オムライスですか……
「やってしまいました……」
光差す窓気の最奥のデスクに、死に体の係長小野寺が顔を覆い隠して塞ぎ込んでいた。
「小野寺係長どうしたの?」
「何でも取引先のお客さんの名前を間違ったみたいよ?」
小野寺の異様な雰囲気を見た社員達に、次々と噂話が通り始める。
普段はクールで仕事も完璧に熟す小野寺。
部下に指導する立場の人間が、初歩的で多大なる失礼極まりないミスをするなど言語道断。
小野寺は自らの不甲斐なさに憤りを感じた。
「七瀬ただいま戻りました!」
まるで通夜のようなオフィスに、明るい声が染み渡る。
事情を知らぬ七瀬はそのまま、小野寺のデスクの前へと歩き出した。
「係長、出先から今戻りました」
その言葉に、小野寺がゆっくりと顔を上げた。
が、顔色がとても悪く、普段の鋭い目つきは何処にも見られなかった。
「ああ、おつかれさまです……あ、明日お得意様にお渡しする見積書。お客様の名前が間違ってましたよ……」
「ゲッ!!」
七瀬は思わず声が出た。入社直後から相手の名前だけは間違えないようにと、多方面から口を酸っぱくして言われ続けたからだ。
「うわぁ……」
見積書を確認し、七瀬は絶句した。
本来【太田様】となるべき所を【極太田様】となっていたのだ。
「なんですか、これ?」
「……私が聞きたいです。もしかして七瀬さん、これを『おおた』と読むことを知りませんでしたね?」
「へぇ~。これ、おおたって読むんですね」
「……あなた明日の打ち合わせで何とお呼びするつもりだったんですか……」
「す、すみません!」
「……まぁ、いいです。次から気を付けて下さいね」
一時間強のお小言を頂戴するのかと戦々恐々としていた七瀬は、肩透かしを食らったかのように拍子抜けしてデスクへと戻っていった──。
「お先に失礼します!」
「おつかれさまでした」
定時ジャストで七瀬がオフィスを出ると、その日一日塞ぎ込み仕事にならなかった小野寺も、身支度を始めた。
「すみません。今日はこれで」
「あ、お疲れ様でしたー」
そして普段は帰ることの無い時間帯の街中を静かに歩き、とある商業ビルの前で立ち止まった。
「おかえりなさいませ御主人さま♪ 会員証を拝見させて下さいにゃ♪」
初めて来たときと同じ女が、屈託のない笑顔で自分を出迎える。人間とは仕事となればここまでなれるのかと、ある意味感心をした。
「御主人さま本日の御指名などはおありでしょうか?」
「いえ……ななせさんを」
「はーい♡ ななせさんですねー♪ ではお席に御案内致しますにゃん♪」
店内は夕食時もあってか、前回よりも少し賑わっている様に見え、小野寺は案内された一番奥の席へと腰を落ち着かせた。
スーツ姿の客は他に居らず、小野寺は自分が少し浮いてしまっているのではないかと考えたが、すぐに忘れることにした。
私服姿でメイド喫茶に居る自分の方が、余程浮いている気がしたからだ。
「……アプリですか」
テーブルに置かれたチラシには、みけねこハウスの来店アプリの広告が載せられており、来店予約やメイドの指名がアプリ一つで出来ることを、小野寺はとても便利な世の中になったもんだと感心をした。
「御指名ありがとうございます御主人さま♪ ななせただ今参上にゃ…………お、小野寺係長ぉ……?」
テンション最高潮からの、急降下。メイドななせはまたもや訪れた小野寺に、ただならぬ緊張感を放ち始める。
「……そう固くならないで下さい。今日は先日のお詫びに来たのです」
「えっ?」
「いくら書類を届ける用事があったとは言え、職場に押しかけるのは些か失礼が過ぎました」
小野寺が静かに頭を下げた。
それを見た七瀬は慌てて両手を振り回し止めさせようとする。
「そ、そそそんなっ! あれは私が忘れたのが悪いんです! はい! 小野寺係長は何も悪くはありませゆ!! それに会員証までお作りさせてしまって!!」
ばっちり噛んだ舌がヒリヒリとした。
小野寺はおもむろにメニューを広げ、口の中をモゴモゴしていた七瀬に問いかけた。
「ついでに何か頂くとしましょう。何かお薦めはありますか?」
「あ、オムライスどうですか? 今日はフリーケチャップデーなんです」
「フリーケチャップとは?」
「ケチャップで書く文字が今日はタダなんです」
メイドの設定を忘れ普通に接客をする七瀬。小野寺はメニューに写るオムライスの写真を見て、さらに問いかける。
「ななせさんが作るのですか?」
「いえ、どっかで働いていた元一流シェフが居ますので。もちろん味は保証しますよ?」
「では、それを一つ」
「ご注文ありがとうございます御主人さま♪」
ようやくメイドを思い出した七瀬。奥へと向かい既に出来上がっていたオムライスをトレイに乗せ、ゆっくりと歩き出す。
フリーケチャップデーの夜は殆どの客がオムライスを頼むため、多少順番が前後しようがオムライスを作っておけばすぐにはけ、万が一時間が開いてもチンすれば美味しい作りとなっていた。
「おまたせ致しました御主人さま♪」
「…………」
小野寺はその出来に腹の虫を鳴かせてしまった。
見るからに美味そうな、出来の良いオムライスだった。
「なんて書きますかにゃん♪」
「一つ気になるのですが、ケチャップで綺麗に書けるのですか?」
「口が細いキャップになってますから、難しい漢字もバッチリですにゃん♪ バラとかも漢字で書けるみたいですよ? まあ、私はバラなんか漢字で書けませんけどね」
「……そう、ですか」
小野寺はしばし考え、そしてスマホを取り出し文字を打った。
「これでお願いします」
「?」
七瀬に見せた画面には【渡邊】の文字があった。
「なんですか? これ」
「私は今日、あなたと同じミスを犯しました。お客様のお名前を間違えてしまったのです」
「へー、珍しいですね。係長がミスするなんて」
「事もあろうか【渡邊】を【渡邉】と書いてしまったのです……!!」
「一緒じゃないですか」
「間違いは間違いなのです」
極太に言われたくはない、と言われている気がして、七瀬はそれ以上深入りするのを止めた。
そしていつも通り、口の細いケチャップで器用に、文字を書き始める。
「はい♪ 出来ましたよ御主人さま♪ 美味しくなるおまじないはどうですか?」
「結構です」
「あ、はい」
「いただきます」
小野寺はスプーンを手にするとガツガツとオムライスを片付け始めた。
普段は物静かな言動の小野寺だが、食べる時は荒々しく、そして豪快に口へ運ぶ。
普段見ぬその迫力ある行動に、七瀬は言葉を失っていた。
「ごちそうさまでした」
あっと言う間にオムライスを平らげた小野寺は口を拭き、席を立った。
「これでもう渡邊様の名前を間違うことはありません。ありがとうございます」
「……い、いえ。普段お昼は静かなのに、アレなんですね」
「昼食は仕事をしながらですので」
小野寺は店を出た後も、自分の周りにオムライスの匂いが漂っている事に気が付いた。
「スーツに染み付いてしまいましたか?」
だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
次回、新たなるメイドさん登場。
潔癖な程に真面目な根暗女子がドジっ娘に初挑戦。
熱々のピッツァを小野寺の顔にぶん投げる。