【02】
家に帰れば、母さんが「おかえり」と出迎えてくれる。買い置きのお菓子をつまみながら、ニュースやドラマの話で盛り上がった。
少し休んでから夕飯の支度を手伝って、父さんが仕事から帰ってくると、三人で食卓を囲む。
「そういえば楓。最近遅くまで部屋の電気が点いてるみたいだが、勉強頑張ってるのか」
答え辛い質問に少しだけ委縮してしまう。そんな僕を気遣って、父さんは「無理はするな」と、「大切なことだが、自分のペースで進めなさい」と、温かく背中を押してくれる。
まだまだ頑張らないと、やってやろうって気になれる。
だけど今日は、果たしていつもの調子で笑えていただろうか。
夕食を終えて自室に戻っても、机に向かって集中することが出来ない。特に今日は一段と酷い。文字や数字が上滑りして、しっかり読み込んで考えられない。
頭を過るのは姫川さんのことばかりだ。
あの濁った視線が、なにを思っているのかわからない笑顔が、頭から離れてくれない。
みんな死ねばいい。そんなことを言えてしまう彼女は、一体どうなってしまっているのか。
考えたって仕方のないことなのに。トイレの奥から聞こえてくる騒音や罵声が、傷付いた姫川さんの姿が、延々と思い起こされる。追いやることに、目を背けることに慣れていたはずなのに。
際限のない迷いと後悔に苛まれていると、父さんの声が割り入ってきた。
「楓」
名前を呼ばれて、ようやく気が付く。部屋の扉を開けて、父さんが僕をうかがっていた。慌てて机の上を隠そうとしたが、そこには教科書とただ白紙のノートが広がっているだけだ。
「どうした楓。ゲームでもしてたのか」
「父さん」
「驚かせたみたいだな。一応ノックはしたんだが」
「ごめん。気付かなかった」
「集中してたか。悪い」
そうじゃない。応えられない僕に、父さんは察してくれたみたいだ。
「悩み事か」
腕を組み、なにかを考えてくれている。本当なら勉強に手が付かないことを、怒られたって仕方がないだろうに。
やがて父さんは、「部活を始めて見ないか」と提案した。別に部活じゃなくても構わない。委員会でも、習い事でも、なんなら流行りのインターネットで友達を作って交流してもいいかもしれない。なにか新しいことを始めてみないか、と。
「慣れないことをすると最初はてんやわんやでな。だからこそ、悩む時間がないくらいに熱中してしまうんだ。それが手について楽しめるようになる頃には、距離を置いていた悩みの解決法を思い浮かんだり、案外なんとかなりそうだって思えてくる」
どうなんだろう。僕の悩みは、それが通用する類なんだろうか。どこまでもズルズル引きずって、なにも取り組めないような、そういうものだと思うのだけど。
でも、新しいこと、か。
「ああ、それにな。新しいことを始めれば、当然、今までになかった経験を得ることが出来る。それを通して新しい考え方も得られる。それは活動からだったり、人からだったり。それは悩みだけでなく、その先にも役に立つ宝物だ。いわゆる成長ってやつだな」
「父さんも、そうしてきたの?」
「そりゃあな。悩むのも大事だが、悩むだけなら解決しないだろ。だったらじっとしてないで、少しでも自分を高めておこうってな。なにより知ってるだろうが、父さんはじっと考えてるのが苦手だからな」
父さんは話してくれた。悩んでイライラしては、気分転換にあらゆるものに挑戦していたと。
野球にサッカー、柔道に水泳、書道やピアノも習っていたらしく、僕と同じ中学の時は生徒会長もやっていたんだとか。高校に入ってからはサッカー部一筋だったそうだが、並行して生徒会活動やボランティアなど、たくさんのことに取り組んでいたらしい。
そうやって経験を積んできたからこそ、今ではたくさんのことが出来る。だから楓にも挑戦してほしいと、多くのことをさせてあげたいと、手伝ってやりたいと言ってくれる。
「大丈夫だ。楓ならなんだって出来る」
ああ、敵わない。僕はなに一つ、父さんに遠く及ばない。
姫川さんのことだって、父さんなら。
「ほら、落ち込むな。お前はまだまだ中学生だ。これからだよ」
「……ありがとう」
優しく叩かれた背中から、じわりと熱が広がっていく。広がっていく視界に、父さんの笑顔がはっきりと映った。
僕は本当に恵まれている。
だというのに、どうして僕は、こんなにも。
気分転換にコンビニへ行ってくる。言うと、父さんは千円をくれた。
「そんな、悪いよ」
「そういう気分なんだ。好きに使ってこい。なんなら使わず貯めといてもいいぞ。そういうのも、大事なやりくりだ」
車を出してやろうかとも提案されたが、今は一人になりたい。心配してくれる父さんに大丈夫だよと、半ば強引に家を飛び出す。
真っ暗な街へ出て、涼しい夜風に両手を広げた。ジジジと点滅する街灯が不気味で、辺りを回る羽虫たちが、一層夜の怪しさを強めてくれる。
遠くから聞こえてくる車の音。近付いたかと思えばすぐに遠くなって、いつまでも耳に残る静けさが心地良い。
大きく息を吸い込めば、思った以上の冷たい空気に胸を抑えた。今度はゆっくりと、身体の奥から熱を吐き出していく。解放感、深呼吸、大きく肩を下ろした。
嘔吐する。
近くの電柱によりかかって、溝の鉄格子に思いっきり吐き出す。
積まれて積まれて重なって溜まっていく父さんに、腹の深くからわなわなして耐えられない。期待が、呼吸をするように、耳から喉を通って流し込まれる。胸の奥でくすぶっている小さな火を、強引に燃やされる感覚。
そのまま消してしまいたいとさえ思っているものを、決して諦めさせてくれない。
そんなの僕には無理だ。
「駄目だよ、父さん」
足はコンビニを通り過ぎて、朦朧とする視界は薄暗い道先の向こうへ。
ぱたんぱたんと子どもみたいに煩い足音が、何度も繰り返し自分の耳を打つ。頭が痛い。口の中が不味い。どうして、なんで僕はこんなことになっているんだ。
僕の家族はこんなにも優しくて、僕はこんなにも嬉しくて、幸せで、頑張ってるのに。
「僕は。僕は、僕は」
そう、僕は、だ。わかってるじゃないか。全部僕だけだ。
姫川さんが優しいと言ってくれた。そんなわけがない。僕は優しくされているだけだ。父さんがなんだって出来ると言ってくれた。
違う。僕はなんだってやってもらってきただけだ。なにもしていない、なにものでもない。全部僕じゃない。
だけど、その評価がたまらなく嬉しいんだ。褒められることも期待されることも、頑張ろうって気になれる。応えたくて仕方がなくなる。
その結果が、僕なりの知恵と僕なりの努力。どこにだって届いていない。なんだって変えられない。
「あ、は」
勉強が出来なくて、運動もまるで駄目で、家族の期待に応えられない。目の前でいじめられている女の子も助けられない。
先輩や同級生に逆らえず、それどころか姫川さんにまで罪悪感に付け込まれて。なんて情けない。
僕は悪い子です。こんなにも幸せで恵まれているのにも関わらず、堕落して。
「ねえ、見てよ父さん」
こんなにも、救いがない。
そしてそれは、僕だけじゃない。
「こんばんは、姫川さん」
気付けば僕は公園に居た。
そこにはどうしてか、姫川さんも居た。
「なんで十村くんがこんな夜遅くに、こんなところに居るんだか」
僕を睨む。放課後の時とは違い、制服じゃない。彼女が着ているのは真っ黒のワンピースだ。明りの下でベンチに座って、その黒色がより深く浮き彫りにされている。くすんだ髪も相まって、頭から黒墨をぶちまけられたみたいだ。
それ以上に、もっと暗い目が僕をじっと見ている。光の映らない瞳が、今の僕には、どうしようもないくらいに羨ましい。
「こんばんは」
もう一度、繰り返す。
「……こんばんは、十村くん」
果たして姫川さんの目には、僕がどう映っているんだろう。笑っているだろうか。泣いているだろうか。それとも彼女みたいに、無感情で無関心に、なんとも言えない表情を張り付けているかもしれない。
僕は辺りを見渡した。公園にも近くにも、僕ら二人以外は居ない。もしも居たって、僕らに構おうとはしないだろう。姫川さんがベンチから立ち上がって、僕は夕時のように、少し離れた場所から彼女を見ている。
最初に視線を逸らしたのは姫川さんだった。置き換わった目先には、小さなジャングルジムがある。僕の丁度二倍くらいの高さ。
ふと、向いたその横顔、右の頬が少し赤く腫れている。
「十村くんは暇なの?」
「ううん。わりと早めに帰った方がいいかも」
「こんな時間になんの用事があるんだか。探し物?」
「なにも」
ただの散歩、とでも言うべきなんだろうか。それは少し違うような気がして、だから。
「家出、かな」
「ほんと、十村くんは面白いのね。笑える。けど、笑えない冗談よ」
今度こそ、姫川さんは怒ったような気がする。そう思えたのも一瞬で、きっと勘違いだろうと思えるほどに、彼女は言葉通り笑う。
「まあ、どうでもいいけどさ。それで、時間はないの?」
「あまり長居してると、親が探しにくるかもしれない」
だけど少しくらいなら大丈夫なはずだ。そう答えると、姫川さんは視線を落とし、少しだけ考えるように押し黙った後、それじゃあ付き合ってもらおうかなと、こぼす。
「ちょっと、私のお話し聞いてくれない? そういう気分なんだけど」
「うん」
「簡単に頷いちゃって。それとも、また引け目を感じて聞いてくれるのかな」
そういうつもりはなかったのだけれど、答える前に、姫川さんは僕の視線に気付いて右の頬を触った。
「ああ、赤くなってるのね。さっきからずっとヒリヒリしてるの。叔母さんにひっぱたかれたのよ」
どうでもいいけどさ。呟いて、姫川さんが歩みを始める。ジャングルジムの骨組みに、傾いたシーソーの取っ手に、それから滑り台の登りの階段に触れながら、懐かしいわ、と。
「ここにはよく来るのだけど、遊具で遊んだのは幼稚園の頃だけね。その頃は今の十村くんみたいにずっと私を目で追ってくれる、両親が居たわ」
だけど今はもう居ない。
姫川さんは滑り台の階段に座った。俯く表情が髪に隠れる。泣いているようにも見えるけれど、きっと今でも、彼女は無感情に睨んでいるだけだ。
「十村くんは知ってるわよね。成り行きとはいえ、あの男たちの言いなりなんだもの。あいつらの口からでなくとも、誰かしらに聞いたことはあるでしょ」
勿論、知っている。
僕だけじゃない。学校中の人たちが、下手をすれば父さんや母さんだって知ってる。
「母親の方が、父親を殺した。浮気かなんだか知らないけど、信じられないわよね。娘が居たのよ。なのに死んだわ。殺されたわ。殺したわ。私が居たのによ」
その声に、僕はなにも感じることが出来なかった。淡々と続けられる一つ一つの言葉から、まるで重みを感じない。ただの世間話のようで、もしかするとそれ以上に、どうでもいいことのような。
「あー。逆ならよかったのにさ。父親の方が殺してたなら、私は母親を奪われた悲しい女の子としてデビュー出来てたかも。こればっかりは運が悪かったのね。結局、先に手を出したのは母親の方だった。娘の私は同姓同類。人殺しの娘よ。そうして私は、父親の妹夫婦に引き取られたわ。自分の兄を殺した憎き人殺しの娘を、ね」
その話は終わって、次に移される。過去から現在に。そのあまりの頓着の無さに、違和感ではないナニかを、ようやく見つけられた気がした。
続く話に耳を傾ける。それが気のせいであることを祈りながら。
「驚くことに、言い出したのは妹夫婦なの。親戚中の誰もが嫌がった中、多額の援助をみんなで出し合おうって話になった途端喰いついたのよ。頭が空っぽの大馬鹿夫婦。家や食事ばっかりどんどん豪華になって、その癖、いっつも機嫌が悪そう」
一生遊べるお金が手に入るなら、悪魔と一緒に暮らせる?
姫川さんの問いは、つまるところ。
「ここを殴られたのも、そんな気持ちの悪い服はやめなさいってさ。引き取ってあげた恩も忘れて睨むなって。この理由は何度目だったかな」
真っ黒のワンピース。肩口から伸びた腕や裾からのぞく素肌には、幾つもの傷痕が残っている。
彼女はそれらを隠そうともしない。その異様さを押し付けることに、不快感を煽ることに躊躇いがない。
まさしく、彼女の言う、悪魔を思わせるように。
「気持ち悪いでしょ。不快になるでしょ。だからなに。私が好きな服を着てなにが悪いの。まー悪いだろうけど、別に気にしないわ。私は着たいのよ。それが嫌なら見なければいい。腹が立つなら殴りなさい、蹴りなさい。それでも脱がないわ」
姫川さんが、空を仰ぐ。見開かれた瞳は血走り、頬を歪ませ歯を晒す。
「私の勝手、あっちも勝手。みーんな思い思いに自分の主張を押し付けて、勝手に、身勝手に! やりたい放題やっちゃえばいいのよ! それってなんて平等で幸せな世界なの。それこそが自由じゃない。みんな死ねばいいのに!」
彼女は叫んでいた。それなのに、それでも、その声から怒りを感じられない。悲しさも苦しさも、なにもないように思える。それに表情だけを見るなら、姫川さんは笑っているんだ。
楽しいはずも面白いはずもないのに、頬を吊り上げて。
その笑みも、無感情さも、全部僕が持ちえないものだ。僕とはまるで違う。
そのナニかを確信する。彼女は、満足しているんだ。こんなものを。
「勝手に盛り上がっちゃってごめんなさいね。十村くんがなにも言わずに聞いてくれるから、つい調子に乗ってしまったわ。本当に、優しいのね」
まただ。僕はなにもしてないのに。
姫川さんは両手を一杯に上げて、ゆっくりと左右に下ろしていく。深呼吸。それから立ち上がってこちらを向いて、今度こそ視線が合った。
タンと確かめるように足を鳴らしながら、一歩一歩、焦らすように歩いてくる。その足取りは楽しげで、頬が少し緩んでいるようにも見えた。
僕より小さな女の子。見上げる彼女と僕は、なにも知らない人から見たら、兄妹みたいに思えるかもしれない。実際に見下ろしているのは、姫川さんだというのに。
姫川さんはもう一度、僕を優しいと言った。
「十村くんは痛いことをしないもの。私だって痛いのは嫌だわ。だから、痛み無く居てくれる十村くんが、私は好きよ」
簡単な女でしょう。茶化すような口調だけれど、冗談のようには聞こえなかった。もしかすると、いいように持ち上げられているだけなのかもしれない。
簡単というなら、姫川さんのいう優しさこそ、なんて当たり前のことなのか。
「痛いのが嫌なら」
彼女に尋ねる。
「どうして、姫川さんは逃げないの」
先輩たちに呼び出されて、応じているのか。帰りたくもない家に帰るのか。痛いからやめてと、言ってくれないのか。
彼女は、ただ、当たり前でしょうと、あまりにズレた笑顔で答えてくれた。
「みんな私に構ってくれるから」
名前を知っている。姿を見てくれる。事情を知っている。同情してくれる。嫌悪してくれる。眉を寄せる。舌打ちをする。文句を言ってくれる。暴力をふるってくれる。
つらつらと並べられるそれらを、彼女は関心と呼んだ。
「私を溜め込んで、私にぶつけてくれる。それは私がここに居るからで、私を思ってくれて、私を痛くしてくれるのよ」
その理屈に、言葉が浮かばない。納得できないけれど、わかってしまう。だってそれは、姫川さんが最も必要としていたもので、一番欲しかった相手に捨てられてしまったものだ。
「だからね、十村くん」
だから、姫川さんは満足している。
僕なんかとは全然違う。
「あなたはこうして傍に居てくれて、痛いこともせず、話まで聞いてくれる。それだけで、私は嬉しいのよ」
ああ、本当にそれだけだ。そんなことだけで、彼女にとって僕は優しい。
なら僕は、それでいいんじゃないだろうか。今の自分に出来ることが、姫川さんのためになっているなら。
僕は、いいのか?