沓掛城
「誠なのでしょうな?」
車座に座った一人から、恐る恐るといった具合に声が上がる。
「無論だ。知っておろう、殿……織田家は清洲から那古野へと城を移す。そのための人夫や銭の負担は、相当なものになっておる。もう耐えられないと思う者が少なくないのだ」
「確かに……これまでにない大掛かりな普請をしているのは知っている」
「儂などは、領地が那古野にも清洲にも近い。留守居役に任せておったら、さんざんむしり取られておったのよ」
よほど腹に据えかねるのか、男の口調がどんどん早くなる。
「まだ家臣全員が、公平に負担しておるのなら、儂もとやかくは言わん」
男は言葉を切り、盃をぐっと干し上げた。潤いを取り戻した喉が、低音を震わせる。
「それがどうだ? 城周りに住まわせる子飼いの者共の負担は軽いものだ。領地持ちがだぞ? あまりにも不公平ではないか」
男が手にしている干した盃が、小刻みに震えている。それは、誰もが悔しさを我慢できないと察しがついた。
男の話を聞いていた一人が、盃に酒を注ぐ。そして、自らの盃にも酒をついで、杯をあおった。
「四左衛門殿……お主の悔しさ、十分に分かり申しました。これまで、今川家に味方せずに織田家についていたのは、偏に四左衛門殿を信じていたからこそでした」
「ありがたい言葉だ」
「そんなお主が、織田家ではなく今川家につけというのは、よほどの怒り故でございましょう。我が沓掛衆は、四左衛門殿についていきましょうぞ!」
一人の決断に、堰を切ったように周囲が同調を始める。我も我もと、賛同の声が上がり、それを見渡して簗田四左衛門政綱は口角をあげた。その笑みは、味方ができたことへの喜びにしか見えなかった。
永禄二年八月、尾張の東端、三河に接する沓掛城とその周囲の城が一斉に蜂起、織田家から離反した。沓掛城は鳴海城主、山口左馬助教継を通して、今川家への服属を願い出たのだった。
清洲城の大広間、那古野への移転のために作事の声が聞こえてくる中、評定が開かれていた。
「沓掛城の離反……ここにきて頭の痛いことだ」
筆頭家老の林佐渡守秀貞が、額に手をやりながら口を開く。
「公方様のお呼びだてがなければ、鳴海城は落としておった。そうであったら、このような面倒事にはならなんだ」
「しかし、殿が京に赴いたからこそ、殿は尾張守に推挙いただけることも確かでしょう。尾張守推認の話があってから、明らかに織田家の勢いは違う。こちらとしては、正直随分と助けられているのです」
佐久間大学盛重の公方への批判に対し、吏僚筆頭の村井吉兵衛貞勝が反論する。家老衆に入っていない村井貞勝の反論は珍しく、それだけ信長様の上京で風向きが変わったことを実感しているのだろう。
「そうは言うが吉兵衛よ。三河境の情勢が、今川方に傾いてしまったのは確かだ。これで、先日の佐治八郎殿とお犬の方様との縁談がなければ、一気に崩されておったかもしれん」
お犬との縁談を受けた佐治八郎は、清洲城で信長様と対面、水上での戦話で大いに信長様に気に入られて偏諱を受けた。名を改め佐治八郎信方となり、来年にも織田家一門に名を連ねることになるだろう。平素では相変わらず薄鈍な様子で心配視されたが、甲斐甲斐しく世話をするお犬が傍らにいると微笑ましく映った。
「うむ。殿の采配、見事でございました」
「佐治家が味方でなければ、収穫を前にして出陣となっていたかもしれません。そうなれば、何かと入用だというのに米が取れぬこともありえましたな」
一門衆筆頭の織田三郎五郎信広と丹羽五郎左衛門尉長秀が、それぞれ声を上げた。
「各方、今は沓掛、そして鳴海にどう当たるかをまず話し合うべきでは? 悠長に話し合う猶予はありますまい」
柴田権六勝家の発言に、家老たちが口を閉ざす。家老たちの会話を聞いていた信長様は、手ずから扇いでいた扇子を池田勝三郎恒興に投げ渡す。
「権六の申す通りだ。如何に対処するのか?」
「予てより、尾張三河の堺を調略しておりました簗田四左衛門からは、何も言ってきておりません。あの辺りは水野殿と四左衛門が受け持っておりましたので、今がどのような状況になっているかわかりかねます」
信長様の下問に対して、林秀貞が答える。
「そのため、念を入れて那古野城には半羽介を入れました。そして、長島の仕置きをしている左近にも蟹江城から後詰を出せるように指示を出しております」
「守りを固めるか。四左衛門はどこにおる?」
「息子の左衛門太郎が言うには、すでに尾三の国境で動いておるとのこと。此度の失態、名誉挽回するのに必死なのでしょうな」
評定の間に集まっている面々から、簗田政綱に対して責任を問う声が囁かれる。
俺は、塙九郎左衛門尉直政に視線を送ると、塙直政は涼しい顔をしていた。梁田政綱の与力として活動していることは周知の事実なので、非難の声は塙直政にも向かっている。
俺が見ていることに気がついたのか、塙直政は冷笑を浮かべた。そして、おもむろに立ち上がっては、信長様の前まで進み出て、平伏した。
「殿、某も沓掛方面に向かいたく存じます。今川方に奔ろうとする者たちを牽制し、沓掛を圧してご覧に入れます」
「いいだろう。見事にやり通してみせよ」
「ははっ! お任せくだされ!!」
塙直政は身を翻し、さっと大広間を出ていってしまう。
「九郎左衛門殿め、うまくやりやがったな」
俺の隣りにいる佐々内蔵助成政が、俺に囁いてくる。
「殿に売り込んだ挙げ句、居心地の悪い状況から抜け出よった」
「羨ましいなら、内蔵助もやってみたらどうだ?」
「虎穴ならばともかく、火中に身を投じることは御免こうむる。火の中に飛び込んでも、首は取れん」
その通りではあるが、塙直政なら火の中から財宝を掴み取ってくるかもしれない。ここまでは筋書き通りに進んでいるようだが、これからは綱渡りだ。今川に傾いた状勢を、崩すことなく保たなくてはならない。これ以上今川に傾いても、こちらに傾いてもいけないのだ。
自己保身に動く国境の領主たち、天秤を動かそうとするだろう今川、余人が介在する中でそれは至難の業となるだろう。そんな危うい状況に、塙直政が何の打算もなく飛び込むとは思えない。
「佐渡の手配通り、しばし推移を見守ろう。四左衛門との連絡は密にせよ」
「承知しました」
「今川に対するため、那古野への移転を早める。吉兵衛、材木などは問題ないか?」
「美濃との和睦推進により、木曽方面からの材木の流れが良くなっております。それと、長島や知多の海賊衆の動きも減るでしょうから、諸々の物資は滞りなく集まるかと」
「那古野普請だけではなく戦支度もある。特に材木は集めておくように」
「かしこまりました」
村井貞勝が顔を少し曇らせながら、うなずいた。大きな普請がある中で、おそらく織田家の経済状況がかなり悪化しているのであろう。
信長様もそれには気がついているだろうに、無視して柴田勝家と佐久間盛重に顔を向けた。
「そなたらはわかっておろう。戦支度を油断なく務めよ」
柴田勝家と佐久間盛重が平伏する。
「儂は那古野の準備が整い次第、そちらに移る。清洲の取り潰しは三郎五郎に任せた」
信長様が次々に指示を出していき、織田家が慌ただしく動き始めた。馬廻衆は、信長様とともに那古野へ移動するため、戦支度だけをするわけにはいかない。色々なことを同時並行で処理していくことになる。俺は留守居役の篠岡八右衛門への指示を考えていた。
「さて、わざわざ入り口は開けてやったのだ。これで今川が入ってこなければ、無駄骨だな」
信長様が瓜にかぶりついている。俺も切り分けた瓜に手を伸ばそうとするが、信長様に睨まれたので手を引っ込めた。
「まだ今川は事態を把握していないでしょう。しかし、大いに怪しんでいると思いますよ」
織田家が絶対に手放さないだろう城が、急遽寝返ったのだ。これによって孤立していた城への通路を確保できる。手放しで喜べる状況が、苦もなく転がり込んできた。一向宗への対応で頭を悩ませているところに、吉報が舞い込んできたのだ。うますぎる話に、今川義元はこれが罠かどうかを見極めようとするだろう。
「罠と思えば、わざわざ入ってこまい。そうなれば前治部大輔の首を取れんぞ?」
「その通りです。しかし、まずは秋が過ぎるまで、状勢を膠着させてもらう必要があります。簗田様や九郎左衛門殿の手腕に賭ける他ありません」
塙直政は、実に良い時期に沓掛を揺さぶってくれた。もしかしたら簗田政綱の方かもしれないが、知多郡を味方にできた後の離反だったので、尾三国境の動揺は最小限に済んでいるはずだ。
「大高城にて刈谷城の水野様とは手はずを整えて来ました。うまく立ち回ってくださると思います」
「藤四郎なら抜かりはあるまい」
信長様が視線で瓜を食べても良いと許可したので、俺もやっと瓜にありつけた。信長様とともに瓜を食べていると、思い出したかのように信長様が声を上げた。
「そうだ……ちょろちょろ動き回るのが居たので、目障りだったから北に行かせた」
誰のことかわからずに、俺はただ瓜を咀嚼する。飲み込んだところで木下藤吉郎のことだとわかり、首を傾げた。
「藤吉郎を美濃にですか?」
「そうだ。あれは口がうまい。地侍どもに、顔つなぎさせておけば、使えるかもしれんと思ってな」
「まあ……そうですね」
美濃の方からこちらに手を出させるには、どうしても美濃の武士たちと繋がらなくてはならない。てっきり家老衆の誰かにやらせるものと思っていたら、まさか木下藤吉郎を使うとは思わなかった。
「随分と張り切っておったわ」
「巡ってきた手柄をあげる絶好の機会です。藤吉郎が張り切らないはずないでしょう」
戦場以外で大きな手柄を上げる機会は、なかなか巡ってはこない。村井貞勝のように吏僚として活躍したり、奉行になれるほど地位の高くない藤吉郎にとって、ここは腕の見せ所だ。
俺が藤吉郎に降って湧いた幸運に喜んでいると、信長様は瓜に手を伸ばしながら俺に問いかける。
「妙と娘に会っていかんのか?」
「……那古野への引っ越しがあります。終わるころには、次の仕掛けが動くでしょう。そうなれば、もう領地に行く暇はありませんね」
「で、あるか」
信長様は切れていない瓜を手で弄ぶ。俺が受け取ろうと腰をあげようとするが、信長様はそれを制して自ら瓜を切り分けた。
信長様に仕えて初めてのことに目を白黒させる俺。ぞんざいに切り分けた瓜を口に運びながら、信長様は俺の目の前に切った瓜を置いた。
東京堂出版の『武田氏家臣団人名辞典』が重版されるようです。当時欲しかったのですが、高いので図書館で読めばいいと思っていました。資料になるので、今回は手に入るようなら購入しようかと思います。
こういう辞典が、もっと他家のも出てくれれば、いいのですがね。
ともあれ、偏頭痛に負けず、続きを書いていきたいと思います。
次話もお付き合いくださったら幸いです。




