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信長の軍師 賽の目は天下不如意なり  作者: 無位無冠
第三章 桶狭間の坂道
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兄弟子

 泉涌寺は代々の帝の葬儀を執り行ってきた由緒正しき寺院である。弘治三年((1557))に先帝が((後奈良天皇))崩御し、葬儀が行われたのも記憶に新しい。葬儀費用の欠乏から後土御門院の死後四十三

日間に渡って葬儀ができなかった故事から、今上帝は葬儀費用をどうにか工面するも、今度はご自分の即位の礼を催せないことから、朝廷の財政不足を如実に感じさせる。


 だが、そのような情勢だからこそ、様々な費用負担を担えなくなっている足利将軍家を朝廷が見限ろうとする動きは当然と言えるだろう。


 夜半、堺から戻った信長様はその足で泉涌寺までやって来ていた。淀川の水運を利用したおかげで、あまり馬廻りたちにも疲労を感じている様子はない。


 泉涌寺に到着すると、小坊主が嫌そうに対応してくる。こちらを宿を求める一行と勘違いしたようだが、銭を握らせて用向きを伝えると、ころっと態度が変わって上役の坊主を呼びに行く。

 そして、小坊主から用向きを聞いてやって来た坊主にも銭を握らせて、ようやく泉涌寺に入ることができた。


 僧坊の一つに通され、ようやく一息ついたところで、文を出した僧の準備が整ったことを伝えられる。


 坊主の言葉に信長様はうなずき、俺に顔を向けた。


「長三郎のみついて参れ」


「しかし殿、危険では?」


「外は暗闇だ。襲ってくるのであれば、山に逃げ込めば良い」


「……承知しました」


 俺は覚悟を決めて坊主の後についていく信長様に続いた。


 薄暗く冷たい廊下に、足音だけが響く。やがて、明かりが灯された部屋が見えてきた。

 すると、坊主はここまでという様に部屋を手で示して、その場に正座した。


 話を聞けない距離で待つように言われていたようだ。


 信長様は躊躇うことなく、大股で部屋に向かっていく。俺はすました顔の坊主を睨みつけてから、信長様を追いかける。


 部屋の前まで来ると、中に人影が一つだけなのを確認できた。


 信長様がうなずくので、俺は刀に手を添えつつ、静かに障子を開けた。


「お待ちしておりました。織田上総介様……」


 老齢の域に迫ってきた年齢の男が、少しだけ頭を下げる。


「拙僧が織田様をお呼び立てした、象耳(しょうじ)泉奘(せんじょう)でございます」


「うむ」


 信長様は短く返事をすると、象耳泉奘の向かいに腰を下ろした。俺も信長様の後ろにいつでも動けるようにして控える。


「拙僧をご存知でしょうか?」


「知らぬ」


「そうでしょうな。世俗に関わることもなく、幼き頃より仏門に身を置いてまいりましたので……」


 何かを思い出したのか、象耳泉奘の眼が揺れる。


「今は遍照光寺の住持を努めております。そして、家は駿河今川家の庶流の出」


 信長様が拳を固めた。俺も、正座からわずかに片膝を立てる。


 その様子を見ていても象耳泉奘の様子は揺るがない。


「京には前治部大輔((今川義元))殿の命で来ております」


「ほう……」


「朝廷への奏上、三河守への任官を願い出に」


「なっ! そ、それは!」


 俺が思わず声を上げると、信長様がじろりと睨みつけてくる。一切口を開くな、と言わんばかりだ。


 俺が片膝立ちから正座に戻ると、象耳泉奘へと向き直る。


「すぐには許されまい。いくら銭を積もうともな」


 信長様の言に、象耳泉奘が大きくうなずいた。


 今川義元は室町殿((幕府))、そして三好家に警戒されている。室町殿からは将軍家にも代われる血筋を、三好家からは天下人ともいえる現在の地位を脅かす存在として。

 朝廷が銭欲しさに三河守任官を認めようとしても、京を押さえる両者の反対に遭えば叶うことはないだろう。何せ、まだ今川は京からはるか遠いのだから。


「しかし、あるのですよ」


 象耳泉奘は言葉を切り、言葉を浸透させるようにゆっくりと語りだす。


「室町殿や三好家が反対したくても、任官を認めざるを得ない道が……」


 本当にそんな方法があるのか?


「長三郎」


「はっ!」


 信長様が指で来るように指示してくる。俺は、膝を進めて信長様の横に座る。


「今川の三河守任官をどう見る?」


「厄介です。三河を押さえる大義名分が生まれ、三河の今川への臣従は急速に進みます。そうなれば、いくら追い返しても何度でも攻めてきます。そして、こちらから攻め入るときも三河が大きな壁となるでしょう」


 そんなことは信長様もわかっているだろう。


「我ら織田家に大きく不利になるということは、今川が勢力を広げることを意味します。京の諸勢力が、その状況を許すとは思えません」


「であるな。だが、泉奘はその道があると言っておる」


 俺に考えろってことか。しかし、本当にあるのか? 今川義元の伸長を望まない勢力が、三河守への任官を拒めない理由が……。


 今上帝の即位の礼は銭の問題だ。でも、信長様が言った通りに銭の問題なら拒む方法はいくらでもある。それこそ、三好家が負担するなり、室町殿の命で銭を大名たちに付加することだって不可能じゃない。


 ちらりと象耳泉奘を見ると、涼しい顔をして茶の用意を整えている。


 京の問題じゃないな。京のことなら今川をどうとても跳ね除けられる。じゃあ、朝廷の御料所か? 横領されている御料所を回復して、朝廷の財源を確保する。財源に苦しむことがなくなった朝廷に感謝されて、三河守も邪魔が入っても認めてくれる。


 俯いていた顔を上げ、答えを述べようとした時、象耳泉奘が信長様と俺に茶を出してきた。俺は迷うことなく、信長様の茶碗を手にとって少し口をつける。

 特になんともないことを確認してから、信長様の前に茶碗を戻す。


 …………駄目だ。御料所回復は諸刃だ。財源を取り戻した朝廷を動かすことが難しくなる。一時的に戻して横領するのも外聞が悪い。名声が必要なのに、そんなことをするはずがない。それに、これは三好家もやろうと思えば、より広範囲で可能なはず。同じ土俵で勝負できるものじゃない。

 朝廷が欲しいのは銭、財源となる御料所。なんのためだ? 儀式のため……。


「京以外で行われる儀式!」


 そうだ、京以外で朝廷がどうしてもやりたい儀式。しかも、それを今川が整えることができる位置にあるもの。


「今川家の領国、もしくは近国で何か朝廷による儀式はありますか!?」


 朝廷が今川に費用調進の命を出しているのなら、近国の信長様にも来ないはずがない。


 信長様に詰め寄ると、少し視線をさまよわせる。やがて、大きく目を見開いた。


太神宮((伊勢神宮))の、造替か!」


 信長様と俺は象耳泉奘へと揃って顔を向ける。


 象耳泉奘は、茶を飲み干すと、口を開いた。


「その通りです。拙僧は、造替費用の調進を朝廷へ伝え、三河守の任官を得る準備のために参りました」


 伊勢の太神宮の造替は、朝廷・太神宮ともに欠くことのできない儀式。しかも、伊勢となれば京から邪魔をされない。それどころか、舟を使えば、今川のほうが断然早く対応できる。銭だけでなく、人・材料ですら揃えて調進できるだろう。


「また、造替だけではありません。押領されている太神宮領の回復や太神宮を困らせる志摩の国人どもの成敗。すでに何年も太神宮とは書状のやり取りをしているのです」


 今川義元は、駿河に引っ込んでなんてなかった。こっちが尾張統一へと全力を傾けている隙きに、目の届かない、より後方に手を伸ばしていた。


 しかも、志摩の国人に手を出すということは……。


「伊勢の海を掌握するつもりだ」


「どういうことだ!?」


「今川は、海をその手に握るつもりです。京、堺は大量に物がございました。今、それを支えているのが、水路。諸国から物資が伊勢、若狭、摂津、和泉の港へと運ばれるのです。熱田が織田家の金城湯地となっているのは、伊勢の海に物が集まっているからです!」


「では、今川が海を握れば……」


「全ての物を止められます。その状況が続いた上で締め上げられれば、織田家は干上がるしかありません」


 今川義元が三河守として三河を今川の体制に組み込み、駿河・遠江・三河の舟をもつ商人、海賊たちを水軍として組織する。そうすれば、今川は尾張を飛び越えて、軍勢を志摩に送り込めてしまう。そうなれば、もはや抵抗は不可能だ。今の織田家は、海がない状態で戦争が続けば、銭が尽きて兵がいなくなる。

 そして、出遅れたこちらは、もう今川の水軍編成を止める術がもうない。


「そう、織田家は何も気が付かぬまま、滅びるところだったのです」


 象耳泉奘の言う通りだ。改めて、大大名たちの策に驚くしかない。こちらが他に目を取られているうちに、詰みの状態に持っていこうとする。

 戦う前に勝っている状態を作り上げ、後は最後の一押しという状態にされていては対応のしようがない。


 だが、前回同様にもう一歩のところで運がこちらに傾いた。まだ、打つ手はある。そして、それには目の前の象耳泉奘の協力が必要だった。


「泉奘様、なぜ、今川家の策を織田家に教えてくださったのですか? もう一年もあれば、おそらくこちらはおっしゃられた通りに滅びるしかなかった」


 象耳泉奘は、少し自嘲気味に笑い、遠い目をする。


「拙僧には、兄弟子がおりました。こっちは今川家の庶流、兄弟子は嫡流の庶子。だが、真の弟のように扱ってくれた。拙僧も実の兄とも慕ったものです。だが……兄弟子は拙僧と違って俗世を捨てることができなんだ」


「聞いたことがある。今川の家督争いだな?」


 信長様の言に象耳泉奘がただうなずく。


「仏道を捨て……いや、私を置いていった兄弟子を恨みました。だから、寺に被害が出たおりには、迷惑を被ったと言っていたものです。そして、自害したと聞いたときも心が動くことはなかった」


「家督争いは、もう随分と前のことだ。今頃、その兄弟子を自害に追い込んだ復讐をするというのか? 信じられん」


「この齢まで、僧として位階を重ね、ふと思ったのですよ。兄弟子が生きていれば、この地位は兄弟子の物だったのに、と。そう思ったときに、涙がこみ上げてきました。どうして兄が死なねばならなかった? 仏道でも俗世でも、生きていればどうなっただろうか、と。そう思うと、もう、止められはしなかった。だから、俗世に関わることにしました」


 一気に語った象耳泉奘は、一呼吸入れる。


「しかし、拙僧も今川家の血筋。勝手ではありますが、そちらが手を出せるか出せないかという時期を選びました。これで、織田家が勝てば兄弟子の復讐は叶う。今川家が勝てば、私も兄弟子も俗世ではその程度であったと思えるでしょう」


「泉奘様が織田家を利用するというのなら、織田家も泉奘様を利用して構わないのでしょうか?」


「結構です。そうでなければ、この場を用意した意味がありません」


「長三郎よ、また釣り上げるというのだな?」


「ええ、奴の首を取るしか、織田家の勝ちはありません」


 こちらが有利なのは、今川義元の策が露呈しているとは思われていないことだ。


 俺は懐に手を入れ、サイコロに触れる。


 これまで、策謀では先手を取られ続けていた。織田家をさんざん苦しめた太原雪斎・今川義元の師弟には遠く及ばない未熟者ではあるだろうが、窮鼠猫を噛むことを教えてやる。教授の代金は、今川義元の首だ。

 まず、「室町殿 弐」を「半兵衛」にサブタイトルを変更しました。


 そして、象耳泉奘が京で出したかった人物になります。わかった方はいらっしゃったでしょうか? むしろ、象耳泉奘って誰だという方々の方が多いと思います。知っていた方がいれば、かなりの今川通ですね。私はこの作品を書き出す頃まで、まったく知りませんでした。

 永禄二年だと、象耳泉奘はまだ泉涌寺の住持になっていない時期ではあるのですが、そこに滞在している設定です。

 また、象耳泉奘は今川義元の庶兄ではないということが主流になっていると判断したので、今川家の庶流としました。


 もう一話で京の話はお終いの予定です。その後は尾張に戻ります。


 それでは、また拙作にお付き合いくださったら幸いです。

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