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【01】


 水の跳ねる音。

 続けて割れるような音を重ねて、三つのバケツがタイルの上を転がる。飛び交う罵声や怒声に脈絡はなくて、本当のことなのかどうかもわからない。ただ、何度も繰り返される言葉が一つ。

 人殺し。

 僕はただ耳をすませる。男子トイレの入口に立ち、T字に分れた廊下の先を見回す。僕以外の生徒は居ない。勿論、先生の姿もない。誰もここには近付かない。みんな知っているから。

 やがて音が止んだ。荒々しい足音に様子をうかがえば、すぐに先輩が出てきた。背が高くて肩幅の広い、同じ中学生とは思えない存在感に委縮してしまう。


「十村。今日もよろしくな」


 機嫌が悪そうに眉を寄せて、けれど口元だけは吊り上がっている。後ろからゾロゾロと続く五人の男子生徒の内、三人はクラスメイトだ。

 先輩に、肩を叩かれる。ぽんと優しい感触に、僕は震えを堪えるのでやっとだ。きつく合わせた唇に、先輩たちが笑った。


「よろしく、されました」


 やっとでこぼれた気の利かない言葉に、またどっと笑いが起こった。

 先輩たちを見送ってから、男子トイレに踏み入る。濃い洗浄液の臭いが鼻を突き、時折混じる湿った花の香りが、余計に不快感を際立たせる。タイルの上に散乱したバケツやデッキブラシ、空になったボトルが、事態を物語っている。

 そこに、彼女は一人、座り込んでいる。頭からずぶ濡れにされて、セーラー服は緑の染みを広げて。だらりと放り出された手足にも、幾つもの擦り傷や青黒い腫れが浮かんでいる。

 張り付いた前髪を上げて、姫川優奈は僕を見る。ドロリと濁った瞳には光が無く、鋭く睨む視線は、僕を映しながら僕を見ていない。まるで世界のすべてを呪っているかのように思えた。


「十村くん。ようやく終わったのね」


 低い声。姫川さんはうわ言のように、ぶつぶつと何かを呟いている。


「最低。こんなに汚されるなんて。色が落ちればいいけど」

「姫川さん。大丈夫?」

「相変わらず、十村くんは面白い冗談を言うわね。よく笑われるんじゃない」


 言って、彼女は唾を吐き捨てる。泡に混じった僅かな緑色に、寒さを覚えた。

 今度こそ、姫川さんは僕を見ている。だからふっとその頬が緩んだ時、それがあまりに不釣り合いで、僕は膝からその場に崩れ落ちた。呆然とする僕に、姫川さんは再びキッと目を細める。


「私は服を洗ってくるから、あなたはいつも通り、後始末でもしてれば」


 わざとらしく足を鳴らして、姫川さんは隣の女子トイレへ向かう。僕は震える手で、冷たいブラシを拾い上げた。




 ◇     ◇     ◇




 校舎東棟の四階。

 使われない教材を押し込んだ倉庫や、何もない空き教室しかないから、生徒はめったに立ち寄ることがない。加えて、素行に問題のある集団が集まることも多く、先生たちでさえ避けている場所だった。

 そんなところに呼ばれたから、僕は最初、無事では済まないだろうと諦めていた。クラスメイトの野球部員に連れられながら、自分の失敗を必死に思い探す。

 買ってきたパンが形を崩していたのか、雑誌の端が折れていたのか、それともただ単に気に入られなかったのか。恐がるなよと茶化す案内人に、果たして僕はなんと返事をしたのか、笑われたことだけは覚えている。

 そうして辿り着いたその男子トイレで、僕は先輩と、姫川さんに出会った。姫川さんは服を脱がされ、床に押さえつけられているところだった。


「よう。お前が今日から見張り番をやってくれるんだよな」


 当たり前のように、まるで関係のないことを聞かれた。そしてそれは確認じゃなくて、有無を言わせてもらえない、決定だ。先輩は歯を見せているけれど、愛想が良いのは口元だけだった。思わず視線を下ろす。

 だけど逃げた先にも、僕を睨む、姫川さんが居た。


「お前も運が良かったな。えっと、十村だっけか。クラスメイトと上手くいってないんだろ。まー可哀想で放っておけないからよ、今日からよろしくやろうぜ」

「え、えっと」


 先輩の言葉に、喉が詰まる。なんでもいいから返さなきゃいけないのに、頭が回らなかった。だってそんなことより、組み敷かれたその子が、ずっと僕を睨んでいたから。

 そんな彼女の顔が、唐突にタイルへ叩き付けられた。押さえつける先輩の右腕には、びっしりと血管が浮き彫りになっている。

 先輩は笑っていた。


「お前だって知っているだろう、こいつの噂は」


 知っていた。クラスも違うし、会ったのも今日が初めてだった。

 それでも、知っていた。


「みんなこいつに迷惑してるんだよ」


 だからこれは、善いことだ。

 それから週に三回程度の、見張り番と後片付け。それが僕に与えられた役割だった。




 ◇     ◇     ◇




 掃除も終わり、ブラシやモップを用具入れに戻していく。洗浄液も新しいものが準備されていたし、芳香剤も下の階から持ってきた。元通りとはいかないけれど、これくらいで大丈夫のはずだ。

 お前はそれでいいのか。父さんの口癖が頭を過る。類似するものに「お前がいいならそれでいい」や「お前のやりたいようにやれ」がある。それは僕個人を認めてくれると同時に、僕自身が自分を顧みることの出来る魔法の言葉だ。果たしてその選択でいいのか、納得できるのか。改めてみれば見落としや考えの足りていなかった部分を見つけ出せる。

 僕は決して、今の状況に納得しているわけじゃない。だけど、なにもかもが噛み合ってしまっている。

 たとえ一生このままでも、今のままなら僕は大丈夫なんだ。


「だったら、それでいい」


 今日も何事もなく終わらせた。それでいい。すぐ家に帰って宿題を終わらせて、少し早いけれどテスト勉強を始めよう。前回は少しだけ良くなっていたから、父さんにも母さんにも喜んでもらえた。今度はもっと伸ばせるように頑張らないと。


「僕はそれでいい」


 だから、彼女が僕を待っていた、その変化に息を呑んだ。

 壁にもたれて携帯をいじりながら、トイレから出てきた僕に視線を上げる。制服は湿って、滲んだ薄い緑は取れていない。まともに扱われていないボサボサの髪も、いつにも増して痛んで見えた。

 一体どうして待っているのか。尋ねる前に、姫川さんが大きく息を吐いた。歩き始めたその一歩に、思わず身じろぎする。トンと、僅かに引いた肘が後ろの壁に触れる。


「姫川さん」

「最低。色は落ちないし臭いも取れない。今日は洗濯ね」

「姫川さん、なんで」

「本当に最低。ねえ十村くん。大人の人って優しいのよ。服が汚れるのは嫌だって言ったら脱がせてくれるの。あいつらは脱がせてくれないわ。そういう事が目的だったとしても」


 姫川さんは怒っているんだろうか。愚痴をこぼす彼女の表情から、なにも感じられない。喜怒哀楽を失って、睨んでいるように見えるのも、ただ目つきが悪いだけのように張り付いている。


「最初は抵抗しても剥がして破いたりもしたくせに、私の貧相な身体を見るのが嫌になったのか、それとも痣を見るのが嫌だったのかもね。自分たちで付けたくせに」


 なにも言えない。ただ彼女の痣だらけの手足は細くて、背格好も成熟とはほど遠い。そんな小さな身体に男が叩き付けられることを考えたくない。思い出したくない。


「可哀想」


 姫川さんは自ら、その言葉を僕に切り入れた。気付けば彼女は僕の前まで来ている。見上げる瞳はどこまでも深く、暗い。鼻先をかすめる吐息にはまだ洗浄液の臭いが残り、それ以上の冷たさが僕の身体を震わせた。

 姫川さんが、一つ、提案を囁く。


「私に思うところがあるなら、手伝いなさいよ。それであなたも、少しは報われるでしょ」

「なにを」


 手伝えって、報われるって、なんだよ。


「なんだっていいのよ。なんにしたって、十村くんは私に従うでしょ。それしかないんでしょ」


 姫川さんの手が僕の胸に触れる。


「私、あなたみたいな人は好きよ」


 それから撫でるように、なにかを確かめるようにゆっくりと肩へ移動して、離れていく。優しいはずの感触が、僕には刃物で遊ばれているようにしか思えない。


「十村くんは私を傷付けない。あなたがそれでいいなら、私もあなたには傷付けられない。だから私を手伝って」


 僕にはその笑顔が恐い。ただ挿げ替えただけの表情が、耳に滑る空虚な羅列が、なんの意味も含まれていないように思える。

 なにより、どうして僕が姫川さんを傷付けないなんて、彼女の口から言われなければいけないのか。そんなの要らないのに。


「ねえ十村くん。私はただ、買い物に付き合ってほしいだけなの」

「買い物って、なんで」

「同級生に頼むには当たり前のお願い事じゃない。別に裏になにかがあるわけでもないわ。ただ荷物持ちをお願いしたい、それだけ」


 本当にそれだけなら、拒むほどのことじゃない。

 そんなことでいいのなら。


「ちょっと報われるんじゃない?」


 うるさい。

 気に入らないなら帰っていいよ。それだけ言い残して、姫川さんは向こうへ歩いて、階段を下りて行ってしまう。遠ざかっていく足音の、その一段一段が静かに響いて、僕を急かした。

 僕は、それに従う以外の選択肢がなかった。





 姫川さんに連れられて、商店街のアーケードを進む。二人で並んで歩くのではなく、随分距離を置きながら、僕は彼女の後ろを続いている。通りでは近寄るなという、その忠告の意味を見せられている。

 ただ歩いているだけで奇異の目に晒されてしまう彼女の姿を。

 雨も降っていないのに濡れて、痛々しい痣を隠すこともせず。夕時の賑わいを彼女の存在一人が呑み込み、塗り潰してしまう。

 姫川さんは今、なにを思っているんだろう。その後ろ姿から、僕に感じ取ることの出来るものはない。

 道なりを進み精肉店に立ち寄ると、カウンターのおじさんは見るからに表情を曇らせた。それから別の店へ転々とし、野菜や飲料を買い揃えていく。どの店も歓迎することはない。会計すら耐えられないといった様子で、誰も目を合わせようとしていない。俯く姫川さん自身も同じだ。


「とっとと帰れ」


 どこからか、そんな呟きが耳を打つ。

 姫川さんが小銭を落とした。手荷物と一緒にしゃがみ込んで、動きづらそうに、一枚一枚拾い集める。丁度彼女の後ろには二人のお客さんが並んでいて、お店の人だけじゃない、その二人の女の人たちも不機嫌そうに眉を寄せている。

 可哀想に。聞こえてきたその言葉は、果たして誰に向けられたものなのか。お店の人かもしれないし、二人のお客さんかもしれない。それとも。

 姫川さんは立ち上がり次のお店に向かった。気付けば、僕の足は震えている。重たくて深い不安が、足元に沈殿しているからだ。


 僕は大丈夫なのか?

 もしかして僕も、姫川さんと同じように見られているんじゃないのか?


 不安に答えてくれる声はない。ただ、時折重なる視線が怖い。お店や道行く人たちに、一体僕はどう映されているのか。けれど逃げ出したい衝動と裏腹、実行に移すだけの覚悟さえも僕にはない。

 それからどれだけの時間が経っただろう。姫川さんの両手が袋で一杯になった頃、ようやく向けられた彼女の視線は、酷く濁っていながら、力強さを感じた。





 商店街を抜け、近くの公園に立ち寄る。時計を見ると六時を過ぎたところで、いつの間にか辺りの街灯が点いていた。日が落ちるのが遅くなってきたとはいえ、薄暗い公園には誰の姿もない。

 ベンチに座った姫川さんは、ドサリと一杯の袋を下ろした。ここからそれを持つのが僕の手伝いだ。家までどれくらいの距離があるんだろう。それなりに重そうだけれど。

 肩を落とし、息を吐く。姫川さんが僕を睨んだ。


「どうだった十村くん。息つく暇もない、充実したお買い物だったでしょ」


 その皮肉に返す言葉が浮かばない。口を閉じたまま視線を落とす。彼女の赤い靴もまた、所々が破け、色が落ち、黒ずみ汚されている。

 見ていられなかった。なにをしてもだめだ。姫川さんの近くに居るだけで、心を削られていく。

 だけど一番辛いのは僕じゃないはずだ。

 黙り込む僕に、姫川さんは「優しいのね」と。


「十村くんは本当に優しいわ。見ていて哀しくなるくらいに」

「なにが」


 なにが優しいっていうんだ。

 姫川さんはそのままなにも持たず、ベンチを立った。


「ここから十分くらいだけれど、約束通りお願いね」


 取り残された袋を拾い上げて、予想以上の重さに驚く。それなのに、今度は簡単に歩き出すことが出来た。





 辿り着いた姫川さんの家を前に、立ち尽くしてしまう。

 大きな三階建ての一軒家で、真新しい白い塗装が高級感を漂わせている。家の周りは高い塀に囲まれていて、正門の閉じた黒い鉄格子の隙間からは、草花の広がる中庭がのぞいている。

 奥に見えるガレージは車が三台並んで、それでも二台分の空白が残っていた。そして建物から聞こえてくるのは犬の鳴き声だ。重なり合う高低の違う声から、二匹以上であることがうかがえる。

 それはまるで、ドラマで出てくるみたいな家だった。ここが家だと、ここまで運んでくれてありがとうと、それら姫川さんの言葉がすべて、質の悪い冗談に聞こえてしまう。

 笑えない。まるでその家じゃなくて、姫川さんの方こそ、間違っているみたいで。


「綺麗な家でしょ」


 なのに、姫川さんは笑っている。


「花壇や芝の手入れは専門の人にお願いしてるみたい。家の中にも、リビングとか廊下の窓とかに綺麗な花が飾ってあるのよ。今度は車を買い替えるって。見えるでしょ。あんなに大きくて綺麗な車ばかりなのに」


 どこからそんなお金が出てくるんだか。言いながら、姫川さんが両手を出す。袋を渡して、ようやくとこぼれそうになった息を、今度こそ喉で押しとどめた。


「ねえ、十村くん」


 姫川さんは家を見上げていて、その表情はうかがえない。彼女がなにを思って、期待して、諦めていたのか。僕に尋ねた。




「一生遊べるお金が手に入るなら、悪魔と一緒に暮らせる?」




 気の利いた返事も、感情に任せた文句も、僕には言えなかった。


「この家の人たちはね、考えなしの大馬鹿者よ」


 みんな死ねばいい。

 吐き捨てて、姫川さんは門の向こうに行ってしまった。



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