室町殿 弐
早く尾張に帰りたい。それは、今回の上洛で俺がほぼ毎日思っていたことだ。
先日の象耳泉奘との密談によって、その思いはますますと募っていた。すぐにでも今川に対して行動に移さなければならないのに、京に居ては打てる手も打てない。
信長様もその思いは同じに決まっている。
そう、そのはずなのに信長様は部屋の反対側に対座する人物、斎藤治部大輔高政と睨み合いを続けていた。
微動だにせず、一言も話さず、野生の獣同士が縄張り争いをしているが如く、目をそらさない。上座に座る将軍足利義輝は、そんな二人を眺めて何が楽しいのか、笑顔なのである。
特別に家臣の同行が許されたからついて来たものの、正直、誰かに変わってもらうべきだったと思っている。俺の反対側にいる、安藤伊賀守守就も困惑していた。憎い相手ではあるが、家臣としてこのような空間に居たくないという気持ちはきっと同じだろう。
いい加減にこの不毛な睨み合いを終わらせて欲しい。
ただひたすらにそれだけを願っていると、ようやく足利義輝が動きを見せ始めた。笑顔のまま、無造作に小姓へ向かって手を差し出す。慌てて小姓が、刀を差し出すと、それを鷲掴みにして、大股で信長様と斎藤高政の中間ぐらいのところまで歩いていく。
そして、顔つきが変わったと思った瞬間には、刀が振り抜かれていた。
さっきまで、殺気に満ちていた部屋からその気配はなくなってしまった。むしろ、将軍の剣閃の前に立っていたらと思うと、背筋が凍りつくような思いが這い上がってくる。
じっと刀をみると、刀には不動明王が浮き彫りされていることに気がついた。
おもむろに刀を鞘に収める足利義輝。その姿を目を白黒させて見つめる信長様と斎藤高政。
「和睦じゃ、よいな」
足利義輝は、元の上座に戻りながら言い放つ。逆らうわけがないと、分かりきっている口調。反感すら出てこない。
少しでも気に障ることを言えば、一刀の下に斬り殺される予感がするだけだ。
しかし、それで黙っているような信長様ではなかった。
「公方様、岳父を殺した相手と仲良くなることなど、到底できませぬ。国元の妻を始めとする義弟妹に、親殺しと和睦したなどと言えましょうや」
「上総よ……儂はな、和睦と言っておるのだ」
反論など聞きもしない。足利義輝が未だに刀を手にしているのを見て、信長様が口をへの字にして黙り込む。
「某は、公方様の仰せとあれば、否やはございません」
「おおっ! さすがは治部よ!! 儂の心をようわかっておるのう!」
刀を小姓に放り投げ、今度は斎藤高政に近づいてその肩を叩く。
「気に入った。今日からそなたは相伴衆に名を連ねよ!」
相伴衆は、将軍行幸の際にその随行を務める。付き人のような役職であるが、任じられるのは幕府でも管領家の出身であったり、有力守護大名だけであった。
京に在京しない斎藤高政を、そんな役職につけるというのは一見無意味に見えるのだが、斎藤高政を幕府の中でも有力な一員と認めた形になる。つまりは、斎藤家の武士としての格が上がったのだ。
信長様が歯を食いしばってくやしさを耐えているのがわかる。それに引き換え、斎藤高政からは喜びがにじみ出ているようだ。安藤守就も浮かれている。
だが、いまいち格というものを理解できていない俺は、ただ、将軍の横顔を見ていた。
そして、居住まいを正し、咳払いをした。信長様の気をそらすためだ。
信長様に伝わったのかどうかはわからない。
しかし、首をわずかに動かしたのが、返事をしたようにも見えた。おもむろに姿勢を正し、ゆっくりを頭を下げて平伏する。
「公方様、重ねて申し上げます。斎藤治部大輔殿との和睦、ありがたき仰せなれども、お受けいたすことは難きことにございます。ご寛恕あって猶予を頂きたく存じ上げます」
「なんじゃと?」
「和睦はお受けすることはできないと、申し上げました。それは、我ら織田家に因るものではございませぬ。斎藤治部大輔に因ります」
足利義輝が不愉快げに顎を撫でる。だが、信長様を遮ろうという様子はない。
とりあえず、聞くだけ聞いてやろうということか。
「織田家は、岳父殿が亡き後、一度たりとも美濃を攻めてはおりません。しかし、そこにいる治部大輔殿の斎藤家は、我欲に囚われ、尾張を幾度も脅かしたのでございます」
斎藤家はさぞ、反論したいであろう。長良川での戦いの後に織田家に逃げ込んだ美濃の武士たちが、執拗に美濃に調略を仕掛けているのだから。だが、将軍が聞こうとしている限り、その直答を遮るわけにはいかない。
「まずは斎藤家が身を慎み、公方様の仰られる和睦への道を整えられることが肝要ではないでしょうか?」
信長様の言が途切れたのを見計らって斎藤高政が反論しようとした時、信長様が声を大きくして言った。
「されど!!」
信長様は頭を上げ、足利義輝を見上げる。
「尾張もまた、和睦をいたすためには準備が必要。斎藤家を憎しと思う者もまた多く、その者たちを鎮めねば、和睦もまた長くは続きますまい」
「上総介は何を以て、その者たちを鎮めるのじゃ?」
「恩を以て、でございます」
足利義輝が、何度も小さくうなずきながら上座へと戻っていく。
「よかろう。上総介の申すことも尤もなことである。和睦するため、双方の家中を取りまとめよ。懈怠することは許さぬ」
「かしこまりました」
「承知、仕りました」
信長様と斎藤高政がそれぞれ返事をして、平伏する。俺や安藤守就も、遅れずそれに続いた。
そして、足利義輝が小姓を引き連れて、退室していく。
「ゆめゆめ、怠らぬようにの、織田尾張守」
尾張守を強調し、そのまま去っていく足利義輝。国司は、室町殿が任命するものではない。朝廷が行うものだ。朝廷へ信長様を尾張守に推挙するという、御恩を足利義輝は示した。信長様は、これに答えなければならないだろう。
尾張守になれば、尾張国内で文句を言う者たちは減ることだろう。そして、美濃に手を出さない限りは向こうも一切手を出せない状況が出来上がった。
問題は、どうやって和睦を破るかであるが、それは桶狭間が終わってからになる。
ぼうっと考えていたら、頭に衝撃が走る。
「あいたっ!」
「ぼっとするな。行くぞ」
信長様がさっさと部屋を出ていくので、俺は小走りで追いかける。
「斎藤家は?」
「お前が考え込んでいるうちに、公方様の小姓が呼びに来て、どこかに行きおったわ」
案内役の坊主を置き去りにする早足で、仮の将軍御所となっている妙覚寺を突き抜ける。
「公方様をどう見た?」
「不思議なお方でした。そして、決して侮れません。公方様は、我らがどう反応するかを具にご覧になっておいででした」
「よく見た」
信長様が少し足を緩めたので、俺は信長様に並ぶ。
「公方様は……本気で室町殿を再興させるお考えだと思います」
「本気だと?」
「はい。等持院殿や鹿苑院殿の室町殿とは違います。力を持った者を取り入れ、再度作り直されるおつもりかもしれません」
「うまくはいくまい」
「……そうかもしれません。しかし、公方様を本気で支えようとする大名が出てくれば、それは夢物語ではありません」
今の将軍には、結局実行力が伴っていない。有無を言わせない軍事力を、将軍単独の力で振るうことが出来ないのだ。
官位を吊り下げて、どうにか動かそうとしているに過ぎない。これを室町殿の中に組み込んでいけるかは、足利義輝の手腕次第だった。
「まあ、よい。京のことよりも、尾張をどうにかせねばならん」
門を出たところで、そこには金森五郎八可近、蜂屋兵庫介頼隆を筆頭に、馬廻りたちが旅装を整えて揃っていた。
「揃っておるな」
「はっ!」
「よし、尾張に戻るぞ!!」
信長様の宣言に、それぞれが拳を上げて、喚声をあげる。
「お、織田様! お待ちくだされ!!」
門から先程足利義輝の刀を持っていた小姓が飛び出してくる。
「公方様より、織田様へと。これをっ!」
小姓から刀を差し出された。
将軍から刀を賜る。それがわかると、馬廻りからどよめき声が上がる。
本来なら、もっと儀式張って受け取る必要があるのだろうが、信長様は膝を付き、小姓から刀を押しいただいた。
「銘は『不動国行』でございます」
先程、一刀のもとに信長様と斎藤高政の殺気を斬り伏せた刀であった。
不動明王は不法を力で糺す神仏だ。きっと、ちゃんとやらないと覚悟しろという意味が込められているのだろう。
感慨深げに刀を見つめる信長様。
やがて、何も言わずに刀を一本、俺に投げ渡して、不動国行を腰に帯びる。
馬が曳かれてきて、信長様が飛び乗る。俺も続いて馬に騎乗すると、金森可近が先頭となって、東に向かって進みだした。
「長三郎」
「はっ! 何か?」
「三河の件、お前に全てを任せる」
「尾張に戻り次第、すぐに取り掛かります」
「うむ。だが、妙のことも疎かにするでないぞ」
「勿論です」
俺の返事を聞き、信長様が笑い声をあげる。
俺は、また早く尾張に帰りたいと思った。馬の背にある、みんなへのお土産を思い浮かべながら。
京についてはこれで終了です。
次からは尾張に戻ります。
三章も折り返し、最後まで駆け抜けたいとは思っています。
よろしく、お付き合いください。




