願証寺 壱
今川義元を尾張に引きずり込み、その首を頂く。言葉にすれば簡単ではあるが、もちろん実際はそう簡単にはいかない。
まず、現状で今川義元が最前線まで来るとは、とうてい思えないのだ。もしかしたら軍勢を率いるかもしれないが、それでも後方に陣取って出てくるとは思えない。その場合、数万にも及ぶであろう敵兵の防備を如何にして剥がすのかという問題もある。
いや、それを考えるよりも、まずは三河から動かさなくてはならない。鳴海城を防壁にして、今川義元に三河に引きこもられては、詰んでしまうのだから。
象耳泉奘には、太神宮の禰宜である度会氏の不安を煽るように協力を依頼してある。海路だけでなく陸路でも今川領国と繋がる必要がある、と度会氏が信じてくれればいい。そうすれば、今川義元は度会氏の要請によって、重い腰を上げて、軍勢を出陣させる可能性が高くなる。
そして、伊勢で無視できない大名、北畠具教の存在だ。志摩という北畠の裏庭への、今川の進出を歓迎するとは思えない。志摩の国人衆を北畠に攻撃してもらい、今川による志摩進出の大義名分をなくして貰えれば上々なのだが、どうやって連絡をつければいいのか思いつかない。下手に今川の動きを伝えて、それが周囲に広まれば、今川義元の行動に予想がつかなくなる。今川の謀略がわかっているからこそ、動きが読めるのだから、その優位性を保ったまま北畠にどう話をつければいいのか。
「殿、ご命令のものをお届けに参りました」
絵図から顔を上げると、前田孫十郎基勝が数枚の紙を手にしていた。
「早かったな」
「調べはすぐに付きましたので」
そう言って、前田基勝が絵図を覗き込む。
「尾張、三河はともかく、伊勢と志摩までも……。何をお考えで?」
「織田家の宿敵の首をもらう方法だ。そのために、周辺の勢力を書き出してみようと思った」
「では、まだ書いていない勢力があります」
前田基勝が筆を執る。そして、尾張と伊勢の堺に書かれた字を見る。
「南無阿弥陀仏?」
「ええ……つまりは、一向宗です」
長島にある一向宗の願証寺。尾張において、唯一信長様の支配を許さない、不可触領域だった。しかも、河川の合流地帯でもあり、経済的にも非常に恵まれている。ここが織田家手中にあれば、織田家の銭収入は今とは比較にならなくなるだろう。
「なるほど。……だが、ここは織田家の敵になっても味方になることはないだろう」
長島の実力者の一人が服部党の服部友貞だった。太原雪斎による信長様の包囲作成で、その一翼を担った。滝川左近尉一益が復讐に燃える相手でもある。
「しかし、大殿は今や一国を治めておられます。以前とは、対応が異なってくるかもしれません」
前田基勝が、さらに三河に一向宗と書き加えた。
「ここにも一向宗の寺、本宗寺があります。長島の願証寺にも劣らない影響をって、殿っ? 如何されましたか?」
尾張、そして三河の一向宗。信長様にとって、一向宗は敵だという認識だった。しかし、今は信長様と一向宗は争っているわけではない。信長様が手を焼くことになる一向宗を、今川義元にぶつける。
別に今川義元と一向宗が、本気で争わなくても構わない。このままだと、三河の支配に影響を及ぼすから、一向宗を排除したいと思わせる。しかも、尾張の願証寺をだ。
願証寺を織田家のみかたにひきいれる材料が必要だ。
「孫十郎、今川と一向宗の間に揉め事はあるか?」
「いえ、特には聞いておりません」
「それでは駄目なんだ。願証寺にとって今川は危険だと判断させる材料は何かないのか?」
「そうは仰られても……」
前田基勝が困り顔で考え込む。そこで、ふと前田基勝が持っている紙が目に止まった。
「そういえば、それが例の内容か?」
「え、ええ。左様です。どうぞ」
差し出された紙を受け取り、内容を確認する。
「なるほど、これがなぁ」
「拙者も読みましたが、なかなか良いところもございます。もっとも、どこまで皆が守るのかは……」
前田基勝は、さすが一時仏門で修行しただけあって、学問報告には強い。前田基勝が講釈を垂れるのを、聞きながら、読みすすめると、ある一文が目に飛び込んできた。
俺は思わず立ち上がる。
「孫十郎、皆を呼べ。行くぞ」
「どちらへ?」
「長島の願証寺だ」
「殿、願証寺に向かわれるとか。お止めになられたほうが」
「いや、文では相手にしてくれるはずがない。どうしても行かなくてはならない」
篠岡八右衛門の心配もわかる。なにせ、あの服部党がはびこる地でもあるのだ。織田家の人間にとっては死地ともなりうるだろう。
「孫十郎、清十郎に助十郎はついて来い」
護衛役の三人は、黙ってうなずく。
「八右衛門は清洲から那古野への移転、村の管理など道祖家の一切を任せる。何かあれば、又左か内蔵助を頼るといい。いや、両家とも忙しいかもしれないな。林家を頼ってくれ」
「わかりました。手に負えないことがあれば、奥方様のご実家である林家に助力を頼みます」
織田家筆頭家老である林秀貞なら、頼っても悪いようにはしないはずだ。
「藤十郎、お前は八右衛門を手伝え。さすがに預かっているのに、危険な地に連れて行くわけには行かないからな」
「従者は必要ではないというのですか?」
顔をふくらませる藤十郎。何となく林新次郎を思い出してしまう。
「わかったわかった。連れてはいけないが、大事な命を与える」
俺はそう言って、家臣たちが集まるまでの間に書いておいた、信長様への文を手渡す。
「清洲城の殿にお渡ししろ。中は誰にも見られないように」
「承知しました!」
藤十郎が嬉しげに文を受け取り、懐にしまう。
中には、願証寺との接触についてと、文書の発給、そして与力の依頼をお願いしてある。願証寺との接触がうまく行けば、次は東に向かわなくてはならない。鳴海城近くまで行く必要があるかもしれないので、念の為に人員を増やしておいた方が良いという判断だ。少ないほうが良さそうなら、帰したら良い。
「願証寺に行くとなると、滝川様にお声がけしなくてもよろしいのでしょうか?」
滝川一益は、虎視眈々と服部党へ狙いを定めている。自慢の鉄砲の射程に服部党が入れば、家臣の敵討ちと迷うことなく撃ち殺すだろう。状況によっては、滝川一益の目的は叶わなくなることもある。
「織田家中には秘密にしなければならない。だから、滝川様へも知らせない」
「よろしいので? 滝川様との関係が悪くなるかもしれません」
「それは仕方がない。そうならないようにするつもりだが、こればかりは一向宗の出方次第だ」
家臣たち、みなが顔を見合わせ合う。家老格の滝川一益と揉めるかもしれないとなると、心配にもなるだろう。しかし、それに構ってはいられない。
「まずは津島に向かう。津島なら、願証寺への伝手があるかもしれない」
不安げな家臣たちをよそに、俺は出立の準備を始めた。
「お、お待ちくだされ! 奥方様へは!?」
「……妙とは、もう別れを済ませてある。子の名前も、もう伝えた」
もうすぐ子を生む妻を置いて、命がけの仕事をしなければならない。本当は嫌に決まっているが、今川の首を取らなければ、織田家は滅ぼされる。
俺の覚悟を聞いたためか、みなが神妙な顔つきで準備に取り掛かった。
月が変わり、永禄二年も三月へと入っていた。
俺は、月の半ば近く、津島で足止めを食っている状態だ。津島で影響力を持つ堀田孫右衛門正定に仲介を依頼し、文を送っているが、願証寺はうんともすんとも言わない。相手をするまでもないと、無視を決め込んでいるかのようだった。
そして、文を送ること六通目にして、ようやく願証寺から寺内へ入る許可が出た。
俺は、津島で足止めを食っている間に届いた信長様の文書を懐へとしまう。そして、信長様の文書を届けに来た与力を振り返る。
「ようやくですね、殿」
「もう殿じゃないというのに。いい加減に直せ」
「でも、殿は殿ですよ」
体つきが大きくなっても、中身は全然成長していなさそうだ。俺はこれみよがしにため息をつく。
「新次郎、気を引き締めろよ」
俺の従者だった林新次郎が、信長様から与力として派遣されてきていた。信長様なりの配慮なのかもしれないが、まさかこんなに早く、仕事を共にすることがあるとは思っても見なかった。
信長様に発給を願い出た文書を、林新次郎が笑顔で持参したので、俺も家臣たちも驚いたものだ。
「それで、殿。願証寺にはどのような話をしに行くのですか?」
「なに……ちょっと三河についての話をするためだ」
そう言って、俺は以前に前田基勝が持ってきた数枚の紙を振ってみせる。もう、何度も読み返しているので、紙が傷んでしまっていた。
おそらく、このために今川義元は長く駿府から出てくることは叶わなかった。たしかに、画期的とも言える代物ではある。だが、反発が大きく、抑え込む必要があったのだ。
「これは?」
新次郎が眉間にしわを寄せて、書かれている内容に目を通そうとする。俺は、新次郎が読もうとしているにも関わらず、時が惜しいとばかりに立ち上がる。
そして、問いかけてくる視線に応えて、口を開く。
「今川の『假名目録』だ」
東国の大名たちに大きな影響を与えた、大名独自の法。
「これが、今川の首を締めることになる」
いつも誤字脱字について、ご連絡ありがとうございます。
見直しているつもりですが、なかなか気づかないことが多くて、申し訳ないです。
それでは、次話もお付き合いくださったら幸いです。




