大野殿 壱
「ゔっ!」
喉から噴出しようとする嘔吐感。両手を口に当てて、どうにかしてこらえる。涙目になりつつ、浅く息をして、嘔吐感が落ち着くのを待った。
舟になんて乗るんじゃなかった!
舟に乗ってから何回心のうちに思っただろうか。しかし、思ったところで、もうどうにかなるものではない。
俺は船べりから身を乗り出すようにして、海の先を眺め見る。
「殿、もうしばしご辛抱ください。もうまもなく、目的地が見えてきます」
前田孫十郎基勝の慰めに、俺は力なく首を振って答える。ずっと、もうまもなくを繰り返されるのはこりごりだった。
恨めしいことに、この中で舟酔しているのは俺だけなのだ。道家兄弟は何が楽しいのか延々と海の先をみており、林新次郎にいたっては寝ているときた。
腹立たしい気持ちはあるが、嘔吐を我慢するので精一杯である。
本来なら我慢せずに海に吐いてしまうところ、今日はそういう訳にはいかない。
俺がちらりと舟の後方に視線をやると、見目麗しい童子が興味津々という顔つきで、俺を見ていた。
「なんだ? 吐かないのか?」
「さすがに御前でそのような醜態は……」
「前に熱田で兄上様はお酒を召されて、私や姉様の前でもお吐きになられたぞ。だから、長三郎も気にせずに吐いてしまえ」
「それは……招待された酒宴だからでしょう……」
信長様は下戸だから、ご自分が主催の場では酒を飲むことはない。しかし、宴会の招待客であった場合、飲まなければ主人への失礼に当たるので飲むしかない。酒宴で吐くことは、座興の一種として定着しているので、見苦しくないのがせめてもの救いだろう。酒宴で吐くことの何が楽しいか分からないし分かりたくもないが、とにかく面白いようだ。
「些細なことだ。変わりはあるまい」
「殿をご覧になられたのなら、そうまで醜態をご覧になることもないでしょう?」
「兄上様や義姉上様が、奇妙丸に長三郎のことを話してやると喜ぶのだ。私も奇妙丸に話してやりたい」
「お犬様、どうかご勘弁を……」
奇妙丸はまだ幼いから、大きくなったら覚えてやしないだろうけれど、こんな苦しい思いをしている姿を話の種にされるのは御免被りたかった。
童子、男子の格好をしたお犬は、俺がどうあっても嘔吐する気がないと知ると、むっと頬をふくらませる。
「お願いですから、向こうでは大人しくしていてください。くれぐれも、ご正体が露見しないようにお気をつけていただかねば……」
「わかっておる。兄上様に散々言われた。私も母上様、義姉上様や姉様に知られては叱られるどころではないと承知しているのだ」
自分が結婚するかもしれない相手を、お犬はどうしても見てみたいと駄々をこねたのだ。当然、はしたないと女性陣の大反対を受け、さらには信長様を真似た口調も直すように注意をされる。普段から仲良く、共に行動する姉のお市にすら諌められてしまい、お犬は意固地になってしまった。そこで、兄である信長様に泣きついたのだった。
いくら弟妹に甘いとはいえ、勘弁してくださいよ。
信長様への愚痴を飲み込むために、そっとため息をついたところで、波が強くなって舟が大きく揺れ始める。
お犬と話していて和らいでいた嘔吐感が、再びせり上がって来て、今度は我慢できなかった。それを見た、お犬がさわぎたて、舟上は一気に騒がしくなった。
俺たちが、鳴海城の間近にある大高城すぐ近くの津に到着すると、すでに今回の仲介人が待っていた。
「ほう、お主、いつも上総介殿の近くに侍っておった従者ではないのか?」
「はっ! 水野藤四郎様に覚えていただき、恐悦至極にございます。拙者、道祖長三郎と申します」
「うむ。確か……村木での戦いで見ておるな。良い面構えになったものだ」
水野藤四郎信元、尾張知多郡の実力者である。手数で上回る今川との戦いで、劣勢ながらも尾張の入り口を守り続けてくれていた。水野家が奮闘してくれていなかったら、織田家による尾張統一の前に今川の侵略を受けていたかもしれない。
「ありがたきお言葉です」
俺が頭を下げると、水野信元自らが俺たちを案内し始める。
「左馬允殿と息子の八郎殿もさきほど到着された。今はくつろいでもらっている」
「遅れてしまいましたか。申し訳ありません」
「気にするでない。左馬允殿が早かったのだ」
接する限り、水野信元はとても機嫌が良さそうである。それだけ、今回の婚姻を歓迎しているのだろう。この婚姻がうまくいき、佐治為貞が完全に織田方につけば、水野信元はもう知多郡内で後背を気にしなくても良くなる。
ちらりと後ろを振り返ると、お犬は興味深げに辺りを見ていた。お犬のすぐ後ろには、護衛を命じた林新次郎がいて、お犬が転ばないように注意している、
「佐治様は、この度のこと、どのようにお考えなのでしょうか?」
「おそらく乗り気だな。でなければ、左馬允殿自ら、八郎殿を伴って来ることはあるまい。上総介殿から書状を受け取った時は、どうなるかとも思っていたが、話自体はうまくいくであろう」
「あとは、こちらのお犬様と佐治八郎様の仲がどうなるか、ですか?」
水野信元は応えず、黙して足を進めた。
今回の婚姻は、可哀想であるけれど幼い当事者二人の意思は無視される。どれほど嫌がったとしても、不憫ではあるが、受け入れてもらうしかない。
いや、受け入れさせる、だな。
お市と斯波義銀との婚約でもそうだった。いや、自分と妙の時でさえも、女性を使って形勢を傾けようとしてばかりだった。女性の政略結婚は、この時代の常套手段とはいえ、情けなくなってしまう。
俺が自嘲気味に笑っていると、緩く袖を引っ張られる。
顔を向けると、お犬が愛らしく首を傾けていた。
「どうかされたのですか? お顔が寂しそうですよ?」
実際は女児であるが、見た目はあらぬ扉を開ける者が続出しそうな童子である。俺は誤魔化すためにお犬の頭を少し乱暴に撫でる。
「あの小さかったお犬様がご結婚されるのかと思うと、寂しくなると思っただけだよ」
「そうなのですね!?」
俺の手を払いのけるお犬。手櫛で髪を整えながら、俺を睨みあげてくる。
「そうか、長三郎は上総介殿の傍に居たから、お犬殿も知っておるのか。どうだ? 噂通りの美姫なのか?」
「ええ、それはもう。行く末は、きっと並ぶ者のないほどの佳人となられます」
「並ぶ者のいない佳人か! 誠に八郎は果報者だな! では、八郎は美姫に並ぶように精進せねばなるまい!!」
「八郎様は、どのようなお方なのです?」
お犬が、笑い声を上げている水野信元に問いかける。俺も家臣たちも目をむいて、俺はとっさにお犬の頭を押さえつけた。
「従者が失礼を……妻の縁者なのですが、なかなか行儀が行き届かない者でして。平にご容赦を」
「よいよい。まだ子供だ。気になったことは聞かずにおれんのだろう」
水野信元は、子供のすることだと、お犬のことを笑って許してくれる。
「うむ……そうだな、八郎は……」
お犬が固唾を飲んで見守る中、水野信元はこめかみに指を当てて言葉を絞り出そうとする。そんなに言葉が見つからないような人物なのだろうか。
「うす、のろ……うん、やはり薄鈍だな」
本気で言っているのかと耳を疑う言葉だった。
「何度か会おうたが、どうも反応がにぶいのだ。左馬允も心配しておってな。まあ、まだ元服もしたばかり。これから次第であろう」
水野信元がこともなげに言う。
俺や家臣たちがそっとお犬を見ると、顔をうつむかせてしまっていた。それはそうだろう。きっと、子供なりにどんな相手か想像していたはずだ。それなのに、聞いた話が薄鈍とあっては、夢も希望もあったものではなかった。
お犬は、先程と違ってすっかり気落ちしてしまっていた。せっかく答えたのにお犬から返事がないことに不思議に思ったのか、水野信元が後ろを振り返ろうとした。
ここで、お犬の正体が水野信元にも疑われるわけにはいかない。俺はお犬を隠すため、水野信元の視界を遮るように移動して、問いかける。
「そうなのですか。では、お犬様が良い刺激となってくだされば、安心ですね。ところで、大高城についてお聞きしたいことがあるのです」
俺と水野信元との話は、結局大高城に到着するまで続いたけれど、お犬の顔に明るさは戻らなかった。
水野信元は、城に到着するやいなや、広間の用意を整えるとのことで行ってしまった。いくつもの城を持っている大名であるにも関わらず、細々と心配りをする人物である。
俺たちは、水野信元の家臣によって大高城の一室に案内される。
その途中の廊下で、男子が庭を眺めながら座っていた。
そっと、水野信元の家臣が耳打ちしてくれる。
「あれが佐治八郎様だ」
「あの子が?」
落ち着いた顔つきをしており、一見知的に見える。けれども、日に焼けた様子がなかなか好戦的にも見えて、水野信元の言うような薄鈍な印象は受けない。
俺は間近まで来ると、膝を折って佐治八郎に挨拶をする。
「お初にお目にかかります。織田家の道祖長三郎と申します」
佐治八郎は、まったくこちらを見ようともしない。不思議に思い、佐治八郎の横顔をよく見ると、目の焦点が合っていないのではないかと思えてくる。
「佐治様? 佐治八郎様!?」
何度声をかけても反応がない。困って後ろを振り向くと、案内役の男が肩をすくめる。慌てた様子がないことから、もしかしたらこれがいつものことなのかもしれない。
俺は、佐治八郎の目の前で、手を上下に振ってみる。すると、ゆっくり佐治八郎がこちらに顔を向けた。
「何か?」
「あっ、いや、その……織田家の道祖長三郎と申します」
「佐治八郎だ。よろしく頼む」
それだけ言って、佐治八郎は、また庭先に顔を向けた。
この子だけ時間の流れが違うのではないか?
のんびりを通り越して、確かに薄鈍と評されるだけのことはある子供だ。
案内役が、佐治八郎にそっと会釈をして通り過ぎていくので、前田基勝たちもそれに習って案内役に続く。お犬だけが、通り過ぎることなく、困惑した様子で佐治八郎の背中を見つめていた。
俺は一度佐治八郎に向かって頭を下げてから、立ち上がる。そして、お犬の手を取って、歩きだした。
「私は、彼と……結婚するのですね……」
童子や信長様の口調を真似ることなく、お犬は小さな声でひとりごちる。
俺はただ、手を強く握ってあげることしかできなかった。




