木地師 弐
那古野城はその周囲を含めて、以前とは比べ物にならないほどの活況を呈している。あらゆる所から作事の声が聞こえてきており、人の出入りがとてつもなく多くなっていた。そして、人が集まるために、物や銭すら昔とは比べようがないほど、那古野に集まってきている。
その中心となっている那古野城は、大きな変貌を遂げていた。本丸の周囲に区画が設けられ、さらに各区画の周りを深く、大きな堀が巡っている。水を引いてきて水堀にする案すらあったと聞いていたが、近隣の川からでは堀を満たせるほどの水量を確保できないと予想されて取りやめとなった。川を掘削する案も出るには出たが、村井吉兵衛貞勝を筆頭に吏僚たちが銭不足を理由に大反対したために、幻と消えた。
城下町は京のように区画が整理されて、整った町並みが出来つつあった。また、現在は大工などを相手にした商売が増えているけれど、家臣団が移り住めば、それを相手にした商売に変わるだろうし、人も増えてくる。そうなれば那古野は巨大な城下町として機能するようになるはずだ。
「どうにか、清洲からの移動が無事に済んだな」
俺は移築した我が家を見上げながらつぶやく。一見代わり映えはしないが、柱や板を補修したりしたので、空家として買い取った前よりもしっかりした作りになった。
「八右衛門にはしっかり報いてやらないとな」
収穫でてんてこ舞いとなっている領地から、屋敷の移築のために十分な人足を派遣してくれたのだ。お陰で思っていたよりも手間なく建材を清洲から那古野に運べたので、無事に移築することが出来た。
「その際は、我らにも報いてくださらなければなりませんよ」
「孫十郎、ちゃんとわかっている。今川との戦いは近い。それに勝てば、恩賞は期待していいぞ」
移築を指揮している前田孫十郎基勝の後ろにいた道家兄弟が、嬉しげに笑みを浮かべる。二人は家臣として扱っているが、まだ無禄だ。禄を渡せるだけの活躍は十分にしているが、道祖家が手柄を上げるまでは衣食住の保証だけで良いと言ってくれている。
「それで、殿。これで奥方様と千代様を那古野にお迎えできますが、お呼びになられますか?」
俺の答えはわかっているだろうに。
少し腹立たしい気持ちで前田基勝を無視しようかと思ったけれど、村から来た人足たちが耳をそばだてているのに気がついて止めた。村人たちが悪気なく俺に聞いてきて、不興を買うのを防ぐためだとわかったからだ。
「……まだ那古野は騒がしすぎる。赤子にはよくないだろう。まだしばらくは村に居させたほうが良い」
「仰るとおりですね。出過ぎたことをお聞きしました」
「いや……構わない」
村人たちが聞こえていない振りをして、屋敷へ家財を運び入れていく。俺の横を通り過ぎるときに、何で二人を呼ばないのかという恨めしそうな視線で俺を見てくる。
俺は頭をかいて、後ろにいる前田基勝を振り返った。
「孫十郎、少し出てくる。ここは任せたぞ」
「どちらへ?」
「妙と千代への土産を探してくる。こいつらに持たせて、帰らせる」
前田基勝はうなずくと、村人たちに向かって声を張り上げる。
「ほら、早く村に帰りたかろう! 運べ運べ!」
掛け声を上げて、素早く家財を運ぶ村人たち。
俺は家臣たちと村人たちの声を背中に受けつつ、屋敷を後にした。
「那古野の見世棚もだいぶ増えてきたな」
少し前までは、どちらかといえば立売や振売の方が多かった。店舗商売が増えたということは、それだけ那古野に居を構える商人が多くなってきている証拠でもある。
一歩間違えると、この賑わいがあっけなく崩れ去ることになる。
今川の狙い通りに事が推移すれば、那古野に物が入ってこなければ商人が消え、町人がいなくなってしまう。そうなると、商人や町人にかけられる税、棟別銭は露と消える。那古野だけでなく、熱田や津島すら同様の状況となるだろう。織田家は那古野改築に持てる財力を振り絞っているため、尾張を制したというのにかつて程の余裕はない。崩れれば、あっという間に織田家は滅ぼされる。
「おお、道祖様ではないですか!?」
急な呼び声に、俺が顔を上げるとそこには大きく手を振った木下藤吉郎がいた。後ろには、家臣らしき男を連れていた。
俺が呼び声に手を上げて応えると、家臣の男とともに走ってくる。
「ご無沙汰しておりました。少し、北に行っておりましたもので」
「ああ、聞いている。出世の機会じゃないか」
「殿にお引き立ていただいたのは、道祖様のお陰です。かつて殿の勘気を蒙るところを、助けていただいたのですから。少し禄も上がったので、家族に会いに行けました。これは、弟です」
「弟?」
木下藤吉郎が横に立つ男の背を何度も平手で叩く。
「兄者、痛いから止めてくれ」
「何を言うか。そんなんでどうする! いいか、我ら兄弟、織田家で武士として身を立てると誓ったではないか! あれは嘘だったのか!?」
「嘘じゃない。でも、痛いものは痛いのだから、止めてくれってだけだ。兄者だって、手が痛かろう? 手を痛めてしまっては、槍働きが出来なくなってしまうじゃないか」
落ち着いた声で兄、藤吉郎を諭す弟。見ている側からしたら、兄と弟が逆に思えて仕方がない。
「まったく、わかったわかった。小一郎がそうまで言うなら、仕方ないな」
「ありがとう、兄者」
「やれやれ。お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。こいつは、弟の小一郎です」
藤吉郎が紹介すると、俺に向かって深く頭を下げる小一郎。
「あ、ああ。なるほど、以前に言っていた弟の小一郎か。村から連れてきたのか?」
「ええ。禄が上がって、これでおっ母に顔向けできると故郷に行ってみれば、去年と今年と二年続けて日照りにやられてしまっていたのですわ」
尾張は川の水量は豊富だが、それでも日照りとなると被害が出るところはある。藤吉郎の実家は、そうした被害にあったのだろう。
「当座の銭をかき集めて、おっ母と妹たちは何とかしてきました。ただ、小一郎の食い扶持はどうにもならなかったので、こうして木下家の家臣にしたのですよ」
「そうか……大変だったな。俺も村の出だ。何かあれば力になろう」
俺が小一郎に声をかけると、小一郎は頭を振る。
「いいえ。道祖様のお話は、兄者からよく聞いております。家族が飢えで苦しまなかったのは、貴方様のお陰です。大してお役に立てないでしょうが、何かあればお手伝いするのは、こちらの方です」
兄の時と違って、俺に対しては初対面の緊張のためか声が少し硬い。それを察したように、藤吉郎が庇うように小一郎の前に出て、弟を後ろに下げる。
「情けないことに、村から出て間もないので、人に挨拶するのがまだ慣れないのですわ。川並衆の所では後ろで縮こまっているし、荒子では年下のまつ殿の方がしっかりしていたくらいで」
「小一郎、心配するな。直に慣れる。今は藤吉郎にくっついて、学んでおけ。俺だって、殿にくっついて色々と学んだ」
「はい。ありがとうございます」
少し緊張がほぐれたようで、小一郎がほっとした顔を見せた。
「ところで藤吉郎。荒子に行ってきたのか?」
「ええ。川並衆に舟で長島辺りまで運んでもらった後、まつ殿とお幸殿に会ってきました。流石は前田又左衛門の娘、元気に泣いておられました。これから、熱田に行って前田様にまつ殿の文と、ご様子を伝えに行くのです」
「北に行っていたかと思うと、今度は南。大忙しだな」
「なあに、道祖様や佐々様に追いつくためには、もっと頑張らないといけません。それでは、早く前田様に文を届けねばなりませんので、これで失礼を」
そうして、藤吉郎は小一郎をせっつきながら、雑踏に消えていった。
川並衆は津島で話を聞いたことがある。木曽川に勢力を持つ、土豪衆だ。川渡しや水運を生業としている者が多く、決して大きな力ではない。だが、藤吉郎は早くも美濃での足場を固めつつあるようだ。
「ここで商売をするなら、恵比須様に奉納をしてもらわないといけない。わかってるんだろ、爺さん?」
土産になりそうな物を物色しつつ歩いていると、市場で数人の商人に囲まれた老人が目に飛び込んできた。
周囲は、老人を助けようとする者はいない。むしろ、掟破りには当然だという雰囲気である。
「市の中で商売をしてはおらん」
「こっちは迷惑なんだよ。市神様に奉納をしてないやつが堂々と市の前で商売をしやがって。市神様の御利益を盗んでいただろ!」
「単純にこちらの物が、良かった。だからこちらの品が売れていたのだろう」
小さな女の子を腕の中でかばいつつ、老人が反論するが、それは火に油を注ぐだけだった。
男たちから怒気が上がり、拳を固めて、老人を囲う輪を狭める。
俺は、老人と小さな女の子の組み合わせに記憶を刺激され、思わず駆け寄った。
「待て待て! 少し待て!」
思わぬ闖入者に、男たちの老人への包囲が弱まる。俺は男たちが事態を把握するより前に、男たちと老人の間に割って入る。
「ここは、この俺に免じて二人を許してやってくれ。もう二度と、この市の近くで商売をさせない」
「なんだ、あんたは? それで許されると思っているのか?」
「俺は馬廻りの道祖長三郎だ。この老人は殿が招いた客でな、俺が迎えに行くのが遅れてしまったんだ」
「殿様? 客?」
男たちが顔を見合わせる。市場には領主の権限は及ばないことが多い。なぜなら、そういう立地が選ばれて市場が立つからだ。だが、幸いにもここは信長様の城下町内だから、そんなことはない。信長様が市神である恵比須を勧進して設定した市場なのだから。
「本当に殿様が?」
「無論だ。なんなら、今から城に行って面通しさせても良い」
男たちは半信半疑な様子で、俺を見る。やがて、一人の男がうなずいた。
「いいでしょう。しかし、まずはあなたの確認が先だ。おい、道祖長三郎様の屋敷を探して、家人を連れてこい」
家臣の誰かが来るまで、ここに足止めになるようだが、老人の危機は去った。
市場中の人々から逃さないという感じで睨まれつつ、俺は老人に向き直る。
「まったく、市場に寄らずに当家に来てくれたら良かったんだ」
上洛中の黄和田で会った、木地師の老人はまだ不安げな女の子を抱えあげて、俺に頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
「ああ。前にも伝えた通り、仕事を頼みたいのだが、いいか?」
「わかりました……引き受けましょう」
老人は、不承不承の様子でうなずいた。
藤吉郎の弟、小一郎。後に豊臣秀長と呼ばれる人物で、もし長生きしていたら大きく歴史が変わったかもしれない程の人物ですね。でもまだ、村から出てきたばかりで、武士の世界は不慣れな状態。いずれ活躍を書きたい人です。
それでは、次話もお付き合いくださったら、幸いです。




