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信長の軍師 賽の目は天下不如意なり  作者: 無位無冠
第三章 桶狭間の坂道
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大野殿 弐

 沈鬱(ちんうつ)な様子で、部屋の中央に座るお犬。瞼は閉じられ、膝の上に置かれた手は固く握り込まれている。


 佐治八郎との出会い、案内役に部屋へと通されてからずっと、お犬は己の殻に閉じこもってしまっていた。


「お犬様……」


 俺が呼びかけても聞いているのか聞いていないのかもわからない。


 念の為に家臣たちには部屋の周りに居てもらい、話していてもお犬の正体が露見しないようにしている。


「お犬様、まだあれのみが佐治八郎様の気質とはわかりません。縁談を前に緊張されていたのかもしれません」


「長三郎、もう……よいのだ。八郎殿と結ばれることが、私の務め。それが兄上様や奇妙丸、織田家のためになる。だから、私の心など、その後で……良い」


 お犬の心構えに、俺は沈黙するしかなかった。たとえどのような相手であったとしても、織田家のために嫁ぐ覚悟ができたと言っているのだから。


「ただ、願わくば……兄上様のようにとはいわんが、果敢な方であればよかったのだけど……」


 水野藤四郎信元が薄鈍(うすのろ)と評したのだから、信長様のようにとは残念ながら期待できそうにない。


「そう心配するな。八郎殿は、妻となるこのお犬が必ず鍛えてやる。そして、佐治家をこの私が差配してみせよう」


「見事な、お志です。きっと、殿はお喜びになるでしょう」


「兄上様にずっと仕えてきた長三郎が言うのだ。兄上様がお喜びになるのは間違いないな」


 強気な発言であることは、俺や周囲の家臣たちにもわかっている。きっと、胸中では不安で一杯なはずだ。いっそのこと、思いっ切り泣かせてやればいいのかもしれない。泣かせて、世の不条理や俺を責めれば良いと思った。

 しかし、それはお犬の覚悟を、俺の免罪のために汚すようなものに思えてならない。


「殿、誰か来るようです」


 前田孫十郎基勝が、声を潜めて告げる。


 俺がうなずくと、前田基勝は部屋を出ていく。少し離れたところで話し声が聞こえ、前田基勝が部屋の前に戻ってきた。


「殿、佐治様の支度が整い、水野様がお呼びとのことです」


「わかった。すぐに行く」


「承知しました。お早く」


 前田基勝が、部屋の前から離れていく。おそらく、案内役を引き付けておいてくれるのだろう。


 俺はお犬に平伏し、深く頭を下げた。


「織田家と佐治家の婚姻……道祖長三郎が万事整えてまいります。どうかお犬様は、お心安く……お待ちあそばしください」


「うむ。委細任せた」


「はっ!」


 お犬の言葉を受け、俺は心を決めて立ち上がった。










「左馬允殿、この者が織田上総介殿の使者、道祖長三郎だ」


「道祖長三郎にございます。以後、お見知りおきを」


 佐治左馬允為貞は、佐治八郎と同様によく日に焼けており、堂々とした偉丈夫であった。そんな佐治為貞が、俺を睨みつける。


「道祖長三郎……上総介殿からの使者というが、聞かない名だな」


「小身ゆえ、佐治様がご存じないのは道理かと存じます」


「つまり……小身を使いに寄越す程度で十分だと、上総介殿は我ら佐治家を見ておるというのだな?」


 佐治為貞は、俺が使者として遣わされて来たことに納得していないらしい。水野信元に視線を送るが、何を考えているのか介入する気はないようだ。


「八郎と織田家のお犬殿との婚姻、良かれと思っておったが、こうまで佐治家を下に見られているとはな」


「佐治家が重要であればこそ、殿が(それがし)を派遣されたのでございます」


 立ち上がろうとしていた佐治為貞が、再び俺を睨みつける。こちらを脅して、この婚姻を佐治家優位にしようとしているのだろうが、お犬の覚悟を知っているからこそ、こっちは引けない。


「織田家と佐治家の婚姻は、是が非でも成し遂げねばならない。そのため、家老衆からではなく、某が選ばれました」


「聞こうではないか。家老衆ではない、その理由(わけ)を」


「では、佐治様……麾下の海賊衆は、三河の海賊衆に押されておるのではありませんか?」


 佐治為貞が目を見開き、片膝を立てて拳を固めた。


「左馬允殿、控えられよ」


 水野信元が佐治為貞に声をかける。佐治為貞は、舌打ちをして、座り直す。もし水野信元が止めに入らなければ、次の瞬間に俺は殴られていただろう。


 三河の件は当てずっぽうではあったが、激昂したということは痛いところを突かれたようだ。今川が、水軍の編成に取り掛かっている以上、佐治家は邪魔になる。取り込むのも手ではあるが、佐治家に手を伸ばして織田家の目が海に向くのを避けたのだ。

 おそらく、伊勢への海上交通を邪魔されない程度に、佐治家を伊勢湾の内海に抑え込もうとするはず。三河の海賊だけならともかく、駿河と遠江の海賊衆まで出てきては、佐治家の海賊衆が劣勢なのは無理もない。


「失礼を申し上げました。三河海賊衆の進出、もちろん裏には今川の存在があります。今川に気取られぬよう、大身の家老衆ではなく、某が遣わされたのです」


「やはり前治部大輔((今川義元))……我らを敵に回して、ただではおかぬぞ」


 佐治為貞も、今川の影があることを薄々察していたのであろう。だからこそ、織田家と結ぼうとしたのだ。


「長三郎よ。上総介殿は、今川の動きを何か掴んでおるのだろう?」


 水野信元の確信に満ちた問いに黙礼だけで応え、俺は佐治為貞に向き直る。


「佐治様、佐治八郎様とお犬様との婚姻、お受け頂きたく。織田家は、御一門衆となる佐治家を決して粗略に扱いません」


「……知多の海は佐治家に任せて貰えるのだな?」


 思わず、笑ってしまいそうになった。剛毅なようでいて、目的が小さかったからだ。俺は笑いをこらえて、信長様の意向を伝える。


「殿は、伊勢の海全てを任せる旨を仰られました」


 今川によって(あらわ)になった織田家の心臓、伊勢湾。盲点であったここを、他勢力に入り込ませるわけにはいかない。時間をかけてでも、織田家が伊勢湾を掌握する。その役目には、一門衆となる佐治家が適任だった。


 佐治為貞が驚き、そして満足気にうなずく。


 これで、お犬と佐治八郎の未来が確定した。俺は胸の痛みを無視して、今度は無視する格好になっていた水野信元へ頭を下げる。


「殿より、水野様と佐治様へ今川の動きをお伝えするように命を受けております」


 俺は息を整え、今川の目的を説明するために口を開いた。


「今川は海を手中にし、尾張を干上がらせるつもりです。そのために、海賊衆を組織し、志摩にまで手を伸ばしております」


 水野信元は知多郡に攻めて来ないことに呆気にとられ、佐治為貞は今川の意図を察して目を怒らせた。









「大きな船でも、やっぱり揺れるんだなぁ」


 数日に渡った水野信元、佐治為貞との話し合いもようやく終わり、俺は帰還の途に就いていた。佐治為貞の好意で、佐治家が乗ってきていた関船での移動だ。艫の数が少ない小さな舟と違い、艫の数が四十を越える大型の船である。

 最初は小舟よりも揺れないと思って、内心よろこんでいたのだが、見事に裏切られた。


 水夫たちの掛け声を聞きながら、俺はぐったりと海を眺めるしかなかった。


「八郎様、これは何ですか?」


 お犬の声が聞こえてきたので、振り返るとお犬が積極的に佐治八郎へ話しかけている。初めて見かけたときと同じく、佐治八郎はぼうっとして返事をしないことが多い。お犬が何度も聞いたら、ようやく気がついて答える有様だ。


 大高城で、佐治家と食事を共したけれど、佐治八郎は食事中にすらどこかを見つめて止まっていた。そんな時には気がついた父親に頭を殴られていたけれど、まったく堪えた様子は見受けられなかった。


 一応、この船は佐治八郎が差配していることになっている。しかし、とうの佐治八郎は海を見ているだけ。実際は家臣たちが全てを(おこな)っていた。


 あんな佐治八郎を見たら、信長様が怒って婚姻をなかったことにするのではないだろうか。いや、いくら信長様でも、水野信元・佐治為貞の両人と対今川について話し合ってきたのだから、御破算にすることはないだろう。けれども、すこぶる機嫌が悪くなるだろうな。


「敵襲!」


 突然の大声に、船酔いでぐったりしていた体が跳ね起きる。


「敵はどこですか!?」


「鳴海の方角! ずっとつけてやがった連中だ! 一気に詰めてきたぞ!!」


「合点!」


 船上が一気に騒がしくなり、弓や槍らしきものが次々と運ばれてくる。


 俺は佐治八郎の隣で戸惑っているお犬に駆け寄り、とっさに抱き上げる。


「客人は下に行ってろ!!」


 怒声に追い立てられるように、俺はお犬を抱き上げたまま船の中に潜り込む。


「殿!」


 前田基勝の声が頭上から振ってくる。


「孫十郎は俺と来い! 新次郎! 清十郎と助十郎を連れて、佐治家に加勢しろ!!」


 まずは弓を撃ち合うことになるはず。近づけば槍での戦いになるので、林新次郎たち三人が適任だ。


 固まってしまっているお犬を抱えたまま、俺は邪魔にならないように隅に体を寄せる。前田基勝もすぐにやって来た。


「お犬様。怖がらなくても、大丈夫ですよ」


 俺はお犬を安心させようと話しかける。


「驚いた……あんな声……出せたんだ……」


「お犬様?」


「敵襲って叫んだの……八郎殿が……」


 お犬の言に俺と前田基勝は顔を見合わせた。確かに、思い返してみれば子供の声だった。その後の指示する声すらも。


「薄鈍なんかじゃなかった」


 お犬は戸惑っている様子であった。俺たちも、なんと言ってら良いかわからない。そうしている内に、怒声が聞こえ始める。戦いが始まったのだ。


 時折、子供のものだろう大声が聞こえてくる。


「長三郎、八郎殿を見たい」


「いけません。お気になるでしょうが、今は御身が大事です」


「お願い、見させて」


 お犬が腕の中でもがくけれど、俺は頑として手を緩めなかった。やがて、お犬が大人しくなるけれど、時折抜け出ようとするので、油断できない。


 そして、船に大きな衝撃が走る。


「奴ら正気か!? ぶつけやがったぞ!」


「下手くそなだけだろ! それよりも、どこか抜けてないか!? 浸水ないか!?」


 水夫たちが恐ろしいことを怒鳴りながら、船底を調べに駆け巡っていく。


「客人は上に行ってくれ! 邪魔だ!」


 今度は上かよ。文句を言いたいところだが、邪魔するわけにはいかない。戦いの最中にお犬を連れ出すのは抵抗あるけれど、致し方なかった。


 前田基勝に警戒させながら、俺はお犬を抱えたまま船上に出る。幸いなことに戦いは、相手の関船の上に移行しており、どうやら優勢のようだった。


 俺はお犬が一点を見つめていることに気づき、そちらに視線を送る。


 そこには、敵船に弓を射かける佐治八郎の姿があった。大声を出して、敵船に乗り移った味方に指示出しすらしている。


「若! やりましたぜ!」


「勝鬨!!」


 佐治八郎の命令に、佐治家の面々が声を上げる。俺もお犬を降ろして勝鬨の声を上げた。


 お犬が足取り悪く佐治八郎に近づこうとする。そこに、波で船が大きく揺れた。体勢を崩したお犬が壊れた船べりに倒れかかり、そのまま海に落ちた。


 俺がお犬の落ちた所に駆け寄るよりも早く、佐治八郎が褌一丁で海に飛び込む。


 一緒に駆け寄った前田基勝と海を覗き見る。そこには、佐治八郎にしがみついたお犬がいた。


 佐治八郎は、お犬を掴んだまま、縄を寄越せと手を伸ばしていた。









「もう陸に着くまで目を離しませんからね……」


「わかっておりますよ」


 小声で言う俺に、お犬が幸せそうに着ている服に顔を埋めながら返事をする。


 その服は、濡れている服では不憫だと、佐治八郎が信長様に会うための服をお犬に貸してくれたのだ。当の佐治八郎は、戦の処理が終わるや、また海の先を見ているだけで、何もしない。戦の最中が夢であったかのように、薄鈍に戻っていた。


「八郎()は素晴らしいお方ですね」


 お犬が頬を染めて佐治八郎を褒める。


「ええ。初陣での戦ぶりをお話したら、きっと大殿は気に入られるでしょう」


「まだ元服をされたばかりというのに、先頭で戦っておられましたよ。佐治家の者たちは、それで奮い立っておりました」


 道家兄弟が次々に佐治八郎を褒めそやす。お犬は、それを嬉しそうに聞いていた。


 その中で、暗い顔をしている林新次郎に話しかける。


「どうした、新次郎?」


「初陣でしたが、あまり戦功が立てられませんでした……」


「勝手の違う船の上だ、仕方ない。それに、清洲で待っておられるお犬様のためにも、婚約者の土産は多いほど良いだろう」


 俺の言葉を聞き、佐治家の家臣たちが佐治八郎を囃し立てる。


 聞いているのかいないのか、佐治八郎はどこ吹く風と海の先を見つめて、お犬は道家兄弟の話を聞きながら佐治八郎に釘付けになっていた。

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