51.混沌
まーちゃんは、ネズミの話に何のことかわからず、俺の顔を覗き込んでくる。
不意に目が合い、時が止まる。急にまーちゃんの愛らしい表情を再確認してしまった。
でも目をそらしたら、そんな考えに気付かれてしまいそうで、同じように見つめるしかない。
吸い込まれそうな瞳に、思考が乱れていくのを感じる。そんな風に無垢な目で俺を見ないでくれ!
『YOU! 彼女をデートに誘っちゃいなYO!』
ちがうちがうちがうちがう!
たとえ誘ったとして、それはデートではない! 断じてデートではない!!
そう! 結婚システムに付き合ってくれたお礼……。
いや結婚システムってなんだよ!! 結婚なんて言葉を軽々しく使ってんじゃねえよ!!
人生で結構重要なイベントだぞ!? 墓場と揶揄されるくらいには!!
じゃないじゃないじゃないじゃない!! 問題はそこじゃない!!
それに、ただのお礼であって、友達と映画見に行くだけで、そんな下心なんてないし!!
「…………。どうしたの? 真っ赤だよ?」
「あわわ、わわわわあわわあわわあわ……」
「大丈夫? 少し休む?」
「あああああっと、あのあああのやな、えっとやな……」
まーちゃんにさえ心配されてしもてるやん!
いや、落ち着け! 落ち着け俺! 素数を数えて落ち着くとかそういうんや!
えっと、1、3、5、7、9……。ちゃう! それ偶数や!!
「ちょっと、飲み物をっ……」
「ひゃっ!?」
手を伸ばした先、そこには、水の入ったコップがあるはずだった。
ただ、ワイは水を飲もうとしてただけ……。
せやのに、現実と重なる虚構では、とんでもないことをしてしまっていた。
その様子を見たネズミは、ニンマリと悪い笑みだ。
「まっ! いきなり胸を触るなんて、トンだケダモノねっ!」
「いや違う! そうじゃなくて!!
俺はただ、コップ取ろうと思って!!」
「手の先にあるのは、コップというよりカップ……。もないね」
「殺ス」
ドスの低い声と共に、まーちゃんはガタリとテーブルの下で、蹴りを喰らわせる。
その勢いで、蹴られたネズミは椅子から転げ落ち、脛を押さえて床を転がり悶えていた。
「ネズミも鳴かずば蹴られまい……」
赤の狼は、こんな時でも落ち着き払っている。
いや、待て! ワイはネズミの心配している場合やない!
「ごめん! ホントにごめん!」
「あっ……、あのっ……。トンちゃんならいいよ……」
「へぁっ!?」
思考停止。ワイの中の世界は、完全に制止した。
あー、今何言われた? え? ちょっと待って?
いやそんな、モジモジしながら顔赤らめられて……。
え? ワイならええん??
えーっと、つまりやで……。事故とはいえ、胸触ってしもて……。
え? それの反応で、ワイならええって? あー、どういう事や?
それはつまり? え? 期待してええってことですか!? って、ちゃーーーう!!
「なっ! 何言ってんだよお前っ!」
「へへへ……」
そっと抱きしめられ、そしてその腕の中へと納まる。
あれ? ホンマになんだこの状況? いやいや、考えてみればいつも通りやけど……。
そりゃ触れた感覚ないんやから、そのやな、いわゆる「当ててんのよ」って感覚はないけどやな……。
だからってワイやったら別にええとか、そういう問題やあらへんわけでやな……。
あっ、感覚はないけど、頭撫でられてるやん。
あぁ、もうこれ……。えっと? なんやこれ??
「それで、話ってなあに?」
そんな目で見つめられたら、もうなんも考えられへんやん……。
もうな、意味わかんないまんま、言うしかなくなるやん……。
「あっ、あの……。まーちゃん、俺と……、映画見に行きませんか?」
「映画……?」
ぽかんと、ただぽかんとした表情を、下から見上げる。
あまりに長い一瞬で……。
虚構も現実も、光も闇も、全てが壊れてしまったような、時間の概念も崩れてしまったような……。
そんな一瞬だった。
けれどそれは、そんな気がしただけだ。世界は壊れてなんていない。
壊れたのは、彼女の中の世界観。
そして、彼女との友情、もしくはそう思っていたかった、俺の中の何か。




