母娘(ははこ)火焔地獄 ――学校の怪談――
平成10年8月中旬、午後1時半。
私は常滑東小学校から3百メートル南西にある丘陵地帯にいた。そこは谷を挟んで常滑東小学校と同じ高さにある。東の方には陶芸研究所の建物が聳えている。西の方を見る。文化会館の大きな屋根が視界に入る。その向こうに競艇場がある。南の方にカーマホームセンターが見える。
東小学校の正門前には幅6メートルの道路がある。南に向かって急こう配となる。百メートル程下る。今度は登坂となる。その途中から西に入ると私が立っている場所に出る。
西に曲がると言っても道幅が2メートル程しかない。陶芸研究所の入り口前の広場に車をおいて歩いている。
うだるような暑さだ。風もない。半袖の開襟シャツが汗でじっとりしている。
10メートル程歩く。数軒の民家が密集している。その中の一軒が焼き物を作っている。急須の石膏型が庭先に並んでいる。日干しである。
民家を過ぎる。道路はまだ伸びている。
昔、東小学校が常滑中学校だったころ、私は学校の行き帰りにこの道をよく通っている。このまま西に行くと下り坂となる。途中道は蛇のようにうねりながら、宝樹院の前に出る。その西側にNTTがある。県道に出ると、西小学校の正門に突き当たる。
この道に来たのは何年ぶりだろうか。私は昭和29年から31年まで中学校に通っていた。中学3年の時、同級生が風邪が原因で死んでいる。
・・・この一帯は当時は墓地だった・・・
墓地は現在、東小学校の西門前に移転している。
私は立ち止まる。後ろを振り返る。百メートル程東に先ほど通った民家がある。その隣に畑が1枚あるだけだ。
今、私のいる場所は、北側が鬱蒼とした竹藪。南側は樹木が生い茂っている。その先は崖地だ。大善院の境内地へと続いている。
中学生の頃、いたずら心や好奇心もあって。崖地に降りている。降りきった所が獣道だ。道に沿って、大小の石仏が所狭しと並んでいる。日が射し込まない。薄暗くじめじめした光景だった。それも今は昔、懐かしい思い出となっている。
・・・この辺りの筈だが・・・
回想から我に還る。周囲を見渡す。そのあたりに目的の家があるかどうか確かめる。
2日前、会社に電話が入る。
家の中が悪くなってきた。修理をお願いしたい。一度見に来て欲しい。
透き通るような女の声だ。住所と訪問日を伺う。
私の会社は建売を業としている。時折、増改築や改装等の話も入ってくる。
約束の時間は今日の昼の1時半。
「こんな所に家があったかしら」私は不安になる。ここに来る前に、住宅の地図を見ている。目的の家は載っていなかった。いたずら電話かも知れない。
私の記憶では、むかしはこの辺は墓地だった。その真ん中に道があり、すぐにも下り坂となる。人1人が歩ける道幅だった。もう10メートルも行くと葛折りになる筈だ。この辺りは山で言えば尾根になる。北も南も崖だ。家が建つような平地はない筈だ。
「まあ、いいか、騙されたら騙されたで・・・」
深刻に考えない方がいい。懐かしい道だ。下まで降りてみよう。
数メートル程歩いて、降り坂に足をかけた時、私は”あっ”と声をあげた。道路の北側の竹藪を切り開いたようにして家が建っている。崖一杯まで家を建てている。
建物は20坪程の平屋、庭はない。表札を見る。
”古田”と出ている。
・・・ここか・・・私は安堵の胸を撫でおろす。竹藪に遮られて屋根が見えなかったのだろう。
よくこんな所に住んでいると感心する。
屋根に瓦は載っているが、全体に波打っている。玄関の引き戸、窓も木の枠だ。建築年代を推定してみる。
・・・昭和30年代前半か、それ以前の造り・・・
ずいぶん古い。建て替えた方が安く上がる。
私は玄関の引き戸を開ける前に、建物全体を値踏みしてみる。外壁は杉板が張り付けてある。コールタールを塗ってあるが、ほとんどはげ落ちている。
外観から建物を判断した上で、玄関の引き戸を開ける。
「こんにちは」声をかける。
家の中は森閑としている。明かりは点いていないようだ。2度3度声をかける。
やがて・・・、「はーい」と澄んだ女の声が響く。
何しているんだろう。そう思う間もない。5~頃の女の子が飛び出してくる。
家の中は玄関の引き戸を開けると、畳1枚程の土間になっている。左手西側に半間の廊下と6帖2間の和室がある。土間の奥に1坪程の板の間がある。その奥がガラス戸で仕切られている。右手東側は台所のようだ。
女の子が走るようにして、奥の和室から出てくる。
おかっぱ頭、眼のくりくりした可愛い顔をしている。色が白い。頬がふっくらとしている。
「おや?」私は瞠目する。着物は今どき珍しい、紺色の絣である。絞り木綿の帯を締めている。
女の子は大きな眼で私を見ている。物珍しそうに瞬きもしない。物言いたげに、小さな唇が開く。
「あの・・・」私が声をかけようとする。
「あら、すみません。お昼寝してたものですから・・・」
乱れた髪をかき上げながら、婦人が出てくる。畳の上に正座する。
「どうぞ、お上がりください」丁寧なあいさつだ。
婦人は浴衣姿だ。白生地に紅梅をあしらっている。結び帯は赤の絞り。髪は後ろで束ねている。
私は呆気に取られて、しばらくは婦人の艶姿に見とれていた。面長の美人だ。女の子と同じような大きな瞳だ。きれいな富士額、筋の通った形のよい鼻、朱をさしたような唇が印象的だ。
「さっ、どうぞ」
私が上がるのをためらっていると思ったのだろう。手刀を差し出して、上がるよう催促する。
「あっ、すみません」私は土間に靴をそろえて上がり込む。外は熱いのに、家の中は清々しい。
私は畳の上に正座して名刺を差し出す。
婦人は押し頂くようにして名刺を受け取る。女の子は婦人の側に張り付くようにして立っている。
私は婦人と対座していた。彼女の方から話を切り出すのを待っていた。婦人は名刺を手にしたまま、涼しげな表情で私を眺めているだけだ。
「あの、修理するところを見せてもらえませんか」仕方なく私の方から口を切る。
「あら、ごめんなさい」婦人は白い歯を見せて笑う。
つっと立ち上がる。女の子の方に手をやる。
「こちらへどうぞ」婦人は奥の和室を通って、ガラス戸の仕切の所に私を案内する。
「こちらがトイレ、こちらがお風呂・・・」トイレとフロ場の壁の漆喰がはがれかかっている。
「これを今様に板張りにお願いしたいのですが・・・」
今様にという物言いに、私は思わず苦笑する。
「あら、おかしいですか」
「いえ、すみません。これ位のことなら訳ないですよ」
奥の和室に戻る。婦人は西側の壁を背にして正座する。女の子もペタンと横座りする。私はあぐらをかく。
「見積りなら、2~3日で出来ますが・・・」
婦人は私の顔を凝視している。女の子も私の顔を見つめている。
・・・見積りは関心ないのかな・・・
気詰まりな雰囲気だ。私は所在なさそうに周囲を見渡す。
隣りの和室は南側の廊下があるものの、外の陽気があふれて明るい。2つの和室は一間の敷居でつながっている。建物は古いが手入れが良いのか、柱も磨き抜かれている。壁には雨漏りのシミが目立つ。
隣の南側の和室に床の間がある。一輪挿しの花が興を添えている。仏間はない。神棚が観音開きになっている。
あちらこちらに眼をやる。狭い家の中、仕方なく2人に眼をやる事になる。
・・・何か勝手が違う・・・
私は戸惑いを隠さない。普通なら、ここで「大体の見積もりはいくらぐらいか」客の方から声がかかる場面なのだ。
婦人と女の子は私を見ている。ただ眺めているというのか、親しみのこもった表情だ。何かを訴えかける雰囲気なのだ。
・・・まずいな・・・,はいさようならと言って席を立つ訳にもいかない。かと言ってこのまま座している訳にもいかない。
2人の座している所は3方が壁だ。北側に1間幅の肘掛け窓がある。そこから明かりが入り込んでいる。窓はスリガラス。光りは淡い。2人の姿は薄暗い。
2人の背後の壁に絵が描けてあるのに気付く。今まで気づかなかったのが不思議なくらいだ。5号くらいの大きさだろうか。新聞紙を4つ折りにした大きさだ。
絵に焦点を定める。急に絵が壁から飛び出すように大きく見える。建物が燃えている構図だ。
「後ろに絵がありますね。何の絵ですかね」話の間を摂る。
私は婦人に眼を移す。年頃は30くらい。古風な感じだ。正座したまま身じろぎもしない。
「はい、あの絵は、小学校の校舎が焼かれた時の光景です」
「校舎?」私の心の奥底に引っかかるものがある。
「幽霊が出たので燃やしたのです」
私の心の闇の中で、何かが動き出す。
女の子がおかっぱ頭を撫ぜつける。足を組みなおそうと心持ち体を動かす。赤い帯が炎のようにゆらめく。婦人のゆかたの紅梅の絵柄が火焔のように燃える。
・・・かごめ、かごめ、かごのなかのとりは・・・、
小さな澄んだ声が女の子の口から洩れる。
もの哀しい旋律だ。室内を包み込むような、ねっとりとした雰囲気が拡がっていく。
「あっ!」私は喉の奥で叫ぶ。
尾てい骨から激しい衝動が全身を包み込む。氷柱が背骨を突き抜ける。脳髄に達する。悪寒が体中を支配する。
目の前が暗くなる。婦人と女の子の姿が宙に浮いている。2つの体が燐のように輝いている。
・・・夜明けの晩に、鶴と亀が滑った。後ろの正面、だあれ、・・・
可愛い声が私の心の底にぐいぐいと付き刺してくる。
うずもれた記憶が、鮮やかに甦ってくる。
小学校で焼き殺された幽霊は私達です。婦人の声が私の耳朶に響く。怖ろしい話なのに、婦人の瓜実顔は優しい。大きな眼が慈しむように私を見ている。女の子の表情は寂しい。母親の側で膝を正している。
2人の声以外は何も聞こえない。室内は暗闇だ。私の体も宙に浮いているようで心もとない。体は金縛りにあったように身動きできない。
悪寒が消える。恐怖心が払拭される。なのに声が出ない。瞬きも出来ない。2人の姿を凝視するのみだ。
「あなたは・・・」私は心の中で叫ぶ。
「私は古田早苗、29歳です。娘は雪子、7歳です」
私の内心の声に呼応して、婦人は唇を動かす。
しばらく沈黙が続く。
母と娘は悲しそうに顔を伏せる。2人の姿が闇の中から消える。私の脳裡に、過去の記憶が鮮明に吹き上げてくる。
今年、私は56歳になる。
私が小学校の幽霊話を聞いたのは小学校4年の最後の年、9歳の時だ。忘却の彼方に飛び散っていた思い出、今、脳裡のスクリーンにありありと浮かびあがってくる。
――昭和27年2月、厳冬――
私の家は築百年の、田の字型の造りである。
玄関を入ると10帖の三和土、右手は納屋、左手は6帖2間と8帖1間の和室。板縁の台所。南側に1間の広縁がある。台所の東側は、玄関の三和土と地続きに8帖の土間がある。
土間の片隅に竈が2基ある。盆や正月、その他冠婚葬祭があると、親戚中が集まってくる。田の字型の家は真中に大黒柱がある。障子や襖で仕切られている。家は夏向きにつくられているので、冬をしのぐには、火鉢ぐらいしかない。後は綿入れを着て寒さを防ぐのみ。
私には2人の姉がいる。下の姉とは3つ違い。
私はこの姉と台所で、火鉢を囲んで餅を焼いていた。今は餅など1年中食べられるが、45年も昔は正月だけだ。餅つきは年の暮れに家族総勢で搗く。子供の私には待ち遠しい正月だった。
その年の1月中旬に、私は同級生から、小学校に幽霊が出るらしいとのうわさを聞いていた。気になっていたので、何気なく、餅を焼く姉に聞いてみた。姉はその噂は本当だと話してくれた。
姉の話をする前に、当時の小学校の様子を述べる必要がある。
現在は当時の面影を偲ぶ事すらかなわない。
今、常滑市立西小学校と呼ばれている学校は、私が在学中は常滑町立小学校である。常滑市になったのは昭和29年4月1日だ。
約2千坪の敷地の南半分が校庭である。北半分に木造の古い校舎が3棟、東西に川の字に並んでいた。長屋式の建物だ。北側に長い廊下が走っている。
一番北の棟から1年生、真ん中を2年生、南端の棟を3年生が使っていた。3年生用の校舎の東側に木造の講堂が建っていた。建物の内部だけでも3百坪ある。1年生から6年生まで全校児童約6百名の収容が可能だった。
校庭の南端に3階建ての木造校舎が建っている。東西に長い。1階に4年生、2階を5年生、最上階を6年生が使用していた。組は1年生から6年生まで6組あった。
校庭の西端に職員室があった。3階建の校舎と3年生用の建物を結ぶ形で建ち並んでいた。約8百坪の校庭を囲むようにして、この字型に校舎が建っていた。
職員室の南と北の端、3階建の校舎と3年生用の校舎の間に便所や手洗い場が設置されていた。
校舎と校舎、教職員室は屋根付きの渡り廊下で結ばれていた。便所はその後ろに隠れるようにして配置してある。臭いものには蓋の譬ではあるまいが、廊下と便所の間には目隠しの板塀が、昼の明りを遮っていた。
数百人の児童が利用する便所だが、男子と女子の区別はなかった。小便用はコンクリートの床より10センチばかり高い。幅30センチほどのコンクリートの台がついている。小便をする位置だけ、窪みがついている。20名ほどが同時に使用できる。建物の上の方に明り取りの小さな窓があるが、昼なお暗い。
大便用は小便用の背後にある。10棟くらいが南北にずらりと並んでいる。中は板張りだ。木製の羽板形のいわゆる”きんかくし”がついている。その前にしゃがみこみ、用を足す。杉板を1枚張っただけのドアがついている。中から閂をかける。
私は小さい頃から腸が弱い。下痢に悩まされて、何度もこの便所のお世話になっている。大便用は外からの光が入らない。暗い。子供心にも怖いと言う印象が強かった。
便所の西側、南西の角に図書館があったが、館と呼べるほどの建物ではない。中には10人も入れば満室になる。図書室と言った方が適切だ。
当時姉は小学校6年生、卒業間近だった。
姉は話し上手ではない。朴訥として、小声でぼそぼそと喋る。話ぶりにも抑揚がない。餅を焼きながら、私の顔もみず、陰に籠った声を吐き出す。
講釈師、見てきたような嘘を言いという、表現がある。
姉の話ぶりは、自分が体験したような、微に入り細を穿つ内容だった。
私は瞬きもせず、固唾を呑んで姉の話に聞き入る。身を縛るような寒さが室内を支配している。火鉢の中の赤い炭が、時折パチッとはぜる。その音以外、姉の声だけが地の底から湧いてくるように響く。
森閑として、身動きする事すら憚られる。
以下姉の話。
昭和27年当時、3階建ての校舎は築10年ほどだった。
それ以前は20坪の平屋の民家が立っていた。その北側、校庭の中程に、大人2人が抱える程の杉の木が立っていた。よって校庭はなかった。児童たちは川の字型の3つの校舎の中庭で遊んでいた。
平屋の家に住んでいたのは30歳くらいの戦争未亡人と7つぐらいの女の子。
町としては、将来、校舎が手狭になることが予想されていたので、8百坪あまりのこの土地を手にいれたかった。戦争未亡人は先祖伝来の土地だからといって、売ることを頑なに拒みつ続けてきた。
万策尽きたのは町だ。小学校を他に移転する事も真剣に検討された。
小学校の周辺は常滑町内の繁華街にあった。
西の方は南屋敷と呼ばれる商店街や町役場がある。南は住宅街がひしめく。その奥に、銀座通りと呼ぶ、新道の商店が軒を連ねている。町内1番の繁栄を誇っていた。
北側は住宅街が密集、その向こうに土管や火鉢などの製陶所が多く固まっていた。レンガ作りの煙突が林立している。
東側に陶磁器会館がある。タイル張りのモダンな建物だ。その奥に宝樹院、その周辺には道幅の狭い古い町並みが軒を連ねている。
小学校の児童は、主にこの周辺の家庭から通っている。小学校を他に移すとなると、中学校のある、東の方の丘陵地帯しかないが、周りの住民からの反対が強い。町としては何としてでも、戦争未亡人を、辛抱強く説得するしかなかった。
そんな中、戦争未亡人の家が火事で焼けるという事件が起こる。2人は焼死体で発見される。未亡人の土地の相続人はいなかった。町が土地を収用する事になる。
問題は、その敷地の真ん中に屹立する巨木=神木の扱いだ。邪魔だから切り倒すと言うのが当然の成り行きだ。
問題なのは、その杉の木を伐採する者がいないという事だ。
昔この一帯は神社地で、杉の木が神木である事を知らぬ者はいない。木を切ったら死ぬ。誰もが固く信じていた。祟りを恐れて、誰1人として応じようとはしない。
困り果てたのは町だ。やむなくこの事実を知らぬ他県からの流れ者に頼むことにした。陽のあるうちに、この木を切り倒したら、大金をやるとけしかける。結局、要求に応じたのは、九州からの炭鉱離職者だ。国策で石炭産業は繁栄を誇っていた。
彼は持ち前の大きな体で、仲間を殴り殺して九州を遁走している。彼にとって幸いなのは、殺しの現場を誰にも目撃されていなかった事だ。そのまま働いていても良かったのだが、いつ犯行がバレるかも知れない。その不安と恐怖の為に出奔した次第だ。
常滑に来て、窯屋で働く。町から木を倒したら大金をやると聞いて、1も2もなく名乗り出る。常滑に来て間がない。神木の話は知らない。たとえ知っていたとしても、1年間遊んで暮らせるだけの金に眼がくらんでいる。欲のためには命さえ捨てるような男だった。
町の関係者、教育委員会のお歴々、町内の有志、有力者、町会議員、町民などが見守る中、男は、柄の長い斧を振り上げる。
杉の木に一撃を加える。
その日は澄み切った、小春日和という。風がない。森と鎮まりかえっている。周囲の者は固唾を呑んで見守っている。老人や神職、住職などは両手を合わせて、伏し拝んでいる。
杉の木はびくともしない。上の方の葉が僅かにさわさわと揺れる。突然、一陣の風が、木を巻き込むようにして、地面の砂塵を吹き上げる。斧を振り下ろす男に襲い掛かるように吹き荒れる。
「おお・・・」周囲から驚きとも恐れともつかぬ声が上がる。
「なんまいだ、なんまいだ・・・」念仏の声が漏れる。
男は身を屈める。風の吹き去るのを待つ。
風が止む。呼吸を整えた男、2つ3つと斧を振り下ろす。さしものの大木も、身を震わして揺れる。くの字型の切口が大きくなっていく。
男は物の怪が取り付いたように、何度も何度も斧を打ちおろす。切口から樹液がしたたり落ちる。
「あれ、あの色! 血!・・・」
叫ぶ声。「おお!」声は祟りへの恐怖に満ちている。杉の木の切り口は真っ赤だった。流れ出す樹液は血のようだ。
今さら――、作業を中止する訳にはいかない。男は恐怖の色を漲らせている。渾身の一打一打を振り下ろすしかないのだ。周囲の人々もそれを見守るしかない。
男は上半身裸、吹き出す汗もものともしない。炭坑で鍛えた肉体だ。斧を軽々と振り下ろしている。
1時間、2時間と過ぎる。3時間が過ぎる頃、さすがの男も息が荒くなる。切口も3分の1を超えた。男の動作はやや緩慢になるが振り下ろす腕を休めようともしなう。
朝8時に伐採を始めている。陽は中天にさしかかろうとしている。男は足を踏んじばる。リズムをとりながら斧を振り下ろす。正午近くになる。切口がようやく半分程に達する。
・・・もう少しだ・・・
男は水を飲む。作業に取り掛かる。
杉の木は葉が生い茂っている。一撃される度に、木の揺れが大きくなっていく。男があと少しと呟いたのは、もう1時間程頑張れば、木自体の揺れで倒壊すると見たのだ。
杉の木の切り口はますます赤くなる。滴り落ちる樹液も多くなる。一撃、斧が振り下ろされる。樹がきしむ。悲鳴をあげている。血が流れる。断末魔の叫び声が聞こえてくる。誰の目にもそのように写っている。
男にはそれが見えないのか、鬼の形相だ。ただひたすらに斧を振り下ろす。
やがて・・・。杉の木は力尽きる。ゆっくりと倒れ始める。木を裂く音が響き渡る。死ぬ前の苦悶の喘ぎだ。
人々の心に言い知れぬ恐怖が走る。
ある者は口をわなわなと震わせ、神木の倒れるのを見守る。ある者は顔を伏せ、両手を組み、祈りを捧げる。またある者は、改悛の情に囚われる。恐怖と後悔の入り混じった表情で、木の悲鳴を聞いている。
真の恐怖はこの直後から始まる。
神木が崩れ落ちていく。鳥の群れの羽の擦れるような音を立てて・・・。地の底から沸き起こる甲高い破裂音が響く。
神木が倒れる。鈍い地響きが周囲を圧倒する。
・・・終わった・・・誰しもがそう思った。男は斧を落とす。2歩3歩よろめく。何やら訳の分からぬ事を口走る。天を仰ぐ。
この時だ。この情景を見守る人々の間から悲鳴が発せられる。
男は口から血を吐き出す。全身の毛穴から血がにじみ出す。全身が真っ赤になる。男の体が崩れるように地面に倒れる。男の周りは血の海と化す。
「祟りじゃ、祟りじゃ」初老の神職が喚き散らす。辺りは騒然となる。
――なんまいだ、なんまいだ・・・――
念仏を唱える声が流れる。宝樹院の和尚だ。それに和する声、あちらこちらから読経の声が周囲を圧倒する。血に染まって倒れた男と、伐採された杉の木への、町民の供養が続けられる。
数日後、男は荼毘に付せられる。無縁仏として葬られる。神木の切り株が抜かれる。樹々共々、灰になるまで焼き尽くされる。
その後、敷地に注連縄が張られる。常石神社の宮司によって地鎮祭が盛大に行われる。
神木を倒した関係者や、その周辺の町民は、異変が起こらぬかと、毎日、身を小さくして過ごしてた。何事もなく時が流れていく。彼らは安堵の情に浸る。
だが――、それは嵐の前の静けさにすぎなかった。
校庭の南端に3階建ての校舎が建築される。職員室、便所も新設される。講堂も建てられる。
盛大な開校式の後、この周辺の児童のみならず、山方、北条地区の児童も一同に集められる。結局、将来の児童数の増加を見込むと言う当初の計画はどこかへ吹き飛んでしまった。
常滑町立小学校として新たに出発する事になる。
1ヵ月たち2か月が過ぎる。児童が増えて賑やかになる。3ヵ月が過ぎ、半年ほどたつ頃、3階建ての新校舎の児童の中に頭痛や吐き気に悩まされる子供が出る。
子供は本来、1つ所にじっとしていない。腕白盛りなら、いたずらをしたり、長い廊下をどたどた走り回る。大声で喚いたり、あちらこちらを駆けずり回る。
半年も過ぎると、半病人のような蒼い顔の子供の姿が見受けられるようになる。1年も経過すると各教室に目立って多くなる。
遂に嵐がやってくる。誰も気づかないうちに、児童の心は確実に蝕まれていく。
父母も教員も気づかなかった。うちの子供が近頃大人しくなった。食事もあまり摂らなくなった。という程度しか考えなかった。
開校1年1か月後のある日、5年生の男子の1人が下痢をする。授業中を向けだして便所に駆け込む。この男の子は半年前には元気に遊びまわっていたのだ。今は蒼い顔をして、机に頬杖をつく。ぼんやりと窓の外を眺める。そんな日々が続いていた。
男の子は大便用の便所に入る。明り取りの窓がない。中は暗い。水のような便を出す。お腹の中にたまっている分も出そうと、必死になって力む。
その内、微かな声が聴こえてくる。外で誰かが歌っているのかと、聞き耳を立てる。
歌声はだんだん大きくなる。
・・・かごめの歌・・・
歌っているのは女の子のようだ。澄んだのも悲しい声。
声はだんだん大きくなる。澄み切って、氷のような冷たさが感じられる。冷たいだけではない。疎外され、1人にされた恨みの響きさえ漂ってくる!
男の子は芯から体の冷えるのを知った。
――かごめ、かごめ、かごのなかの鳥は・・・――
歌声が、この便所中から聞こえてくる!
はっとして、暗い天井に顔を向ける。
「わっ!」男の子は気が動転する。便所の後ろに尻もちをつく。足が便器の中に入る。
天井はぼんやりと光っている。その中に、死人のようなおかっぱ頭の女の子と、長い髪を乱した女の幽霊が男の子を見下していたのだ。
女は、耳まで裂けた真っ赤な口を、かっと開く。眼が野獣のように、青白く光っていた。
男の子は外に出ようと無我夢中になる。便所のドアに体当たりする。閂を開ける余裕などない。手でドアをかきむしる。体当たりするのが精一杯だった。
男の子は幸いだった。授業も終わり、男の先生が便所に駆け込んできた。この異変を知った。
「どうした!」先生が便所のドアを力ずくで開ける。
恐怖に引きつった男の子が飛び出す。足は糞にまみれている。
「ワッ!」先生にしがみつく。
「何があった!」驚く先生。男の子は激しく泣きじゃくる。
「お化け!」男の子は便所の中を指さす。
先生は中を覗く。薄暗いだけで何もない。放課後で児童らが便所に入ってこようとする。
変な誤解を与えてはまずい。先生は男の子を手洗い場に連れていく。糞のついた足を洗う。とりあえず医務室に運ぶ。ベッドに寝かせる。気分の収まるのを待つ。その間に、男の子の担任の先生に事情を話す。
問題の男の子は、近頃元気がない。何かの原因で神経を病んでいるのだろう。暗い便所の中で幻覚でも見たのだろうと、結論を出す。
1週間がたつ。何事もなく2週間が過ぎる。
半年ぐらい前までは和らいでいた職員室。今何となくおかしい空気が漂っている。それに気付く教員もいない。
その雰囲気が顕著になっていく。重ぐるしい空気が漂う。先生たちの態度がおかしくなっている。些細な事で、児童を職員室に呼びつける。大声で当たり散らす。学校全体が、眼に見えない黒い雲で覆われる様になる。
ついに――、死人が出る。
6年生の女の子が、午前中の授業中、便所に駆け込む。30分立ち1時間過ぎても教室に戻ってこない。腹具合が悪くなって無断で帰宅したとは思えない。
午前中の授業が終わる。昼食後、多くの児童が便所に駆け込む。数ある大便用の内、一か所だけ、ドアが開かない。どんどん叩くが応答がない。
子供の1人が、おかしいと言って先生を呼んでくる。ドアを打ち破る。例の女の子が仰向きのまま倒れている。眼はカッと見開いて、顔は恐怖で引きつっている。何かを呼ぼうとしたのか、口を大きく開けたままだ。すでにこと切れている。
一時は殺人事件と騒がれた。便所の閂は中からかかっている。ドアの上の方に10センチばかりの隙間があるが、人が出入りするには狭すぎる。外に出てから、仲の閂を開けるのは物理的に不可能と判断された。
原因不明の死亡事件として葬られた。
――お化けが出た――男の子の件がある。先生は、便所に入ったら閂はかけないようにと、児童らを指導する。
それが原因となったのか、それから1週間もたたない内に「お化けが出た」という子供達の訴えが3件もでる。
さすがに学校側も、迷信だと放置することが出来なくなる。神明社の禰宜さんに、便所のお祓いをお願いする。それでも誰も入りたがらない。
やむなく、校庭の東側の明るい場所に、臨時の便所をもうける。臨時とは言え、窓の付いた便所だ。
――やっぱり、祟りだわ――
幽霊事件はたちまちのうちに拡がる。無理やりに神木を伐採した学校関係者に非難の目が向けられる。
便所を移し替えた事で、お化け騒動は収まるかに見えた。
夏休みに入る2週間ほど前の夜。
教員の1人が学校内の夜警に回る。太平洋戦争の最中だ。ご時世は騒然としている。物不足で教室の机や椅子などが盗まれることもある。町は予算がないので用務員を雇えない。毎晩2人の男の教員が学校の夜回りをする。
懐中電灯を持つ。北側の古い校舎から回る。怪しい者が潜んでいないか、注意して見回る。明かりをつけて見回れば、泥棒も容易に入り込めない。
古い校舎を見回ると、一旦教員室に戻る。明かりをつける。異常がない事を確かめる。
次に3階建の新校舎を見回る。階段は建物の真ん中と東と西の端にある。西に階段から3階に行く。そのまま東の端まで見て歩く。東の階段から2階に降りて西の端まで行く。
1階の階段を一通り見て回る。再び中央の階段から3階に上がる。西側の階段から1階に降りて、用務員室に戻る。夜8時から明け方4時頃まで、2時間交代だ。
夜中2時。
奉職して間もない教員がこの役を仰せつかった。3階建ての校舎の中央階段から2階に上がった時、何処からともなく、かごめの歌が聞こえてくる。
はじめは微かな声だった。若くて体力のある教員は、思わず緊張する。
・・・誰かいる・・・ 以前、乞食の親子が教室に潜んでいた事がある。あの歌声も、その手の者か、いたら追い出さねばならない。
歌声は上から聞こえてくる。
――3階か――足音を忍ばせる。1歩1歩、確かめる様に登る。大勢の子供達が一気に登り降りするので、階段の幅は2間ある。手すりも付いている。子供用の階段なので階段の腰高も低い。1階と2階、2階と3階の間には踊り場がある。階段はくの字型に曲がって上昇する。1歩、また1歩と足音を忍ばせる。
歌声はだんだんと大きくなってくる。闇夜に沁み透る冷たい余韻を含んでいる。
踊り場に出る。首筋に冷たいものが落ちる。水滴のようだ。雨漏りかなと考えるが、先ほど渡り廊下から見た空は満天の星で輝いていた。
1歩2歩と上がる。ぽたんと、首筋に滴がかかる。雨漏りにしてはおかしい。何だろうと、手で拭く。ねっとりとした感触だ。
“敵”に悟られないために、懐中電灯は足元を照らしている。
また、ポタンと首筋に落ちる。手で拭いて、懐中電灯で足元を照らしてみる。手が真っ赤だ。びっくりして、懐中電灯で3階の天井を照らす。
「あっ」思わず足を滑らす。踊り場まで転げ落ちる。
天井には、長い髪を振り乱した女が、青白い眼をかっと見開いて、若い教員を見下していた。耳まで裂けた口から鬼のような牙が剥き出している。赤い口から血が滴り落ちていたのだ。
側で、おかっぱ頭の女の子が、無表情な眼を向けていた。開かない口から、カゴメ歌が漏れていた。
――かごめ、かごめ、かごの中の鳥は・・・――
耳にこびり付く声だ。もの哀しく、身の凍るような響きだ。夏というのに、若い教員の顔は蒼白だ。眼は恐怖に引きつっている。懐中電灯が踊り場をころころと転がる。教員は声ならぬ声をあげる。階段を転がり落ちていく。打ちどころが悪く気絶する。
彼を助けたのは、もう1人の教員だ。夜回りに行ったまま何時までたっても戻ってこない。心配になった同僚に発見されたのだ。
この若い教員によって、事件の真相が明らかとなる。といっても、これを世間に公表出来なかった。パニックが起こるだろうし、児童が登校しなくなるおそれが出る。父兄も黙ってはいまい。
学校関係者によって、事件は秘される。
夜間の夜回りは禁止される。児童たちのクラブ活動は夕方4時半で終了。5時までには全員帰宅する。朝まで無人の屋と化す。
事件に遭遇した教員には固く口止めする。
こうして、夏休みの前日を迎える。
明日から夏休み、重ぐるしい空気に覆われているとは言え、そこは子供だ。教室内は久し振りに活気に溢れている。
授業はなし。10時に講堂に集合。終業式だ。その後、先生から通信簿を貰って下校となる。
終業式の日、夏だと言うのに、天気が悪い。肌寒い。
9時半、教室内では各担任の先生から、夏休みの宿題等の説明が行われていた。
突然、腸をえぐるような雷が鳴る。重ぐるしい空気が漂う。篠突くような雨が降り出す。灰をかぶせた様な雰囲気が教室内を支配する。児童たちは不安げに顔を見合わす。
その時だ――。
――かごめ、かごめ、かごの中の鳥は・・・――
か細いが、はっきりとした口調で歌が流れてくる。どこで歌っているのかは判らない。3階建ての校舎全体に流れている事だけは確かだった。
歌の調子は実に緩慢だった。疲れ切った暗い印象を与えた。先生も児童も歌声に耳をそばたてる。
透き通るような歌声だ。聞く者の全身に悪寒が走る。
――いついつ出やる。夜明けの晩に鶴と亀がすべった――
歌が終わる。死のような沈黙が校舎全体を支配する。誰もが凍り付いたようで身動きできない。
突然、黒板の前に、おかっぱ頭の女の事、髪を振り乱した女が現れる。。耳元まで裂けた口から血がしたたり落ちている。
黒板の前に幻影を投影したような感じだ。
女の子の表情は死んだように冷たい。女は血のような眼を爛爛と輝かしている。教室内の児童を睥睨している。
――この怨み、晴らさずにおくものか――
腹の底に響き渡る、凄まじい怨念の声。
「わっ!」
我に還った児童や先生たちは、我先にと、外に飛び出していく。1階にいた児童たちは比較的容易に校庭まで出る事が出来た。それでも倒れ、後ろから来た者に踏まれる。机や椅子に膝をぶつけて倒れる者が続出する。
悲惨なのは2階3階にいた児童だ。階段を転がり落ちるように降りていく。後の者に押されて、階段を手鞠のようにころげ落ちる者が後を絶たない。
倒れた者を乗り越えて外に飛び出す。怪我人の山が築かれる。
幸い死者は出なかった。骨を折るもの、血だらけの児童が多きに達する。しかも外は豪雨だ。逃げ場を失った児童が半狂乱となる。校庭の外まで飛び出そうとする。
学校は修羅の場と化す。
事態を知った父兄が学校に駆けつけてくる。負傷した子供は、日の丸の掲げられた講堂に収容される。医者も動員される。市民病院のような大きな病院はない。町医者が駆り出されたのだ。
講堂内に足を踏み入れた父兄の面々は、阿鼻叫喚の光景に、声を失う。2,3百名にのぼる児童が呻き声をあげて助けを求めている。
父兄が我が子の姿を求め、捜しまわる地獄図が展開されていた。
神木が切り倒される前に、母子2人の住まいが焼かれている。2人は焼死している。あれは放火だったと言う噂が流れていた。
母と娘の幽霊の出現で噂は本当だったと言う声が大きくなる。家ごと焼かれる。その怨みが校舎に宿っている。霊を鎮めるためには校舎を焼き尽くすしかない。そんな意見が大勢を占める。
便所も燃やそうとの意見も出る。取り壊すならともかく、燃やし尽くすとなると、西と東に職員室と図書館が隣接している。下手をすると類焼の恐れがある。一応校舎だけにして、便所の方は様子を見ようという事になった。
校舎に注連縄が張られる。類焼になる様なものは片付けれらる。4年生から6年生までの、総勢9百人が入る校舎だ。3階建てで大きい。噂が噂を呼ぶ。近隣の野次馬が集まってくる。
神明社と常石神社の宮司さんと禰宜さんがお祓いをする。校舎に薪が積み上げられる。松明を手にした男衆が火をつける。
警官が野次馬を遠ざけている。消防団員が待機している。類焼を警戒しているのだ。
火は轟々と燃え盛る。盛夏、なめ尽くす様に炎が左右に動く。消防団員は用意した放水車で、隣家の屋根に放水する。
1階から2階、3階と火の勢いが拡がっていく。
巨大な火焔が空を焼き焦がす。火の粉が飛び散る。パチパチと、はぜる音が姦しくなる。
ついに校舎は巨大な炎と化す。
その時だ。炎の中に2つの影が現れる。母と娘が火焔の中に立ち竦している。手を取り合い、なすすべもなく呆然としている様にも見受けられる。
神主のお祓いの後、和尚達の読経が続く。
2つの影は、逃げ場を認める様に、左右を行ったり来たりしている。
火焔はますます激しくなる。2つの影は1つになる。
――かごめ、かごめ――
どこからともなく歌声が流れてくる。
「成仏してくれや」群衆の中から読経に和する声が大きくなる。
歌声はだんだん大きくなる。
――夜明けの晩に、鶴と亀がすべった――
悲しい声だ。人々の胸を打つに十分な程の寂しい響きを伴っている。
ひときわ大きな炎が天を突きさす。
歌声は止む。影は薄くなる。ついに炎の中に消えていく。
姉の話は終わる。火鉢の中の炭がパッチとはぜる。私は眼を見開いたままだ。まんじりともせず、姉の顔を眺めていた。
姉の話には矛盾がある。私が友人から聞いたのは、幽霊が出るという事だった。姉は出たと言っている。
焼けた校舎はすぐに建替えされたと言う。それにしてはそれほど新しくはない。
母子の家は放火されたと言う。何故放火されたのか、姉の話にはその理由がない。
このような矛盾は子供の私でも判ることだった。
それでも、私は姉の話には大きな衝撃をうけた。どこかの、よその国の作り話ではない。現に私が通っている学校が舞台なのだ。
その時受けたショックがいかに大きかったか・・・。
私は生まれつき体が弱かった。食べ過ぎると下痢をする。季節の変わりめには風邪を引く。運動は苦手。その上人見知りときている。友達らしい友達はいない。いつも1人でぽつんとしていた。
本を読むのが何よりも好きだった。
小学校3年の春ごろから図書館で児童向けの冒険小説、推理小説を読みふけっていた。宝島、怪盗ルパン、シャーロックホームズなどは愛読書だった。面白くて、1時間や2時間すぐに過ぎてしまう。
空想の世界に耽る。頭の中のイメージに入りこむ。読んでいる活字さへ忘れてしまう。本を読んでいないときは、小説のストーリーを思い出す。イメージの世界に埋没する。
小説だけではない。当時の娯楽は真空管のラジオだ。
夜9時を過ぎる。家族が就寝する。電灯は40ワットの電球のみ。明かりを消す。ラジオのボリュウムを落とす。ドラマを聞く。胸をときめかす。
ドラマの背景に流れる音楽の効果、私の脳裡にはドラマの光景が映像のように駆け巡る。興奮して眠れぬ夜もある。
姉の話を聞いた後、私に脳裏には母と娘の幽霊、カゴメの歌などが鮮やかに焼き付いていた。
私の家のトイレは外にある。豆電球が1つ、ぽつんとあるのみ。夜などは怖くて便所に行けなくなった。お陰で寝小便をする。母に叱られる。こんなことが度々起こる。
学校に行っても、絶対に大便用のトイレには入らなかった。小便も放課後、同級生と一緒に行く。
夜もまんじりとも出来ない。消灯は9時、家の中は真っ暗。眠れないので眼を開けている。耳まで裂けた口をかっと開いた幽霊が見下している錯覚に陥る。
そんな思い出も、長い年月と共に風化していく。降り積もる塵の中に埋もれると同じだ。
私は、はっとして顔を上げる。目の前にゆかた姿の婦人と、紺の絞りを着た女の子が正座している。
・・・俺は何をしていたのだろう・・・
40数年も前、姉から聞いた小学校の幽霊話の世界に浸りきっていた。ずいぶん長い間、夢の世界にいた様な感覚だ。腕時計を見る。ここへ来てから30分ぐらいしかたっていない。
頭がぼうっとする。ここで何をしていたのか、思い出して、”あっ”と声をあげる。再び寒々とした空気が身を包む。
2人は訴えかけるような眼で見ている。
――幽霊――
身動きできない。2人を見詰めるのみ。部屋の中に沈黙が漂う。
「あなたが、お姉さまから聞かされた話は、事実ではありません」古田早苗は口を開く。
・・・そうかも知れない・・・私は心の中で呟く。姉の話は矛盾がありすぎる。
・・・でも、何故、今・・・40年以上も前の話ではないか。古田早苗はにこりと笑う。
私の心の中が判るのか・・・。
「私と雪子は、火焔地獄の苦しみにあってから、今日まで成仏できずに、この地に漂い続けました」
母と娘は手を握り合う。
娘は悲しそうな眼を母に向ける。母は慈しむ目を娘に向けている。
母の乱れた髪が肩で揺れる。瓜実顔に、朱を染めた様な唇が鮮やかだ。伏し目がちに我が子を見る。
その表情は、どう見ても”生きた人間”の姿だった。
「母さま」娘が口を開く。くりくりした目が私を見る。
「真実の話を聞いてくださいませんか」
「何故私を・・・」私はやっとの思いで声を出す。
2人は私を見て、微笑するだけだった。この場から解放される為には、話を聞くしかないようだった。私は深く頷いた。
今、私が”いる”場所は昔から古田と呼ばれている。
戦後、この一帯はすでに土地の開拓が行われていた。
”古田早苗の家”の北側は切り立った崖地となっている。高さ約10メートル。崖の下は民家が密集して、東西に長く伸びている。その北側に製陶所が並ぶ。真北に瀬木幼稚園が建っている。
古田早苗の話では、大正時代までは、民家の跡はない。西小学校の東側にある、NTTの所までは丘陵地帯だった。幼稚園や、2キロ程北東にあるユニー常滑店、その西側の山の上に立つ相持院の麓までが、なだらかな丘だった。
古田早苗の家は、時代を遡ると、天神様を祀る神主だ。
現在、天神様はNTTの北側の山の上にある。そこには巨大な鯉江方寿の陶器製の像が立っている。春には天神祭が催される。普段は忘れられた存在だ。
大正時代から陶管の需要が伸びてくる。
丘陵地帯の多い常滑では、その地形を利用した登り窯が多かった。大量生産が発達する。山を切り崩して平地とする。単窯による工場生産が盛んになる。
古田の丘陵地帯も例外ではない。特にこの地帯は、旧常滑市街区に隣接していている。早くから山裾が削り取られている。
古田早苗の住居の北東側一帯は、現在は崖地となって住宅街と化している。
だが、江戸時代末期までは、天神社の神域だったのだ。それが時代と共に衰微していく。明治中期には、
約3千坪あった神域も5百坪程になる。
天神社の天神は一般的には菅原道真公の事と言われる。だがそれは平安期以降の天神天満宮信仰だ。
古田家が祀る天神社は、それ以前から続く天神信仰だ。言葉通り天の神信仰だ。
佐賀県有明海辺田にある稲佐神社。この社記に、
――天神はその昔草木言語の時にこの地にやってきて国を創造された大神、稲佐大明神である――とある。
稲佐大明神とはスサノオの事だ。
古田の古はフル、奈良県天理市布留町布留山にある石上神宮。主祭神が布都御魂大神=スサノオ。
配祀の神の1柱として、布留御魂大神=ニギハヤヒが祀られている。ニギハヤヒはスサノオの第5子であり、大和朝廷の祖となった人物だ。
因みに、神武天皇はニギハヤヒ死後、大和にやってきたニギハヤヒの娘、ミトシと結婚している。古田という地名は、大和の大王の血をひく一族がこの地にやってきて、スサノオを天神として祀った事に由来している。
古田家は代々、天神社の神主として世襲してきた。古田早苗が嫁としてやってきた頃には、天神社の祠は、現在ある地に移されていた。
古田早苗の娘雪子が生まれてまもなく、早苗の夫は病死。以後、2人は身を寄せ合う様にして生きている。
大正10年、古田早苗29歳、雪子7歳。
2人に残されたものと言えば、50坪程の入母屋の平屋とそこにあった社地の跡の杉の大木のみ。
この木は神木と言われ、大人が2人がかりで抱える程の大木だ。
往時、この地に天神の社があった時、神が降臨する木として大切に扱われていた。
2人は貧しいながらも平穏に暮らしていた。朝と晩、西の麓にある天神社を遥拝する。神木に両手を合わせる。1週間に1度は天神社にお参りする。社の周囲を掃き清める。神木に注連縄を張って、天神社の身代わりとして信仰していた。
大正時代、土管の需要が著しい。人口の増加もその時と前後している。
当時小学校は尋常小学校と呼んでいた。現在の西小学校の地にあった。校舎と言えば、百名ほどの児童を収容できる程度の建物だった。私が入学した昭和23年当時もこの校舎は残っていた。川の字型に3棟ある。随分古い校舎だった。
常滑小学校はその後、増築に増築を重ねる。ついには校舎の南端に3階建ての新校舎をを建てるまでになる。
古田早苗の時代には、3棟の校舎しかない。近い将来の児童増員に手を打たねばならない時に入っていたのだ。校庭はあったが、私の小学校の時代の約半分、後の3階建ての新校舎の所は民家がひしめいていた。
民家を立ち退かせるか、小学校そのものを移転させるか、町は対策に頭を抱える事になった。
ここに水野源左衛門という男が登場する。
彼は大正10年当時45歳、顔は浅黒く、狡猾な顔付をしている。大柄で四角い顔立ちと、一文字眉に特徴がある。彼は30歳頃に常滑に来ている。どこで何をしていたのか誰も知らない。
”地面師”こんな噂が流れている。
――他人の土地を勝手に売り飛ばす詐欺師の事だ――
当然1つ所に長居は出来ない。あちらこちらを転々として常滑に流れ着いたという評判が立っている。
利に聡く、土地に対して、異常なほどの執着心を持っている。事実、常滑に来てから土地で財を成している。
常滑の土管製造は、この当時、うなぎのぼりの需要に支えられていた。
常滑は丘陵地帯が海岸線まで迫っている。平地に民家が密集している。自然の成り行きとして、丘陵地帯を開拓して工場を建てるしかない。
水野源左衛門は、工場敷地の需要に着目する。民家が迫り、海岸線に近い山裾の土地を安く購入する。山を削る。工場を誘致する。
土管工場だけではない。常滑の樽水地区は一昔前までは織布の工場が多かった。今でも工場が野ざらしで残っている。
水野は紡績工場の敷地も提供する。そのお陰で、彼は15年足らずで常滑でも有数の資産家に成りあがる。妻と3人の子供に恵まれている。相持院から百メートル程西に行った高台に居を構えている。
彼は政治的駆け引きも心得ている。町会議員、旦那衆ともに昵懇の間柄となっている。
大正10年、小学校が敷地拡大か移転かの二者択一を迫られている事を知る。
水野源左衛門は町の有力者に押し談判をする。
小学校移転の候補地選びの権限を自分に一任するよう迫ったのだ。無論、空手形で、日参したのではない。何かしらのワイロを贈る。成功した暁には、多額の見返りを約束している。
札束攻撃の甲斐があった。移転先の土地の買い入れは水野源左衛門に一任する旨のお墨付きを頂戴する。
ただし条件付きだ。
1つ、移転先は現尋常小学校から、少なくとも1キロ1以内である事。
2つ、町としては予算に限りがあるので、町の提示する金額内である事。
3つ、敷地は2千坪以上である事、
4つ、買い入れ期限は大正10年12月末日までとする事。
彼が町と覚書を交わしたのは大正10年3月中旬、約9ヵ月の日数がある。
平成時代の今日のように、民家や商店街、工場が密集している時代ではない。
水野には成算があった。頭の中では小学校の誘致先の目算が立っていた。
水野が本宅を構えた場所は、常滑尋常小学校から、約8百メートル程北北東にある。
現在、この地の南側10メートル下に県道が走っている。ユニー常滑店(平成22年にはピアゴと改名)の南側にある。市役所方面に抜ける。
高台にある水野源左衛門の居宅からは伊勢湾が一望できる。小学校や町役場までは5分。居宅の西側2百メートル先に新道が造られた。
水野源左衛門は自宅の庭から南の方角を眺める。
約5百メートル程先に天神社が鎮座している。天神社の東側は高台だが、約3千坪の丘が続いている。
あそこに学校を誘致すればよい。現小学校から4百メートルくらいしか離れていない。小学校の東側の道路の向かい側に宝樹院がある。お寺の前の参道を拡張すればよい。
土地誘致の際に、周辺の地主とは渡りが付けてある。
後はあの敷地の中央にある5百坪を手に入れるだけだ。そこに住んでいるのは、女の子をもつ未亡人だけだ。
昔は天神社の神主と聞いている。どうせ世間知らずの女だろう。札束で頬っぺたを引っぱたいてやれば喜んで土地を手放すだろう。
水野は眼を細める。古田早苗の住む土地を遠望する。1人悦に入って、1杯やるのが楽しみだった。
――彼には小学校4年の男の子と、3年生と6年生の女の子がいた――
私は古田早苗の話を傾聴する。頭の中が目まぐるしく動く。
・・・姉の話とは大分違う・・・
古田早苗は乱れた髪を手でかき上げる。その髪が肩までかかっている。大きな瞳がしっかりと私を見据えている。朱に染まった唇が緩慢に動いている。雪子はくりくりした目で私を見ている。ふっくらとした頬、おちょぼ口が、おかっぱ頭と相まって可愛らしい。
29歳の古田早苗も、浴衣姿から、にじみ出るような色気がある。白い肌の豊かな肢体があふれんばかりだ。
ただ、2人は常の人とは違う。2人の醸し出す冷たい雰囲気だった。恐怖心は消えていたが、このひんやりとした空気だけは無視できなかった。
私は木偶の坊のように黙って耳を傾けるだけだった。
――その年の4月頃からでした。水野源左衛門が私の家に現れる様になりました――
口を開くたびに、古田早苗の美しい歯並びが見える。
彼女は言葉を選んで話している。
水野は蝶ネクタイを締めている。当時としては、常滑ではハイカラな背広を着用していた。山高帽子を被り、紳士然とした風貌だ。
彼は早苗に、氏素性を名乗る。ここに訪問した理由を述べる。小学校用地として、この土地を売ってくれまいか。その口調は顔に似ず女のように優しい。
その代わりとして、他に土地と住まいを用意する。その上で、一生食うに困らないお金を出す。
古田早苗は水野の突然の訪問に驚き呆れる。話を聞いて困惑の色を隠さない。
水野の話が終わる。彼女は静かな口調で、丁寧に断る。
その理由として、
古田家は、昔はこの広大な地域を神域とした天神社の神主であった。今、落ちぶれたとは言え、自分の使命は、娘の雪子に婿養子を迎える。再び天神社をここに勧請するつもりだ。土地を手放すことなど考えた事もない。
水野は古田早苗の言に異を唱えて、しつこく食い下がるのかと思いきや、
「今日のところはこの辺で、またお伺いします」と山高帽をとる。深々と頭を下げる。静かに玄関を出ていく。
古田早苗は雪子を尋常小学校へ通わせる一方で、針子の仕事を請け負っている。
尋常小学校と町役場の間は本町通りという。常滑の町の中で一番大きな繁華街だ。着物を売る店も軒を連ねている。古田早苗は仕立ての仕事を貰って、日々の生活の糧としていた。
母と娘が食っていくのに精いっぱいの生活だ。米や野菜などを近隣の農家から分けてもらっている。何とか食っていけるだけでも幸福と感じていた。
――また来る――水野はの言葉を口の中で反芻する。
何度来られても、ここを立ち退く気持ちはない。
水野は源左衛門は1週間に1度は顔を出す様になった。雪子の喜びそうな和菓子を持ってくる。自分の子供や妻の着物を仕立ててくれないかと頼んだりする。立ち退きの話は一言も出ない。10分か20分、世間話をして帰っていく。
古田早苗は菓子や仕立てのを丁寧に断る。水野は仕立ての話はともかくとして、菓子などは強引に置いていく。
こんなことがしばらく続く。
7月中旬、古田早苗は、いつものように本町通りの呉服店に行く。仕立ての仕事を貰うためだ。
頭の髪の毛が薄くなった主人は、早苗を見るなり、険しい表情をする。店の中には客はいない。
「古田さん」主人は店の土間に立つ早苗を店の奥に呼び入れる。
「あんた、悪い噂が立っているのを知っているかい」
主人は、古田早苗の腕を買っている。仕事も気前よく回してくれる。気の優しいご主人だ。
「えっ?」びっくりしたのは早苗だ。富士額の顔をむける。
「あんとこに、源が入り浸っているって評判だよ」
早苗は驚きの余り、声も出ない。水野源左衛門が度々家に来るのは事実だから、否定はしない。
早苗は実はこれこれしかじかと説明する。
「私はね、あんたが、身持ちが固いと信じているから、そんな噂、気にはしていないが・・・」
しかしね、と主人は諌める様に言う。
人の口に戸は立てられぬ。娘1人の未亡人の家に、男が出入りしているとのうわさが立つと、あの女は男を引き入れていると、おひれがついてくる。ましてや相手は源だ。
私のところも信用商売だ。そんなふしだらな女を使っているとなると、いい笑いものになる。それではあんたも困るし、私も仕事を出せなくなる。
灯台下暗しとはこの事だ。古田早苗は主人の話を聞いて唇をかむ。
「申し訳ありません。以後、充分に注意します」深々と頭を下げる。
「そうしておくれよ。悪事千里を走ると言うからね。悪い噂は、身の破滅になる」
家に帰っても、しばらくは仕立ての仕事に手がつかない。
この時、私は水野源左衛門の意図を知ったのです。
彼女の目に、怒りの色がにじみ出る。
水野源左衛門は、源と呼ばれている。妻と3人の子供がありながら、名古屋の熱田の遊郭に出かけては、女郎を買う。未亡人に手を付ける。とにかく悪い評判が流れている。それを知らぬ古田早苗ではなかったが、つい気を許してしまったと単純に考えていた。
ところが、たまたま親切に教えてくれる人がいた。
源は昔地面師だったと言うのだ。
彼の手口は、これと言った土地に眼をつける。その所有者の家庭状況を調べる。そこの主人が酒好きと知ると、酒屋に連れていく。1度や2度ではない。親しくなると賭打場に連れていく。そこの胴元と意を合わせる。2度3度花を持たせる。
「あんたは博打が上手い」とか何とか言って調子つかせる。
その内に、負けがこむようになる。
勝った時の味をしめているから始末が悪い。今度は勝つ。次こそはと、博打に張る金額が増えていく。手元の金が無くなる。
「金ならいくらでも貸しますよ」優しい声で源がささやく。
負けが込んで、眼が血走しっている。まともな判断が出来ない。金を借りる代わりに、源の差し出す証文に判を押す。証文の内容など見もしない。
やがて、博打で多額の借金を負う。愕然として身を引く。しかし、後の祭りだった。
3ヵ月ぐらいたって、源がぬっとあらわれる。そこには、にやついた顔はない。眼を吊り上げて肩をいからす。威嚇する態度で門をくぐる。
「ごめんよ」声にすごみがある。
証文をチラつかす。貸金の返済を迫る。源から借りた金額だけなら、親戚中を駆け回れば何とかなる。そう信じて、2~3日待って欲しいと頼み込む。
「わや言うねえ」源は大声を出して証文を突きつける。
証文には、利息が十一となっている。10日ごとに一割の利息が複利的に加算されている。期限までに支払わない場合は、家屋敷をそっくり源に明け渡す事になっている。その期限がとうに済んでいる。否応もない。源は強引に土地や建物を手に入れる。
土地の所有者が後家さんで1人住まいの場合、土地を売って欲しいと意思表示した後、何度も訪問する。
身なりをパリッとする。手土産を忘れない。真昼から堂々と玄関の戸を開ける。端の者の注意を引くために、近所に声をかける。大声を出して目的の家に上がり込む。
あの家の後家さんは男を引き入れているとの噂が立つ。家の主がまだうら若い未亡人ならなおさらだ。噂が噂を呼ぶ。やがて、ひそひそ話が大きくなってくる。後家さんは白い目で見られる。その土地にいずらくなってくる。いたたまれなくなり、源の言う値段で土地や家を手放す事になる。
古田早苗はもう少しのところで源の策略にひっかっかるところだった。
呉服店の主人の好意で、着物の仕立ては呉服店の作業場を借りる事にする。夕方雪子と家に帰る。固く戸締りする。誰が玄関の戸を叩こうと、相手にしなかった。
それで諦める源ではなかった。次々に陰険な手を打ってくる。
古田早苗の娘、雪子は、実は死んだ旦那の子ではなかった。そんな噂が流れだしたのは、それから間もなくのことだった。その上、娘は悪い病にかかっている。そんな尾ひれまでついてくる。
水野源左衛門が人を使って噂を流しているのは明白だ。
噂だから、まさかと思いたくなるのが人情だ。それでもあちらこちらから聞こえてくると、火のない所に煙は立たぬとばかりに、本当の事だと思う様になる。
噂はたちまち野火のように広がる。それでも知らぬは本人ばかり。
水野は噂を利用して次の手を打つ。自分の3人の子供を利用して、雪子を村八分にする。
当時、子供の遊びとして、カゴメ歌が流行っていた。
1人の子供が中央で、両手を顔で覆ってしゃがみこむ。その周囲を数人の子供が輪を作って囲む。かごめの歌と同時に、ぐるぐる回る。歌を歌い終わったところで輪の動きが停まる。輪の中にいる子供は後ろの子供の名前を言い当てる。
この遊びから雪子をのけ者にしてしまった。それだけではない。
「ててなし子、病気もち」と囃し立てて、苛め抜く。
いじめっ子の中心は、父、水野源左衛門から言い含められた3人の子供達だ。
村八分にされた雪子は、学校が終わると、かごめの歌を歌いながら,1人寂しく神木の周りを回る。雪子がいじめに遭っている事は知っているが、早苗にはどうする事も出来ない。
水野源左衛門はもう1つ、強烈な楔を打ち込む。
呉服店の仕事から、早苗を追い出しにかかる。現在でもそうであるが、当時着物は高価な衣装だ。着物を着る階層と言えば、旦那衆の奥方かお嬢様ぐらいなもの、その日暮らしの庶民が袖を通すなど、夢のまた夢なのだ。
水野は町会議員や有力者、土管製造の社長、機織りの旦那衆などと付き合いがある。彼は古田早苗が仕事を請け負っている呉服店を中傷しだした。
針子として働いている古田早苗の悪い噂が流れている事は誰でもが知っている。水野源左衛門の言葉を容易に信じてしまう。
呉服店に非難が集中する。売り上げが減少する。困り果てたのは呉服店の主人だ。やむなく古田早苗を解雇する。
気の優しい主人は、悪い噂を流しているのは水野源左衛門に違いないと諭す。根も葉もない噂はいつか立ち消えとなろう。それまでは辛抱して欲しい。
主人は当座の生活費としての餞別を渡す。金に困ったらいつでも用たてると言って、古田早苗を店から追い出す。
早苗は主人に感謝する。
噂が町中に広まっている。お米などは町の米屋では買えない。隣町の板山まで歩いて買い出しする。肴などは常滑町の保示港まで行って買うが、白い目で見られる。気丈夫な彼女は歯を食いしばって耐え忍ぶ。
8月も終わる。9月になる。
水野源左衛門は頃はよしと古田早苗の家を訪問する。周囲の白い目に耐えられず、意気消沈している筈と読んでいる。彼は意気揚々と古田の家に向かったのだ。
古田早苗の家に行くには、尋常小学校(現在の西小学校)の東側の宝樹院の前の道しかない。
この道は、現在でも普通車が何とかと売れる程の道幅しかない。宝樹院の正門を通り過ぎる頃から坂道となる。ものの百メートルも行くと、車は通行できなくなる。
この周辺は中道と言った。昔はこの奥にあった天神社への参詣の道だった。古田家がある丘の下まで、約2百メートルはあろうか、宝樹院の東端から丘の下まで、民家が密集している。建物も古い。近年になって建て替えの家もぽつぽつ出るものの、大半は、そこを捨てて、車で横付けできる土地へと移っていく。
大正末期までは主として農家がひしめいていた。
そんな中、水野源左衛門は山高帽に背広姿でさっそうと歩いていた。当時の常滑は田舎町だ。男も女も木綿の着物が一般だった。子供も木綿の着物で学校に通っていた。
胸を張って、真昼間、家々の間をこれ見よがしに歩く。源の姿は嫌でも目に付く。
「あれみよ、源が行く」
古田の未亡人が男を引き込んでいると言う噂は本当なんだと囁き合う。
古田家は、家の中央に玄関がある。建築は江戸末期という事で、掃き出し窓がない。日が入る南側の部屋さへ、床から3尺程度の高さに、3尺4寸の窓がついているのみ。
当時は治安が悪く、物騒な世の中だ。開放的な窓をつけることが出来ない。
玄関を入る。10帖程の土間がある。その奥も8帖程の土間で、台所となっている。玄関を入った左手は田の字型の和室。玄関10帖の納屋兼物入れだ。窓が小さいので家の中は昼なお薄暗い。
便所は玄関先の巽(南東)の角にある。風呂はない。尋常小学校の約百メートル先に大橋湯がある。平成7年か8年ころまで営業していた銭湯だ。夏には2日に1回、冬は3日に1回、大橋湯に入っていた。あらぬ噂を流されてから、土間でタライの中で湯あみするようになった。
水野源左衛門は本人が自慢するだけあって、頑強な体をしていた。坂道も息を切らさず登りつめる。
丘の上に出ると、決まって後ろを振り返る。宝樹院の伽藍堂の大きな屋根が見える。その向こうに尋常小学校の校舎が川の字に並んでいる。後数年で校舎が手狭になる。
そのはるか向こうに伊勢湾の青い海が広がっている。四日市港や鈴鹿山の山々も、くっきり見渡せる。
眼を古田家に転ずる。この土地から大金が稼げると思うと、ひとりでに笑みがこぼれる。
古田家の裏庭に杉の大木が聳えている。その周囲や家の周りは野菜畑になっている。庭のある家は、何処でも食料の足しに、野菜を植えている。
水野源左衛門は入母屋の家を睥睨する。
家の中では母と娘が食うも事欠いて、ひもじい思いをしているに違いない。嫌でも想像してしまう。
小さな家を提供して、4~5年食うだけのお金を恵んでやる。感極まって涙にむせぶ筈だ。
今までこのような方法で他人の土地を取り上げてきている。手順に抜かりはない。
「よっしゃ!」と気合が入る。古田家の1間幅もある大きな玄関戸をどんどん叩く。
「おい、古田さんや、わしじゃ、ここを開けんかい!」
大きな濁声だ。周囲に響きわたる。
家の中に人がいるのか、いないのか、森閑として、反応がない。
彼は大きな拳で玄関の引き戸をどんどん叩く。
家の中で人の動く気配がする。
「けっ!寝てんじゃねえよ。早く出ろ」源左衛門は唾をぺっと吐く。
「ここの土地は誰にも売りません。2度と来ないでください」
家の中から古田早苗のきりっとした声が響く。
水野源左衛門が叫ぼうが、叩こうが、家の中からは2度と反応はなかった。
12月までまだ3~4ヵ月ある。この間に土地の売買契約書を交わせておけばよい。今日のところはこれで引き上げた方が上策と考える。
・・・懐具合にまだ余裕があるのかも知れん・・・
10月中旬、水野源左衛門は再び古田家を訪問する。
今日こそは引導を渡さねばならぬ。源の四角い顔も険しくなる。玄関の引き戸を激しく叩く。応答はない。それにも構わず叩きつける。
「古田さんよ。いるんだろ、入れてくれや。穏やかに話をしょうじゃねえか」
引き戸に耳をあてる。中の様子を伺う。人の気配がする。
「くそっ!おちょくりやがって」源は舌打ちをする。
戸をぶち破って入る訳にはいかない。源がいくら町の有力者でも家宅侵入罪で警察に引っ張られる。
「どうするか、みていろ」
源は厳めしい顔を増々厳めしくする。家の周りをぐるぐる回る。秋で野菜が色づいている。
「よし、困らせてやれ」
夜、人を使って、古田家の野菜畑を荒らす。
今度こそ懲りたろう。11月も終わりになる。海から吹き上げてくる風が冷たい。今度こそ叩き出してやる。
源は獣のような眼差しで、自宅から古田家を眺める。
古田早苗は、わが身に生じた辛酸な経験にもかかわらず涼しい口調で話している。
「私共は、天神様のお導きで飢えずに済みました」
雪子の学校でのいじめはエスカレートしていた。髪の毛を引っ張られる。顔に痣を作ってくる。それが毎日のように続く。しかし雪子は弱音を吐かなかった。辛抱強く学校に通っていた。
風の強いある日、雪子は常石神社の境内地の杜から、ぐみの実を拾ってきた。炒って食べるとおいしい。
それからというもの、学校が終わると、自宅から1キロ程東にある常石神社地からぐみの実を拾ってくる。
古田家の南側の右端に明り取りの小さな窓がある。
そこから眺めると、宝樹院のほうから人が登ってくるのがよくわかる。この家にやってくるのは、水野源左衛門ぐらいしかいない。彼の姿が見えると、すぐに窓を閉める。玄関の引き戸につっかい棒をしてしまう。
野菜畑を荒らされた時は、さすがに堪えた。嵐が通り過ぎる間、母と娘は。カゴメ歌を歌いながら耐え忍んだ。
12月に入る。さすがの水野源左衛門も苛立ちを隠さない。四角い、厳めしい顔も険悪になってくる。
・・・一体、何考えてやがんだ・・・
長い間、人を騙して、土地をタダみたいな値段で取り上げてきた。そのテクニックは、常人がまねできるものではない。相手が誰であろうと、どういう手を使えばよいか、長年の経験から的確に判断が出来る。狙った獲物を外した事は1度もない。
今度の場合、古田早苗のような、かよわい女など、すぐに泣きついてくるだろうとたかをくくっていた。
暗に相違して、ずいぶんとしぶとい。
・・・飢えていてもよい筈だ・・・
水野源左衛門の思案とは裏腹に、古田早苗は飢えをしのいでいた。彼女には、天神様に守られていると言う強い信念があった。
水野源左衛門はそれを見落としていた。
12月中旬、源左衛門は、玄関の引き戸を叩き破る覚悟で、古田家を訪問する。夕方4時から5時頃。
玄関戸をいくら叩いても反応がない。とにかく引く戸を押し倒してでも中に入らねばと、決死の覚悟で来ている。
引き戸の節穴から中を覗いてみる。暗くてよく判らない。
何かを煎るような、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。かすかだが、母と娘の笑い声がする。カゴメ歌を歌っている。
飢えに苦しんでいるとばかりに思っていた。源左衛門は裏切られた悔しさで腹の中が煮えくり返る。
・・・馬鹿にしやがって・・・
寒風の吹きすさぶ中、彼は丘を下っていく。
自宅に帰ると、源左衛門は本性を露わにする。残忍な表情で、電燈の前で思案する。
人を騙して生き抜いてきている。決断は早い。
古田早苗との、偽の土地の売渡証書を作成する。お金を渡した時の、領収証の控えも作る。すべてお手のものだ。
人をやって、流れ者を2人、呼び寄せる。
常滑は土管でうるおっている。職を求めて、地方からあぶれ者が流れ込んでいる。そのような人物の扱いにも慣れている。家人に悟られぬように、外の闇の中に呼び出す。金さえ出せば、人殺しでもやりかねない連中だ。
水野源左衛門は大金を握らせる。2人に何事か耳打ちする。2言3言、命令するだけで、2人は源左衛門の意を汲み取る。軽く頷くと、闇の中に消えていく。
――それから2日後の事でした――
「私達の地獄が始まりました」
古田早苗は淡々と話す。眼だけが瞬きもせず、私を見ている。おかっぱ頭の雪子はくりくりした目を、じっと私に注いでいる。
ここからは、古田早苗の口述をそのまま伝える。
――私と雪子は、奥の8帖の間で寝ておりました。私共の家は民家から離れているので、電燈がつきません。夜はローソクを灯しますが収入の事欠く有様でしたので、夕食後は早々に横になります。
貧しいけれど、母と娘2人だけの楽しいひと時です。
冬になりますと、海から吹き上げてくる風が冷たくなります。寝る時は障子を全部閉めます。雪子は小便が近いので、玄関の土間におまるを用意しておきます。
長い夜です。なかなか寝付かれません。歌を歌いながら、やがてうとうとしてきます。雪子はすでに寝入っております。いつしか、夢の国へ入っていきます。
真夜中でした。
夢の中で、パチパチと物の爆ぜる音がします。妙に暖かいのです。
はっとして夢から醒めます。周りが火の海ではありませんか。
「雪子!」私は雪子を抱き起します。隣の部屋に入りました。そこもすでに火の手が回っておりました。
私は神棚から、天神様のお札を取り出します。しっかりと寝間着の、胸の内にしまいました。
早く外に出なければ・・・。雪子の手をとって、台所の土間に行きました。火の手が上がっていて、逃げる事が叶いません。玄関先、物置と、逃げ場を求めましたが、万事休すでした。
一番火の手の少ない、玄関先と台所の土間に、身を伏せました。
ごうごうと音を立てる火の勢いは激しくなるばかりです。外は風が強いのでしょう。火の手をあおっているようです。
「かあさま、怖いよう」雪子は私の懐の中で泣き出します。私は雪子をあやします。はっとして、思わず背筋が寒くなりました。
家の中には火の気はありません。あるとしても火鉢の中の炭火だけです。
・・・放火・・・、水野源左衛門の顔がありありと浮かびました。
なんて酷いことを!
私から仕事を取り上げる。子供の雪子を虐める。根も葉もない噂を流して、私達を村八分のように追い立てる。丹精込めた野菜畑さえ踏みにじる。
土地を取り上げるためには手段を選ばない。ついには私達を亡き者にしようとする。
この時、私は生まれて初めて、激しく水野源左衛門を憎みました。周りの火焔のように、私の憎悪も激しく燃え上がりました。
土間にまで煙が充満してきます。雪子は咳き込み、私の胸の中に顔を埋めています。
和室の部屋も物置も、轟然と火焔が渦を巻いて、天に昇っています。梁が崩れ落ちてきます。家が悲鳴をあげて、燃え盛っているのです。
・・・何故こんなことを・・・
私の憎しみも、火に負けず劣らず燃え盛りました。煙が火を巻いて、土間にも押し寄せてきました。天井の梁がめらめら燃え上がっているのです。暑さも激しくなってきます。
・・・憎い、負けてなるものか・・・煙の為に失神しそうになります。気力を振り絞り、かっと眼を見開きました。雪子は煙にまかれて、すでに意識はありません。
・・・憎い、このまま死んでなるものか・・・
火焔の舌が、ちろちろと、私の寝間着や髪の毛をなめまわします。体中が焼ける様に熱くなってきます。
・・・負けるものか、鬼になってやる・・・
私は伏せていた身を、がっと起こしました。寝間着は火で焼けています。髪の毛も燃え上がっています。
私は激しい熱さに耐えました。眼を見開いたまま、食いしばっていた歯をかっと開けました。
肉がただれ、頬が焼け落ちていきます。顎がはずれ、口が耳まで裂けました。私は本当の鬼になりました。
こんな時にあっても私の意識は高揚していました。
憎しみの情念しか、私の心の中にはありませんでした。
私の肉体は火だるまになりました。轟轟と燃え上がります。もはや、肉の塊、私は火焔地獄の中で泣き叫んでいたのです。
死の直前、私は最後の気力を振り絞りました。
火焔の間に、神木が見えました。
・・・天神様、お許しくださいませ、早苗は鬼になりまする・・・。
私は天空に届けとばかりに声を張り上げました。
・・・この怨み、晴らさずにおくものか・・・
声にはなりませんでした。火焔が強風にあおられます。無念の声を天に届けたのです。――
大正10年12月、放火によって、古田家は母娘と共に消滅する。人里から離れている事、宝樹院前の道しかなかった事で、消防団の到着が遅れた。古田家は一片も残さずに灰塵と帰した。警察は火の不始末による失火と判断した。
水野源左衛門は、自宅の庭で古田家が焼け落ちるのを眺めていた。彼の心の中には、古田早苗に対する復讐の快感があった。彼の懐に大金が転がりこんだのは、それから間もなくのことだった。
神木の伐採は、私の姉の話の通りである。
校舎の建築は大正11年に始まる。当初小学校移転計画は、町や県の予算の都合上、時間をかけて、学校としての体勢を整えていくと言うものだった。
まず神木のあった位置より20メートルばかり北側に3階建ての校舎を造る。校庭は8百坪くらい。同時に、西側に職員室や医務室、便所、手洗い場などを作る。大正12年に就学の運びとなる。
3階建の校舎とは言え、私が学んだ時の校舎の3分の1程度の大きさである。南側中央に出入り口がある。
古田早苗は言う。自分達は無差別に子供達に怨みの姿を現した訳ではない。
姉の話に出てくる便所の中で幽霊を見た男の子は、水野源左衛門の息子である。同じく便所で死んだ女の子は、彼の次女だ。長女は小学校を卒業していた。将来の花嫁修業として、家事に勤しんでいた。
夜勤の先生が夜、幽霊を見た話は、実際にあった事だ。この先生は、源左衛門の意向を受けて、古田雪子のいじめを先導していた。その為に早苗と雪子から怨みをかっていた。
校舎が焼かれる話は、大正13年の紀元節の前日の事でだった。当時、紀元節を祝うために、前日は授業は半日。昼からその準備に入る。
古田早苗は静かな口調で以下のように語る。
幽霊話で、学校の中では、その処置に困り果てていた。折角購入した学校の移転用地だ。将来ここに小学校を全面的に移し替える計画を、町民に発表している。現に3分の1程度の児童を、こちらに移している。
幽霊が出たからといって、おいそれと、辞めますとは言えない。幸いというか、被害に遭った児童は、水野源左衛門の子供達だ。1人死亡したとは言え、源左衛門にも売った責任がある。口を閉ざして沈黙を守る。
被害に遭った先生にも、何がしの見舞金を渡して口封じする。
今まで通り、学校の移転計画は進められる事になった。古田早苗は、霊になっても、神木が切り倒され、聖地が侵されていくのが許せなかった。
紀元節の前日、全校児童の前に、怨みのこもった姿を現す。3階建てで、百名ほどの児童がひしめいている。階段の幅は3尺しかない。怪我人どころか、死者も出た。
これを機に、古田早苗と娘が焼き殺されたのではないのか、噂として流れていたが、それが公然たる事実として人々の意識に上った。
町や学校関係者の責任が追及されたのは言うまでもない。学校移転計画は取りやめとなる。今ある学校の南側の敷地の拡張に計画が変更される。
ここで私の姉の話にはなかった事件が、古田早苗の口から語られる。
――3階建の校舎が焼かれました。校舎の周囲に注連縄が張られました。神明社や常石神社の宮司や禰宜さんのお祓いがありました。
校舎に火がつけられます。3月に入ったとはいえ、寒さの残る季節です。南の方から吹き上げる風はまだ冷たいと思われます。
私と雪子は幽体として、校舎に漂っていました。
これから何が起こるかは、よく承知していました。これで天神様の聖地から、邪魔なものが消え去る。そう思うと、少しばかりは気分が晴れました。
風もあり、空気も乾燥していたのでしょう。火はすさまじい速さで燃え上がりました。私と雪子は火焔の中に姿を現しました。
「おお、あれをみよ」駆け付けた多くの人々の中から、どよめきの声が上がりました。
私達の眼は、きっと、北の方を向いていました。
水野源左衛門の洋館風の屋敷が見えます。あの中に、源左衛門とその家族、使用人が居ました。
肉体の制約から解放されると、見えなかった物も、見えるようになります。
ましてや、私は怨みをこめた”鬼”になった身です。激し怨念をこめて、水野の屋敷を睨みつけます。
水野は家族共々、仏壇にむかって、念仏をあげています。学校の便所で私達の幽体を見て以来、彼の息子は頭がおかしくなっています。怨霊の祟りから逃れようと、先祖の霊にすがろうとしていたのです。
・・・笑止な、今更遅いわ・・・私は嘲りの念を発しました。火焔地獄へ落ちるがよい。私は叫びました。
その瞬間、校舎を包んでいた火焔が、天を焦がすばかりに大きくなりました。その火の1つが火の玉となります。水野源左衛門の屋敷めがけて飛んでいきます。
私達の憎悪の念を包みこんだ火の玉です。たちまちのうちに水野の屋敷に燃え移りました。洋館風の豪邸は火の海となりました。
屋敷の中は蜂の巣をつついたような騒ぎとなりました。突然四方八方から火の手が上がったのですから当然でしょう。
水野は妻や子供達の手をとって、火の気の薄い玄関先へ逃げようとします。玄関は鋳物の彫刻を施した、両面開きのドアです。玄関には2階の天井まで吹き抜けになっています。玄関の上の壁には大きなステンドグラスがはめ込んであります。
水野は玄関のドアを開けました。火の手が彼らの行く手を遮るように、吹き込んできます。あわてて玄関のドアを閉めます。20帖もある洋室に駆け込みます。壁に暖炉があります。そこからも火の手が吹き込んできます。ロココ調の家具や椅子、テーブルにも火が燃え移ろうとしています。煙も充満しています。窓の外は火焔が太陽の光を遮っています。
隣室は夫婦の寝室です。床に敷きしめた絨毯は、ぶすぶすと音をたてて煙を吐き出しています。ダブルのベッドも煙に巻かれようとしています。
象牙の縁で覆われた化粧台も、火の舌がちろちろとはっています。
水野源左衛門と家族3人、使用人3名は行き場を失い、寝室のベッドの下に潜り込みました。煙を吸って窒息するのを防ごうとしたのです。
贅を尽くした屋敷は巨大な火焔となって、昼の大空を焼き焦がしています。
屋敷の周囲には、人々がなすすべもなく立ちすくしています。
一方、校舎の方も巨大な炎と化して轟音と共に崩れ去ろうとしています。
「おい、あれみよ」北の方の山の上の水野邸も、同じように火につつまれ、今しも崩壊しようとしています。
「祟りじゃ、祟りじゃ」誰云うともなしに、群衆の口々に拡がっていきます。この中には、私や雪子を虐め、迫害した人々もいます。彼らは今、犯した罪の恐ろしさに打ち震えているのです。災いがわが身に降りかからぬようにと、両手を合わせているのです。
「なんまいだ、なんまいだ・・・」念仏の読経があちこちから聞こえてきます。それが大きくなっていきます。1つの合唱となって、冷たい空に響き渡ります。
水野家が滅んだ今、私達の怨念も消えました。校舎が焼け落ち、水野の屋敷もくずれ落ちます。同時に私と雪子はあの世へ旅立ちました。
この時、雪子はかごめの歌を歌いました。私達の怨念が晴れたとはいえ、傷つけられた心はそのままです。
私達を蔑み、迫害した人々、彼らは今、私達に両手を合わせているのです。この人たちの心には恐怖しかありません。私達から祟られるだろう。その恐ろしさで念仏を唱えているだけです。
その姿を見下ろします。私達は悲しくなりました。雪子の歌声が、人々の心にどのように響いたかは判りません。
雪子は悲しく歌ったのです。
古田早苗はここで言葉を切る。
少し開いた口からは白い歯が覗く。淡々とした口調の中に哀しみが漂う。誰からも相手にされない。無視され、さげすさまれて、母と娘は抱き合って生きてきた。それだけならまだ2人は救われた。
家ごと焼かれ、誰からも埋葬されないまま昇天せざるを得ない。その寂しさ、悲しさ、悔しさがあふれていた。
――私達は昇天しましたが、神様の御国へは入れませんでした。相手がどんな極悪人であろうとも、人は元来神様の心を宿してこの世に生まれてきています。その人を殺めた罪は免れません。
私と雪子は霊界にとどまったまま、罪滅ぼしの厳しい修行に耐えねばなりませんでした。
70年経った今、ようやく罪が許されました。それでもまだ、神界に入ることは出来ません。私の心には、この事件の真相が隠されたままという、しこりが残っています。――
――私が小学校4年生の時、同級生が便所で幽霊を見たと言う話は――
――私達はどうしても真相を知ってほしかったのです。あの子供には申し訳ないことをしました。でも幽霊が出たと言う噂が流れれば、真相を明かしてくれる人が出るかも・・・。そんな期待がありました。
私は頷いた。結果として、2人の意に反した噂が流布される事になった。
――私にどうしろと――
何故、私がここに呼ばれたのか、2人の霊の為に、何をしたらよいのか・・・。
私は2人を見詰める。恐怖は払拭していた。哀れな母と娘の為に、私が出来る事は何か、それが判れば叶えてやりたい。慈悲の心がふつふつと湧いていた。
2人に私の心が伝わったのだろう。目元が笑ったように見えた。
2人は何も言わない。
・・・何故言わない・・・私は苛立たしさを覚える。
――かごめ、かごめ、かごの中の鳥は・・・――
雪子の小さな口が開く。澄んだ声だ。清冽なせせらぎのように、私の全身を包みこんでくる。目の前が暗くなってくる。2人の姿が遠のいていく。
私は深い眠りに襲われる。
どれだけ眠ったのか判らない。眠りから覚める。はっとして眼を開ける。夏の空が青々と輝いている。綿毛を薄く引き伸ばしたような雲がたなびいている。
・・・ここは?・・・
立ち上がると、私は辺りを見回す。
西の方に伊勢湾が拡がっている。宝樹院の伽藍堂の屋根が見える。南の方に、家々の屋根が密集している。
東の方は、私のいる所から数メートル先が3メートル程高い崖となっている。地肌が生々しく見える。北の方は、1メートル先から10メートル程下がった崖になっている。北側には住宅街が見下ろせる。
私が寝ていた所は雑草が生い茂っている。腕時計を見る。4時過ぎだ。
・・・夢を見ていたのか・・・
それにしては生々しい。2人の幽霊に接した時の肌寒さは現実のものだ。姉から聞いた学校の怪談話も映画を見た後のように、色鮮やかに甦ってえ来る。
と、何処からともなく、かすかだが、カゴメの歌が聞こえてくる。
夢ではない。古田早苗は私に何かを訴えたかったのだ。夢の中の世界では、それが何であるのか判っていた。現実の世界に戻る。それが何であるのか、喉の奥に引っかかっていて、思い出そうとしても思い出せない。
私は東側の崖上に登る。寝ていた所に一礼して立ち去る。
平成12年3月、三重県多気郡明和町にある禊の宮という神社から、禊をしないかという電話が入った。
禊の宮に縁が出来たのは、昭和50年代、私が30代半ばである。ある神道関係の本で知った。
私は6月の夏越大祭と12月の歳末大祭の2回参加するだけの信者だ。2つの大祭の他に、月初めの月例祭、3ヵ月ごとに行われる定例祭。1月2月に行われる寒禊など、神社は行事が目白押しだ。
私は年に2回しか参加しない。車で片道3時間かかることが原因だ。
禊は朝9時に始まる。その為に早朝家を出る。伊勢市内で一泊する。禊と言ってもただ水を被るだけではない。祝詞を唱える。船の櫓を漕ぐ真似をする。芯から体を温める。手桶で30杯の水を被る。
遠路である事と、早朝の禊のため、極度の緊張感を強いられる。年に2回の大祭への参加が精一杯なのだ。
大祭への参加はいつも案内状が郵送されてくる。電話での勧誘は今までなかったことだ。行く約束をする。
3月中旬、朝8時に到着。神社と言っても規模は小さい。百坪程の土地に30坪の建物、神殿敷地は30坪程。規模は小さいが神道関係者の間では有名だ。
戦前は伊勢神宮参拝の貴族、皇族方々が立ち寄る事で有名だった。禊の宮で禊をしてから神宮参拝を行ったと聞いている。
宮司さんは女性。40歳前後、巫女さんという感じだ。
年末の大祭では30数名の参拝者が集まる。東京、大阪、神戸、横浜など遠方からの参拝者でにぎあう。大学教授、財界人の顔も見える。
この日、私が禊に参加した時、東京の大学の英語の先生やある宗教関係者幹部の方が参加していた。
禊が終わる。祭壇の前で祝詞をあげる。その後、1時間ばかり雑談に花が咲く。
宮司さんは人生相談にものっている。大学の先生は今月いっぱいで定年退職を迎える。退職後の身の振り方について相談する。すべて雑談形式の軽いものだ。深刻さはない。
雑談の中で、私は何気なく1年半前の幽霊の話をする。宮司さんのおおらかな人柄に接したためか、心の中に引っかかっていた問題なのかは判らない。和やかな雰囲気だ。ふと口が滑ったと言う感じだ。こういう話は、大抵の場合聴き手の好奇心を刺激するだけで終わる。私も深刻な意味合いを込めたつもりはない。軽い気持ちで、話のネタとして喋ったつもりだ。
宮司さんは髪を後ろに束ねている。化粧気画ない。肌理の細かい肌をしている。
はじめはにこやかに、私の話に耳を傾ける。その内に表情が厳しくなる。眼鏡の奥の眼がきらりと光る。
「あなたがここに見えたのは、その霊のお引き合わせですよ」
言いながら、ここから北へ2キロ行った所に天神社がある。女の神主だが、霊的能力を持っている。私が電話を入れておくから、今すぐにいってきなさい。
話のネタが意外な方向へ進展する。言われるままに、私は天神社へ出かける。
赤い鳥居の奥に祠がある。横に20坪程の平屋がある。鳥居前の広場に車を止める。鳥居をくぐる。玄関のインターホンを押す。
「はーい」澄んだ声がする。玄関の引き戸が開く。白装束の若い女性が顔を出す。髪を後ろに束ねた、可愛い顔をしている。
「禊の宮様からお聞きしております」にこやかな挨拶だ。私は一礼する。中へ通される。
玄関の右手が応接室兼台所のようだ。左手の和室に、床の間の代わりに祭壇が設けてある。造りは禊の宮と同じだ。
神主とはいうものの、20歳代だ。厳めしい雰囲気はどこにもない。柔和な表情だ。
祭壇を背にして、私と対座する。清々しい眼差しだ。身には飾りのようなものは何1つ付けていない。清楚な印象だ。私は深々と頭を下げる。用向きを述べようとする。
「古田早苗さんの事ですね」
歯並びのきれいな口が開く。澄み切った声だ。
驚いたのは私だ。禊の宮の宮司さんには幽霊の名前は告げていない。
「どうして名前を・・・」私は瞠目する。
「2日前夢をみました」
私がここへ来ることを、古田早苗の霊が告げたと言うのだ。
「常滑の天神社は、遠い昔、ここから勧請されました」
言葉数は少ない。一言一句、明確に述べる。私の質問に答えるだけで、無駄口は開かない。
私は古田早苗の話を手短に話す。彼女は大きな瞳で、瞬きもせず、私を見ている。まるで人形だ。いや2人の幽霊とどことなく似ていると思った。
話し終わってから体験で感じた時の疑問をぶつけてみた。
1つ、何故、私が選ばれたのか。
2つ、2人は私に何かを訴えたかったに違いない。古田早苗の話を聞いていた時は判ったつもりでいたが、夢から醒めてみると、全く思い出せない。
3つ、姉から聞いた話と食い違いがある。それは何故か教えてくれなかった。
他にも疑問があるように思ったが、最低限、これだけは知りたいと主張した。
「あの世には、あの世の仕組みがありますので」
「はあ・・・」要領を得ない。つまりは神主さんでも返事できない問題なのだろうと1人合点する。
私の不満そうな表情に気付いたのだろう。
「あなたの疑問はいずれ判る時が来ます」
私は黙って頷くしかなかった。
「ところで、お2人の霊は神界に行かれるとか」私は再度質問を試みる。
「霊界で漂っています」
神主は訴えるような眼で私を見ている。
「心の中に,1つのわだかまりがあります。その為に、神界に入れないのです」
彼女の話は禅問答のようだ。疑問を呈して答えを求める。その答えに対してまた疑問が生ずる。
私は質問を諦める。彼女は私の心の内を見透かしたように、微笑する。嘲笑しているのではない。自分の真意が上手く伝わらない、自嘲のようだった。
「供養なさいませ」彼女は諭す様に言う。
供養と言っても何をどうしたらよいのか判らないが、私は反射的に黙了した。
その後、神主は私を天神社の祠に連れていく。
神殿の前に額ずく。祝詞をあげる。背後でかしこまる私の方を振り向く。玉串を振り、身を清める。
「古田早苗様と雪子様の御魂は、私の方で、鎮魂を行わせていただきます」
神殿に向き直る。30分におよぶ大祓いの祝詞を捧げる。
平成12年7月、私が2人の霊に会ってから2年がたつ。
宝樹院の東側にある1軒屋から、建物の補修の話が舞い込む。
この一帯は道路が狭い。車が通れるのも,宝樹院から東へ百メートル程行った辺りまでだ。
不景気の最中だ。どんな仕事でも欲しい。無理な注文でも取る事にしている。幸いその家の前までは軽四の貨物なら出入りできることが判った。
宝樹院から2百メートル程東に登る。そこから道が二手に分かれる。右に行くと、二年前に幽霊に出会った場所に出る。左へ入ると、10軒ばかり家が並んでいる。その内の比較的大きな家だ。
大正時代に建築した屋敷だ。本当は建て替えしたいが、景気が良くなるまで待つことにする。雨漏りするところがある。それを補修したいとの依頼である。
常滑の古い家は一様に田の字型の構造が多い。
依頼主の家も例外ではない。トイレや風呂、台所などは現在風に改築してある。奥の座敷の押し入れの雨漏りがひどい。それを補修して、同時に寝室を洋室にしたいと言う。
そこに入るのは、今年90歳になる父親。
65歳になる息子さんが寝起きが不自由になった父の為にベッドを据え付けたり、手すりをつける。父親専用の簡易トイレも設置する。市役所から週2回の訪問介護を受けている。フロに入れないので、部屋の中にシャワー室も設けたいと言う。
私は髪の毛の薄くなった主人の注文を控えていく。
「私は今年一杯で定年退職でねえ」主人は団扇で半袖の開襟シャツをパタパタ仰ぐ。そのそばに、車いすに乗った老人が私を見下ろしている。
「あんたとこ、昔は土管屋だったなも」
老人は私の名前を聞くと、懐かしそうに口を出す。
ご主人の注文を聞き終わった後だ。私は老人の相手をする。
「あんたとこのおやじさんと、わしゃ同期でなあ」
老人は歯のない口を開けて笑う。頭には白い毛がぽつぽつとあるのみ。浅黒い肌と、刻んだような深い皺が、長年の風雪に耐えてきたことを現わしている。体は弱っているが、頭の方はしっかりしているようだ。
「私の親父、ご存知で・・・」10年前に亡くなった父の事を尋ねる。
「知るも知らんも、小学校で一緒に遊んだ仲だがや」
話が小学校の事におよぶ。親思いの息子さんも話の輪に入る。
私は父の小さい頃の事は何も知らない。老人は眼を生き生きさせながら、往時の事を語る。
話を聞きながら、私は大仰に頷いて見せる。これも注文を取るための仕事の内だ。こうして信頼関係を結んでいく。
話を聞きながら、心の奥にわだかまっていた、学校の怪談話が鎌首をもたげる。
私は何気なく、学校に幽霊の出た話を口にする。深い意味はない。老人の話に興を添えただけだ。
「あんた、その話、誰から聞いただや」
老人の顔が厳しくなる。声もとげとげしい。私は老人の異常さに気が付かなかった。熱心な聴き手のつもりでいる。
話しの合いに手を入れただけだ。
「いやあね、実は、、、」私は頭をかく。2人の幽霊の話を手短に話す。
私に話が言い終わらぬ内に、突然、老人は「うおー」と犬が吠えるような声で泣き出す。
ビックリしたのは私だけではない。
「父ちゃん、どうしただや」主人が驚いて老人の側に寄る。
何かまずい事でも喋ったのか、これで注文がフイになると大変である。私は低姿勢で、事の成り行きを見守る。
「ああ、申し訳ない。すまない」
老人は顔をくしゃくしゃにする。手拭で涙を拭く。
気持も治まったのか、車椅子の上でしばらく俯いていた。
「父ちゃん、大丈夫か」主人の心配そうな声。私も老人を不安げに眺めていた。
老人は息子に促されるようにして顔を上げる。
「ああ、これも天神様のお導きかも知れん」呟くと、私の顔をじっと見る。
「あんたに本当の事を話そう」
このまま胸にしまってあの世に行ったら、古田様にどんなお叱りを蒙るかも知れぬと言う。
以下老人の話。
大正10年、老人は小学校4年生だった。
古田雪子の悪い噂が流れていたころだった。自分も仲間たちと一緒になって雪子を虐める。髪を引っ張ったり、後ろからつついたりする。泣くと面白くて仕方がなかった。
子供は純粋というが、それは大人から見た子供である。子供同士は残酷である。特に虐めは執拗なほど陰険だ。
虐められて雪子は泣いたが、すぐに涙を拭く。虐められても、じっと耐える子供だった。かごめ歌の遊びからも村八分にされる。雪子は黙って遊びを眺めているしかない。
母の早苗が周囲から白い目で見られている事も知っていた。親は子供達に、古田早苗の悪口を言いふらす。
「お前の母ちゃん、淫売・・・」雪子に向かって囃し立てる。
こんないじめが半年以上続く。
――わしらはなあ、雪子さんを虐めるのが楽しくて学校に通っていたようなもんだったがや――
水野源左衛門からワイロを貰っていた先生が、いじめを煽りたてる。
大正10年も冬になる。雪子は学校に姿を見せなくなる。家の窓を閉め切ったまま、母と娘だけの生活となる。
12月、古田の家は火事で焼け落ちる。2人は家の中で焼け死ぬ。
――放火、源がやらした――
こんな噂が流れるが、誰も本気になって取り上げようとはしない。むしろ2人が死んで、手を叩いて喜びあった。
大正12年12月、古田家の屋敷跡地に新しい校舎が完成する。老人は小学校6年の春をそこで迎える。
その頃から、便所に、母と娘の幽霊が出たとか、水野源左衛門の娘が、幽霊に取りつかれて死ぬと言う事件が起こる。学校中、騒然となる。
紀元節の前日に、学校中に幽霊があらわれる。自分も幽霊を見たが、実に怖かった。
さんざん雪子さんを虐めた口なのに、自分達は無関係だと思っていた。祟られるのは、源や源の子供達だけだと、とりすましていた。
学校が焼かれる。水野源左衛門の屋敷が焼け落ちる。火焔の中に、母と娘の幽霊が出現する。火の中から、カゴメの歌が聞こえてくる。悲しく冷たい声だった。
母と娘の無念の形相が自分達を睨みつける。
この時はじめて、自分達も祟られるのだと悟った。子供心にもそれがはっきりと判った。
罪もない、母と娘を面白がって虐めた。その報いが必ず来る。恐怖心に苛まれる。生きた心地がしなかった。
それから1年、2年と立つ。自分達の周囲には何の災難も起きなかったが、あの時受けた衝撃は忘れる事はなかった。心の中に大きな傷として残っている。
古田早苗、雪子を虐めた者は数十人におよぶ。
時代も昭和になる。戦争が起こる。多くの仲間が徴兵に刈り出される。戦後生き残った者が帰ってくる。
戦後の混乱期は食うに精一杯の時代である。忌わしい記憶も脳裡から薄れていく。
昭和も25年、26年となる。貧しいながらも生活も落ち着いてくる。老人の家は元農家だ。食うに事欠かない。常滑は田舎町だ。お互い顔見知りが多い。助け合いながら生きていく。
昭和26年、小学校の便所で幽霊を見たと言う児童が現れる。噂はたちまち燎原の火のように広がる。激しいショックを受けたのは老人だけではない。
戦争で死んだ者は多い。雪子を虐めた生き残りは、それでも十数人いた。古田早苗を白い目で見て、迫害した者も多い。彼らは申し合わせてように、事件に口を閉ざしている。根も葉もないうわさ話に踊らされたとはいえ、犯した罪はおおきい。祟りを恐れて、事件の真相をひた隠しに隠してきた。
――2人の魂は、まだこの地に漂っている――
宝樹院で、霊の供養が秘かに執り行われる。老人を含む、十数人の”関係者”が一堂に会する。
事件の真相を世間にさらす事は、自分達の罪も曝す事になる。それだけは絶対に避けなければならない。
彼らは一計を案じる。
幽霊話を、戦後のどさくさの時代に持ってくる。場所も現在の小学校に設定する。校庭の南側に建つ3階建ての校舎は戦後間もなく建てられる。それが一旦火事で焼ける。すぐにも、今の3階建てに建て替えられたという作り話を流す事になる。
噂話が嘘だという事は、年配者なら判っている。判っているが、口に出す事は出来ない。むしろ噂話に便乗する。
――自分達もよくわかっている――とばかりに、噂話に真実性を強調する。
私が姉から聴いた”学校の怪談”が真実味を持って流布されていく。
平成12年になって、学校の怪談の真実を知る者は数えるほどしかいなくなる。
私の話を聞いて、老人がうろたえたのも無理はない。2人の幽霊が怨みを込めたまま、今だに自分達を許していないと知ったからだ。
ましてや、真相を隠してしまったという負い目がある。行く末はもう短い。生きていく欲は歳と共に薄れていく。ご先祖様のお墓の中で安らかに眠りたい。
このままでは、死んでから無間地獄に堕ちるだけだ。
老人はすがるような眼で私を見ている。助けてくれ、切実な思いが伝わってくる。
私に老人を救えるかどうか判らない。
問題は、2人の魂の無念の思いを鎮めるにはどうしたらよいかだ。
私は老人を見守るしかない。ふと、私の心にある思いがこみ上げてきた。
「毎日、お2人の霊、安かれと、念仏を唱えたらどうでしょう」
言い切ったっ時、私の心から霧の晴れるようなものが飛び出した。老人は子供のようにうんうん頷く。息子さんであるご主人に車椅子を押して貰って、仏壇の所まで連れて行ってもらう。必死になって念仏を唱えだす。
私はその後姿を見る。熱いものがこみあげてくる。
ご主人が私の側に寄る。こんな話、父からはじめて聴いたと語る。今まで辛い思いをして生きてきたのだろうと、感想を述べられる。
私の方といえば、主人から建物の補修の仕事が貰えて、万々歳である。同時に、古田早苗が私に何を訴えているのかがよく判った。
夢の中で、古田早苗が言いたかったことなのだ。
その夜、私は自宅で思い悩んでいた。
真相を公表すると言ってもどうやったら良いのか。私は趣味で小説を書いている。某同人雑誌に所属している。
古田早苗の話を小説に書くことは難しい事ではない。
ただ、事件の真相を小説にしたところで、それで公表した事になるのだろうか、私には自信がなかった。
・・・この事は、しばらく様子を見るか・・・
平成12年10月上旬、この頃私の叔母が常滑市民病院に入院していた。彼女には身内がいないので、私が面倒を見ていた。9月上旬に市民病院から退院勧告を受けていた。
3ヵ月を過ぎた入院患者は、早く出ていけという事だ。代わりの病院が紹介されるが、市民病院が根回ししてくれるわけではない。
ここの病院へ行ってこい。あそこの病院なら引け取ってくれると思うので、相談に行ってこいというものだ。
幸い、私は営業を主体として働いている。時間の都合はつけられる。言われた病院を訪問する事になる。
10月下旬、三好町の三好中央病院に移ることが出来た。豊田市に近い。常滑から車で1時間半かかる。
ホッとする間もない。暮れも近くになり、仕事に追われる日が続く。
平成12年12月30日、午前中で仕事納め、午後は買い物、夕方6時、夕食が終わる。年始に向けて、家の中の跡片付けをしようと、電気掃除機を手にする。
急に寒気がする。家の中が寒い。厚着をしている。それに熱がある訳でもない。
この寒気は尋常ではない。氷を抱いているようで、身体の芯から震えてくる。あわてて、布団にもぐりこむ。電気毛布も引っ張り出す。何枚も布団をかぶせる。ようやく体が温まる。急に体中が火照る。頭がぼうっとする。
――風邪をひいた――
風の自覚症状はないが、頭が熱い。ためしに布団から出る。急激な寒気が体中を締め付けてくる。
・・・もしや・・・
20年前にこれと似た経験がある。
近所に住むおじさんが亡くなる。葬式の手伝いをする。春先の事だ。寒くはない。お通夜で受付の手伝いをする。弔問客が途絶えがちになる。急に異常な寒さに襲われる。その場に立っている事ができず、気分がすぐれぬと言って家に帰る。そのまま3日3晩、熱にうなされる。
その間、身体に上に重いものがのっかかっているようで、身動きできなかった。
おじさんの霊に憑依された――
その時と同じ現象に見舞われる。何時間も身動きできなかった。
平成13年1月3日の朝まで寝込んでしまった。文字通りの寝正月だ。3日の夕方に、汗で汚れた毛布やシーツ、下着などを替える。3日ぶりにフロに入る。憑き物がとれた後の清々しさがあった。
1月4日の事だった。熱も大分下がり、いくらか安眠出来た時の事だった。
妙に生々しい夢を見た。
2人の女の子が両手で輪を組みながら、躍り回っている。側で母親らしい女性がそれを眺めている。子供達は膝までしかない粗末な木綿の着物、母親も貧しい着物姿。
2人の子供の口から、カゴメの歌が流れる。後ろの方に天神様の祠が見える。
不思議な事だが、母親が、前世の私だと、はっきりと判った。2人の子供は後世の古田早苗と雪子。
2人は明治と大正に生まれる。私は昭和の世に生を受けている。2人は過去生の私と、霊的に深い縁で結ばれていたのだ。
――供養なさいませ―― 2人を救えるのは私しかいないと言うのだ。
しかし、風邪が治っても、私は逡巡していた。私は過去生で、古田親子と縁があった事は理解できた。だから私を”呼んで”事件の真相を語ったのだろう。
私がためらうのは、事件の真相を小説に書いたところで公表した事になるのかという事だ。限られた読者にしか読んでもらえない。1度読んだら、後は捨てられるだけだ。
著名な作家に憑りついて書かせた方が、真に公表した事になるのではないか・・・。
2月1日、夕方三好中央病院より電話が入る。
「おばさんの容体が急変した。今夜が峠かもしれない。今後について対応したい。至急来てほしい」
私は直感的に、もうだめだと思った。
2人の姉と、新舞子の従兄弟に連絡を取る。急な連絡なので、3人とも出発が遅れる。病院に着いたのは夜8時半。
病院に駆け込むと、対応した看護師さんから、6時40分に死亡。死亡原因は脳梗塞とのこと。
享年102歳。安らかな死に顔だった。
おばは大野の牛乳屋に嫁いでいる。私は幼い頃よく遊びに行った。ご主人は私が生まれる前に死んでいる。以来寡婦暮らしを続けていた。
私の父が面倒を見ていた。10年前に父が死んだ後、私が世話役を買って出た。
7年前、おばは体調を崩す。あちこちの病院を出たり入ったりを繰り返す。以来、三好中央病院で死亡するまで、一度も自宅に帰る事はなかった。
7年前の事だ。常滑の伊藤病院からメディコ阿久比に移る。当時私は多忙だった。2週間ばかり見舞いに行かなかった。
久し振りの見舞いに「ようきてくれた」おばは泣いた。
おばが涙を流すのを見るのはこの時が初めてだった。周囲には”お仲間”がいるし、介護士さんもいる。寂しくない筈だ、というのが私に考えだった。
おばが大野の自宅を離れた当初、何人かの知人や親戚が見舞いに来てくれた。入院期間が長くなる。皆疎遠になっていく。2年3年と立つうちに、新舞子の従兄が一ヵ月に一回程度見舞いに来てくれるだけとなる。
見舞いに行くと、誰も来てくれんと愚痴をこぼす様になる。ついに弱音を吐く。泣き出して「よう来てくれたなあ」伏し拝まんばかりに、私の手を取る。
おばに必要なのは、自分に縁のある者が見舞いに来てくれる事だと痛感する。以来私は1日おきに見舞いに行った。常滑市民病院の時は毎日出かけた。見舞いと言っても、2~30分いるだけだ。洗濯物の取り換えや紙おむつの補給ぐらいなものだ。
「おーい、来たでなも!」来た時は耳元で叫ぶ。
「ああ、来てくれたかや、おおきになも」
帰る時刻になる。「帰るでなあ、また明日来るでなあ」声をかける。
「帰るだかや、また来てなあ」しわがれた声だが、しっかりとした口調で答える。
時折、姉夫婦や、新舞子の従兄が見舞いに来る。
「おばさん、来たよ」おばに声をかける。1ヵ月ぶりの見舞いだ。
おばはしげしげと見上げる。「判らん、お前、誰だや」素っ気ない返事だ。
「わしだがやあ」親戚の誰彼だと答える。おばは面倒くさそうに横をむいてしまう。
痴呆症の域にはいっているおばだ。大野の家の事も、自分が何処にいるのかも判らなくなっている。
三好中央病院に移る直前、看護師さんが私を指さす。
「この人誰?」
「忘れた。わしの親戚」と答えるのみ。
それでも私が顔を出すと、「おお、ようきてくれたなあ。待っとっただがや」嬉しそうな顔をする。
「昨日,来たがね」と答える。「来ただかや」問い返すのみ。
10月下旬に三好中央病院に移り、平成13年1月中旬に経管栄養(鼻から管を入れて、直接胃に栄養物を送り込む)で過ごす様になる。
おばは鼻から管を入れられるのを極端に嫌う。そのためベッドに手を縛り付けられたままになる。
経管栄養を始める頃から手や足が肥大する。声も満足に出なくなる。眼も見えないようだ。
「おーい、来たよ」私は耳元で叫ぶ。寝ていたと思いきや
「あー」かすれた声をあげる。顔だけを私の方に向ける。
「どうだな、寒かないかな」布団をかけ直してやる。
嬉しそうに「あー」と口を開けるが、それ以上の反応はない。
「また来るでなあ」最後の声をかける。
「また来てな、頼むでな」言葉にならない声で必死に叫ぶ。
私はおばの気持ちを察していた。病院のベッドの中で、病と闘いながら、夢うつつの中で私の声を聴く。
・・・自分は1人きりではない・・・自分を見守ってくれる身内がいる。必ずきちんと見舞いに来てくれる。その声を聴く事だけが、たった1つの楽しみだ。
1つというよりも人生の全てと言った方がよい。おばにとって、私は命綱のように大切だったと思われる。
1月30日、死亡の前日に見舞いに行く
「おーい、来たよ」声をかける。
「あー」口を開ける。側にいた看護師が、すごいねと口を出す。
「私達がねえ、話しかけても、声も出してくれないんですよ。余程嬉しいんでしょうね。甥御さんが来てくれるのが」
それが生前のおばを見た最後だった。2月6日まで、葬式やら何やらで、てんてこ舞いだった。
――深い縁のある者にかまってもらう。それが何よりの供養となる――
私はおばの死を通じて、古田早苗、雪子の霊が私に現れた理由を、はっきりと知った。
2人は、昭和26年に幽霊として、再度出現している。
事件の真相が明らかにされない事に失望している。爾来、48年間、私を待つ続けたのだ。
――だが――当の私はそれでも逡巡していた。
その理由はただ1つ、私は趣味で小説を書くが、プロではない。文章も構成も下手だ。
・・・もう少し時間をもらおう。自費出版を出す。5百部作る。それをすべて、当の関係者に配ろう・・・
おばの死に続いて、母親が死ぬ。仕事も忙しくなる。
小説を書く時間が極端に減る。心の奥底で、事件の真相を公表する事に、ためらいの気持ちが引っかかっている。時間がない事を幸いに、先延ばしにしていた。
平成22年5月15日、仕事の用で東海市に行く。午後10年時半、旧常滑高校の前の県道を通る。帰宅の道筋だ。
正門前に常滑市美術展の看板が出ている。普段は見慣れない光景で気にもかけない。この日天気も良い。白地の縦長の看板に黒々とした文字が鮮やかに照り返っている。自己主張するように、看板が正門から浮き上がって見える。
・・・美術展か・・・私は絵や彫刻、書芸などには興味がない。鑑賞眼もないし作品の良しあしも判らない。普段から見過ごしている。
・・・見てみようか・・・車を正面の中に乗り入れる。自分の気まぐれ、その時はそう思った。
旧常滑高校とあるように、4~5年前までは常滑市立高校だった。廃校に伴い、体育館などが、、いろいろな催物に利用される。
正門を入る。勾配のきつい坂道である。登りきると駐車場がある。右手が旧体育館だ。
館内は広い。四方の壁には、写真、書芸、版画などが作品を張り付ける様に並べてある。館内は3つに仕切られている。左右両側に彫刻、焼き物などが展示してある。常滑焼の急須も並んでいる。
真中は仕切のパネルが並んでいる。大小さまざまな絵が飾ってある。油絵、水彩画、鉛筆画など・・・。
市長賞、議長賞、奨励賞などの金銀の紙が貼られた作品が目立つ。
私は壁に貼られた写真、書芸をざっと見て回る。大きな絵は新聞紙1枚程の大きさ。小さい絵でもB4程の大きさだ。
ざっと見て回って、終わりに近ずいた頃、1枚の絵に釘付けになる。新聞紙2つ折りの大きさだ。褐色の木目模様の額縁に納められている。女性の肖像画だ。奨励賞の金紙が貼ってある。
・・・これは松野不動産・・・
今年2月に亡くなった松野不動産の女社長の肖像画だ。私が注視したのは、見慣れた印象とは、あまりにも違いすぎる事だった。
気が強く、押しも強い。女だてらにという言葉がある。
不動産業界は圧倒的に男が多い。勿論女性もいる。男の中に入り込んで目立たない人がほとんどだ。
松野不動産は中肉中背。スポーツマンタイプ。迫力がある。男勝りで嫌でも目立つ。
アクが強い。お客が土地を求めて来店する。今時のお客は一軒の不動産屋に一任する事はまずない。
お客からみると松野不動産は数ある不動産屋の一軒に過ぎない。
松野不動産はお客から住所、氏名などを聞き出す。希望する土地の場所、坪数、価格などの相談項目を記入させる。最後に来店した日付を書かせる。
お客が帰った後、常滑中の不動産屋に電話する。お客の名前などを伝える。その名前のお客は松野不動産のお客だと主張する。
たまたま、それを聞いた不動産屋でお客の希望する土地が出る。そのお客と契約する。無論、その不動産屋は松野不動産を無視する。何かのつてでお客が土地を買った事を知る。松野不動産屋はその不動産屋に乗り込む。仲介手数料を請求する。本来、松野不動産屋は仲介手数料を請求する権利はない。松野不動産屋はそれは百の承知だ。承知の上で乗りこむ。
迫力があると言っても、相手は女だ。手荒く扱う事は出来ない。やんわりと追い返す。だが松野不動産屋は手数料が貰えるまでは毎日通い詰める。時としてその不動産屋に来客がある。そのお客に聴こえよがしに大声を建てる。
不動産業界の嫌われ者、守銭奴、陰口が叩かれる。まともに相手をする不動産屋はいない。
肖像画をみて驚く。面長の顔だ。髪は男のように短い。眼が天を仰いでいる。何かを求める表情だ。弱々しく切ない雰囲気が漂う。
この絵からは人を圧倒するような気迫は感じられない。
・・・まるで別人だ・・・
絵は素人が描いたように下手だ。鑑賞眼のない私にも判る。だが、哀愁の色があふれ出ている。それを感じるのは私だけではない。絵画を見て回る人が一様に足を止める。しげしげと眺めていく。
――奨励賞――をとるだけあって、上手下手を超えた何かがある。観る者に訴えかける強烈な迫力を持っている。
題名は愛妻、作者は松野不動産の夫、松野登。
一通り見て回る。出入り口には数人の係員が来訪客に美術展に出品目録を手渡している。
外に出ようとした時、会場に入ろとする松野登氏と眼が合う。過去、何度か松野不動産に出入りしている。松野氏をよく知っている。
本来なら軽く会釈して通り過ぎるだけだ。
「松野さん、お久しぶりですね。奥さんの絵、迫力がありますね」思わず声だ出る。褒められたと思ったのか、松野は私にすり寄る。
「お感じになった事、もっと聴かせて下さいな」
松野はやせ形で背が高い。女のように、つるりとした顔をしている。目鼻立ちが整っている。声も柔らかい。
不動産屋仲間で噂話が出る。
――松野不動産の旦那は優男で女好きの男だ。何故あんな男みたいな女と一緒になったのだろう――
私は立ち話は何だからとと言って、もう一度絵の前に戻る。
我々が見慣れた松野不動産の社長さんとは雰囲気が違う。哀愁が漂っている。観る者を引き込むような迫力がある。
――出展され絵の中で最優秀の作品だ――
自分でも驚くほどの誉め言葉が口から勝手に出てくる。松野は切れ長の目をうるませて聞いている。
「実は亡くなった家内の事で、聞いていただきたい事が・・・」と言いながら、喫茶店でお茶でもどうかとせまる。
私は返事を予期していたように、うんうんと頷く。
旧高校前の県道を5百メートル程南に行くと、喫茶店がある。午後2時、店内は空いている。
松野は席に腰を降ろすやいなや「絵の出来はどうでしょうか」とせまる。
私は返事に詰まる。下手とは言えない。
「まあまあでしょうか」
松野は笑って「下手ですね」自分でも判ると言う。
すぐに面を改める。
「家内は・・・」眼が外の駐車場を見る。
松野夫婦は九州の出だ。2人とも貧しい家で育っている。友人のツテを頼って名古屋にくる。
松野登は性格上押しが弱い。話も下手だ。ビルの夜警の仕事を見つける。妻の松野秀子は」町の不動産屋の営業に入る。名古屋にいたのは約5年、3人の子に恵まれる。
その間、松野秀子は不動産の国家試験に合格。不動産の免許を取得。
松野秀子と同じ会社に勤務していた女の子が結婚の為に退職。常滑に移り住む。彼女から常滑に来ないかとの誘いをうける。名古屋は不動産の需要が大きいが、競争が激しい。常滑の方が仕事がやり易いとの情報を得ていた事もある。
常滑に移り住んで、松野不動産はたちまちの内に頭角を現す。常滑の不動産屋は大人しい人が多い。来訪した客を執拗に追いかける事もしない。夜討ち、朝駆けなど、そんな言葉がある事も知らない。それに、兼業が多い。のんびりしたものだ。
松野不動産が常滑に来たのは平成10年。
以来平成22年の今日まで苦労の連続であったと話す。
松野登49歳、妻秀子享年45歳。3人の娘はそれぞれ17歳を筆頭に15歳、13歳。
松野はコーヒーを味わう様に飲む。静かな口調だが、口がよく動く。
・・・よく喋るな・・・
松野不動産は営業、客への対応は奥さんの役目、ご主人は奥で事務の仕事。応接室には顔も出さないし、口もきかない。
まずは九州での奥さんとのなれそめから、話が始まる。名古屋に来た事、3人の子供に恵まれた事を話す。
堰を切ったように喋り出す。
常滑に来て奥さんは水を得た魚のように働きだす。常滑だけでは需要は少ない。だが大府、東海市、東浦など知多半島全域でみるとかなりの需要が見込まれる。
子供の養育は夫に押し付ける。朝8時から外を飛び回る。帰宅が夜10時を過ぎる事も珍しくない。
――家族の食事も私が作りましてね――松野は笑って答える。
私ね――松野登の表情が沈む。
――妻が常滑の不動産屋に憎まれ、悪口を言われている事は知っていました――
子供達にも、母親としての役目を果たしていない。
3人の子供も妻に馴染もうとはしなかった。子供の耳にも母親の悪口が聞こえてくる。母親を憎んでさへいた。
私は陰ながら必死で妻を支え続けました。事務所の事、家の事、子供の事は全部私が面倒を見ました。
妻は――、松野は口を切る。一瞬の静けさが漂う。喫茶店内は私達以外の客はいない。
妻は膠原病に犯されていたのです。
5~6年前、身体の節々が痛いと言い出す。働きすぎではないか、たまには休んだら、私がやかましく言っても休もうとはしない。
そのうちに、風邪を引いたような発熱状態が続く。体重が減る。疲れやすくなる。
病院で診てもらう。膠原病と判った時はショックだった。松野秀子は夫に約束させる。この事は子供達にも、他の誰にも言ってはならないと。
膠原病とは一言で言えば、外から侵入する病原体などの細胞と、自分自身の細胞と見分けがつかなくなる病気だ。
体には自己免疫性がある。外から侵入する病原体を排除しょうとする。膠原病は自分の細胞と病原体との区別がつかなくなり、自分の細胞さえも破壊しようとする。
実際には、結合組織、リュウマチ性疾患、自己免疫疾患の3つの要素を併せ持つ病気と言われる。
――妻は自分の寿命が長くないと悟っていました。生きている間に稼げるだけお金を稼ごうとしました――
金の亡者と言われようとも、何を言われようと、毎日気を張り詰めて仕事に励んだ。
松野秀子は今年1月中旬に市民病院に入院する。
2月になって、夫が肖像画を描くと言い出す。彼女を看病するのは松野登ただ1人。娘たちは1週間に1回は見舞いに来るが、それ以上寄り付こうとはしない。
――お前の絵を描いておきたい――
松野登はベッドに横たわる妻を絵に描く。4日間、一心不乱に描き続ける。
「これが、私?」妻は絵を感慨深そうに見上げる。
すべてを諦めきった表情、頬をこけている。哀愁が漂っている。眼が遠くに注がれている。唇がかすかに微笑している。
「これが、本当のお前の姿」松野登は妻の髪を梳いてやる。
「今度のね、常滑市美術展に出展するつもりだ」
妻は涙をポロポロと流す。
「嬉しいわ、私の事、あなただけが判っていてくれていた」
それだけで充分だと思っていた。自分の本当の姿を絵にしてくれた。それを出展してくれる。鑑賞してくれる人は少ないかもしれない・・・。
松野登の女のような唇が滑らかに動く。
・・・どこかで聞いたような科白だ・・・
私がそう思った時だ。松野の白い顔が、古田早苗と二重写しになる。
私ははっとする。全身が凍りつく。
古田早苗の霊が松野を通じて、私に訴えかけているのだ。
松野の表情は人形のように動かない。口だけが動いている。
・・・私がここにいた証ね。本当はこういう姿でいたんだって・・・
妻は絵を両手でしっかりと抱きしめました。
――絵は私の愛の証でした――
私は大きく頷く。古田早苗に詫びた。
平成22年6月上旬から小説の筆を執る。
不思議な事が起こる。不動産の仕事がバッタリと途絶える。
筆の運びは順調だ。筆は滑らかに動く。何か他の力が私を動かしている。面白いように書ける。真摯な気持ちで原稿用紙に向かう。
8月中旬に脱稿。役目を果たした気持ちだ。
その夜、夢を見た。
古田早苗母娘が私を見ている。和やかな表情だ。深々と頭を下げている。
母の早苗は京友禅染めの色留袖を着用している。帯は波頭紋、着物の柄は御所解山小模様。髪を後ろに結ぶ。気品のある顔立ちだ。清々しい富士額が白く映える。大きな瞳と三日月眉が美しい。朱に染まった唇が艶めかしい。筋の通った形の良い鼻梁が、瓜実顔に品格を漂わす。
娘の雪子は相変わらずのおかっぱ頭。母と同じ和服姿。京友禅染の色留袖は母と似ている。柄は菊華紋章花模様。帯は菊菱紋。母より鮮やかな色彩だ。
くりくりした眼が生き生きとしている。ふっくらとした頬が美しい。おちょぼ口に、母似の筋の通った鼻が、可愛らしさに花を添えている。
2人とも、輝くように美しい。
「天神様の御元に参ることが出来ました」
古田早苗は白い歯をのぞかせる。
私は夢の中で感嘆する。
霊が下界をさまよう時は、貧しい姿で出現する。霊が不浄を洗い落として神界へ上がる。その時の姿はきらびやかになる。
2人は手を取り合う。輪をぐるぐると回り出す。そこに杉の巨木、神木が現れる。樹の側に、天神様の祠がある。陽の輝きが目が眩むほど明るい。神界の太陽は地上界の太陽の数十倍も明るく輝く。
そこは宏大な野原だ。
雪子の口から澄んだ歌声が流れる。暖かい響きだ。活気に満ちて力強い。母早苗も雪子に和して、カゴメの歌を歌う。2人の笑顔は至福に満ちていた。
平成22年9月上旬。
私は三重県多気郡明和町の天神社にいた。
――母娘火焔地獄――と題する小説の原稿を奉納する。
眼にも鮮やかな表情の神主さんは笑みを絶やさない。
「良い供養をされました」
私からぶ厚い原稿を受け取る。神殿に奉納する。
大祓の祝詞が挙げられる。
約30分で式次第が終了する。お茶を飲みながら歓談する。私は美術展に出展された絵のことを話す。
目鼻立ちの整った女の神主さんだ。私の話を瞬きもせず聞き入っている。
――あの世の仕組みに説法はありません。あなたがお悟りできるよう、仕組みを降ろされます――
私は頷くばかりだ。
「この小説、製本が出来上りましたら、お届けします」
「是非、読ませていただきますわ」
私は天神社を後にする。神主さんはいつまでも私を見送っていた。
―― 完 ――
お願い――
この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人団体組織等とは一切関係
ありません。
なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景ではあり
ません。