遠くへ
「明日、楽しみだね」
菫は彼をむいて瞳をとらえながら、しなをつくった上目づかいで覗き込むようにして問い掛けると、彼はこっちを半ば見下ろしたまま端整なそのつくりはちょっとも変わらず、聞きようによってはかえって不機嫌にさえひびく優しくもあしらうような声で、
「そうだね」
と、つぶやいたなり再びだまって視線を戻し、話をひろげようとの素振りもないその振る舞いは、菫にはもう慣れっこなことなので、今更不満の抱きようもなく、むしろそれとは逆にこっちの話に乗っかってあれが見たいこれも見たい、あっちに行きたいこっちを訪れるのもいいな、などと膝を乗り出し上機嫌で食いついて来られたらかえって面食らい奇異に思ったかもしれないのだが、今の一言から察するに今日もその気色はなく、常のすげなさと変わらぬので本当なら訝るべきところも無いようなものの、ただし今回は嬉しくも驚く事に、彼の方から遠くの水族館へ行こうと誘ってくれたのである。
華やかな場所を避けたいというわけではないものの根っからの遠出嫌いの彼は、上下三四駅の間で飲食から洋服は勿論、自分の趣味の買い物までひと通り済ませてしまえるのをいいことにして、極力その範囲外に足を運ぶのを厭い、仕事を別にすれば何らかの特別な事情や用事に出くわさないかぎり敢えて自分からその圏外へと出向くのは稀であることを、いつのことであったかはもう忘れてしまったものの、二人で楽しく杯を傾けていた折に、あまり過ごさないよう量を抑えていた自分の前で、気持ちの良いくらいに次から次へと空けて重ねるまま、いつもよりすこぶる饒舌になりながら陶然と赤みの差した顔で得々と教えてくれたのを、菫は今になってもありありと思い出すのであるが、しかしその時は不思議な人もいるものだと思ってかえって妙に感心してしまうまま、それなり特別意見もしないで日々を過ごしていた。
が、それから彼と一緒にいるうち、その外へと二人で出掛けたいとの想いは度々菫を襲った。
菫はそれを夢見るたび、出し抜けに自分が言い出して彼の不興を買うことはとてもできないと憂うまま、ぽつりぽつり次第次第に積み重なり重なった不満が俄に爆発してとても堪えきれなくなった折々、といって勿論彼を誘うことはできずに仲良しで付き合いのいいお友達と一緒に都心やそれよりも遠いものの賑わいのある街、あるいは風情のあるところを選んで繰り出してそれなりに欲を満たしていたつもりではいたものの、今回彼から片道一時間半もかかる水族館へ行こうと誘われてみると、それらがはじめから仮初めの喜びでしかなかったのに菫は図らず気づかされると共に、ぽっと嬉しくなり、この遠出は絶対に叶えなければと心に誓ったのである。
だから今夜のうちに彼の意志をもう一度確かめておいて、その気分を妨げないようにしつつ温めておきたいとの下心もあり、ひとつ彼の賛成してくれそうな一言をと思うまま、考える程もなく思いついた言葉を投げかけてみると返って来た台詞が、予想通りといえばそうではあるし、彼の表情、声の抑揚も常とそれといって変わりもしないはずなのに、と思ううち、実は心密かに温かなものを期待していた自分に菫はきゅっと思い至ると、今度は悲しみの驟雨に襲われるまま瞼が熱くなってくるのに、思わずすいと顔をそらして見られないようしばらくは独りしょんぼりしていたが急に立つとベッドへ倒れ込んで毛布をひきあげた。
「どうしたの?」
そうすぐさまきいてくれた彼が、おもむろに立ってそっと枕元へ寄って来る気配がして、すると菫の目頭は一層熱くなり、瞳の潤うままさめざめと涙がこめかみを伝うので彼の香りただよう毛布にそれを擦りつけなおしんとしていると、ぎゅっと毛布をにぎる菫の指へ手がかさなって一つ一つ優しくはがされ、じっと瞳が合うまま、菫は両腕をのばすと、彼は刹那唖然とした顔をすぐに和らげてその求めへ応えた。
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