でオムライスを作ることにした。
「……あの味には程遠いですね」
せめてメイド喫茶に行かずにあのオムライスが食べられないかと思った小野寺だったが、その方法が見付からなかった。