メイド喫茶ですか……
昼時になると窓際の席は最高に陽当たりが良くなり、殺人的な眠気がサラリーマン達を襲う。
新人サラリーマンの七瀬優香も懸命に睡魔と闘いながら仕事に励むが、コーヒーのおかわりが増えるだけで、一向に眠気が治まる気配が無かった。
「……七瀬さん」
「──ひゃっ! 寝てません! 大丈夫ですはい!」
うたた寝をしていた七瀬に、係長である小野寺哲がそっと声を掛けた。鋭い目つきに光る眼鏡が、七瀬の眠気を一瞬で吹き飛ばす。
「そう気張る必要もありません。ゆっくりと落ち着いて、一つ一つ片付けて下さい」
そう言って七瀬に三枚の書類を手渡す小野寺。
それは今朝、七瀬が提出した企画書だった。
「誤字脱字が多いです」
訂正箇所に貼られた付箋の数は二十を超えており、七瀬は「す、すみません」と頭を下げた。
「明日の朝で大丈夫ですので。……それと、あなたは字がとても綺麗ですね」
小野寺は席に戻り自らの仕事を片付け始める。
「……初めて褒められた」
七瀬は空調の風でフワフワと揺れる大量の付箋を見つめながら、小野寺の言葉を反芻していた──。
「お先に失礼します!」
「お疲れさまです」
定時のチャイムが鳴ると、七瀬は足早にオフィスを後にした。残った仕事は家でやる。七瀬にはそうせざるを得ない理由があった。
「おかえりなさい御主人さま♪」
七瀬はメイド喫茶【みけねこハウス】で働いていた。
決して給料が安いとか、副業OKだから割の良いバイトにしようだとか、そんな事はなく、ただメイド喫茶で働くことが彼女の夢であったのだ。
会社には副業の際に何処で働いているか申請しなければならないが、七瀬はメイド喫茶が複合ビルの中なのを良いことに、店の名前を偽って提出をしていた。
「おかえりなさい御主人♪」
みけねこハウスに、パリッとしたスーツ姿の男が来店した。とても落ち着きのある雰囲気の中、男の光る眼鏡の奥には得体の知れぬ眼差しが見えた。
「御主人さま当店は初めてでしょうか?」
「……ええ。七瀬、さんはお手隙でしょうか?」
「ななせたんを御指名ですね? 当店会員制となっておりまして、先ずは会員証をお作りしないといけないのですが……宜しいですかにゃん?」
出迎えた質素なメイド服の女は特に気にすることも無く、その鋭い眼差しの男にいつも通りの接客をした。
仕事柄多様な客が来る。彼もその中の一人なのだ。
「……分かりました」
「ありがとうございますにゃーん! ではではこちらに、しつよう事項と~、入会金一万円を頂戴致しますにゃん♪」
「…………」
男は困惑した。
たかがメイド喫茶に入店するのに一万円も取られるのか、と。
ただ、了承した手前、断るに断れない状態なのと、よく見れば壁に貼られた注意書きの一番隅に入会金の旨が書かれていたので、男は自らの注意不足とし、甘んじてこれを受け入れることにした。
「……くっ! 書類の文字が汚くて読み辛い……!」
個性的な丸文字で書かれた用紙に、男は悪戦苦闘を強いられた。普段見やすく綺麗な文字を心掛けている彼にとって、わざと崩したかのような難解な文字は見慣れぬ物であった。
「……出来ました」
「御主人さまありがとうございます♪ それではご案内致しますね♪ 当店の詳しいシステムは御指名のメイドから御説明があります♪ それでは御ゆっくりどうぞ~♪」
店内は想像以上に明るく、他の客の姿も散見出来た。男が想像していたような如何わしさは何処にも見当たらず、ただ普通の喫茶店にメイドがいる。そんな店だった。
「ではではこちらのお席にどうぞなり~♪」
「…………」
男は無言で席に着くと、案内をした女は足早に持ち場へと戻った。
そしてすぐに別のメイドが現れた。入口で見たのとは違う、黒のワンピースに白のエプロンのロングスカートタイプのメイド服を着た髪の長いメイドだった。
「御指名ありがとうございます御主人さま! 初めまして♪ メイドのななせで……ござぃ……」
にこやかな笑顔のメイドの顔が、男を見るなり一瞬で強ばった。
「──お、小野寺係長ぉぉぉぉ!?!?!?!?」
そして、それまで取り繕っていた笑顔は完全に消え、メイドななせは完全にパニックに陥った。
「な、なななな何で係長が!? も、もももしや私がこの店で働いている事が会社にバレてしまったのですか!?」
訳が分からずクルクルと回り出す七瀬に目をやると、小野寺は静かに口を開いた。
「バレるもなにも、ココの住所は副業申請書に記載済みの筈ですが。……それとも、何か偽りが?」
「いっ!? いえいえいえいえ!!!!」
申請書に記載したのは下の階にある普通の喫茶店の名前だとは口が裂けても言えない七瀬に、小野寺は鞄からクリアファイルを差し向けた。
「お忘れ物ですよ。期日は明日の朝です。お忘れ無く」
それは付箋がびっしりと貼り付けられた、昼間の書類だった。
七瀬は忙しさと眠気に気を取られ、書類をデスクの上に忘れてきてしまっていたのだ。
「す、すみません……!! ありがとうございます!!」
「では、私はこれで……」
「えっ!? もうお帰りですか!?」
「お帰りもなにも、私はそれを届けに来ただけですので……」
「は、はぁ……」
七瀬は呆然としてしまった。
「あ、そうそう」
「は、はいっ!?」
「こちらの入会用用紙ですが……」
「な、なななんでしゃうか!?」
「文字が汚くて読めませんでした。手書きが宜しいのでしたら、あなたが作られては如何ですか?」
「──!?」
「……では」
七瀬は真っ赤になり、ただ立ち尽くした。
直属の上司がいきなり自分のメイド喫茶に現れ、ただ書類を渡して帰る。
何が起きたのか理解するのに、しばらくの時間を要した──。
「……メイド喫茶、ですか」
小野寺は帰りの足、その鋭い目つきで遠くを見据える。先程まで居たメイド喫茶がもう遠くになった。
副業申請書の申告虚偽については、今暫く伏せておくことにした。
夜にもう一話、あるそうです。